泥沼編11話 優しい悪魔の課す試練
面会室の前で大きく深呼吸する。このドアの向こうに娘が、リリスがいるのだ。
「い、行くぞ。大丈夫、取って喰われたりしない……はずだ。」
意を決して室内に入り、強化ガラス隔板の前に置かれた椅子に座る。しかし、視線を上げる勇気が湧いてこない。
「……久しぶりね、パパ。思ったよりも元気そうで安心したわ。」
娘は私を心配してくれていたのだ!思わず顔を上げた私が見たものは、この上なく意地悪で冷淡な顔だった。
「と、言われるのを期待してしてたんでしょ? 本当に馬鹿ね。私がパパの心配なんかする訳ないじゃない。自動エサやり機のセットを忘れて旅行に出掛けたのに、ハムスターがまだ生きてたって感じかしら。まあ実際はハムスターじゃなくてドブネズミな訳だけど。」
あら、生きてたのね、といったところか……
「ドブネズミのような逞しさは私にはないよ。」
「人間、苦労はするものね。パパが"自分はドブネズミ以下の存在だ"と自覚する日が来るとは驚きだわ。収容所には粗末な食べ物しかないはずだけど、何か悪いものでも食べたの?」
看守がいなければ、"あいにく昨日のランチは天然物のポークカツレツだった"と教えてやりたいものだ。
「以前よりも栄養バランスは取れているよ。味はお察しだけれどね。」
「そ。看守さん、席を外して頂けるかしら。ウォーミングアップが終わったから、本気で罵倒してやりたいのよ。」
まだ本気ではなかったのか。これは義父より口が悪いかもしれないぞ。公爵の縁者として扱えという通知は看守にも届いているらしく、娘に向かって敬礼してから、そそくさと退室してしまった。
「じゃあ言葉のボクシングを始めましょうか。親子である事は忘れて、というか、私は親子だなんて思ってないんだけど、遠慮なくかかってらっしゃい。」
「……少しでいいから遠慮はしてくれないか。私は弱い立場なのだよ……」
「あら、年端も行かない
こうして地獄が始まった。言葉の速射砲の前に私は防戦一方、明らかに娘は楽しんでいる。
「まだよ、パパ。10カウントは鳴ってないわ。」
間を隔てる強化ガラスを指先でタップし、ガックリうなだれる。レフェリーがいればTKOを宣言していただろうな……
「ちょっとインターバルだ。これは"言葉のボクシング"なのだろう。」
サンドバッグにされながらでも、一つだけわかった事がある。娘が大人しく研究所に行ったのは"面倒だったから"だと。リリスは10にも満たない年でも、その気になれば私を追放する事だって出来たのだ。殺す価値もないし、関わるのも面倒。天才過ぎる娘は人生に退屈し、何もかもに飽きていただけだったのだ。……そんな娘を変えたのは天掛公爵なのだろう。
「第2ラウンドを始める前に、少し真面目な話をしておこうかしら。パパ、正直な…」
「パパと呼んでくれるのは嬉しいが、私に父親の資格はないよ。」
罵倒されながらも嬉しい気持ちがあったのは、リリスが"パパ"と連呼してくれたからだ。
「父親業が資格制になったとは聞いてないわね。導入を検討すべきだとは思うけど。」
「もし資格制になれば、私は親にはなれていないな。確実に落第している。」
「同感ね。でも呼び方は変えないわよ。今さら"ノアベルトさん"とか、"
それで犬畜生ではなく狗畜生なのか。リリスらしいこだわりだな。とはいえ……
「……狗畜生は勘弁してくれ。私は人でなしだったかもしれないが、人間に戻ろうと努力している最中なんだ。」
「そんなパパにビッグチャンス到来よ。」
「ビッグチャンス?」
「パパが望むのなら私が追試を実施してあげる。父親に戻れる最後の機会よ。」
「受ける!!受けさせてくれ!!」
「あら。試験の内容を聞いてから返事した方がいいと思うけど。」
どんな試験、試練だって受けるさ!地獄に垂らされた蜘蛛の糸を掴まないはずがない!
「私がリリエス・天掛になる日まで"誰も欺かずに生きる"、それが私の出す試験よ。あ、私が結婚してからなら欺いてもいい、なんてレトリックは認めないから。パパの執行猶予は生涯続くんだからね!」
自分が言葉尻を捉える名手だからといって、私もそうだとは限らないんだぞ……
「やってみる。私は生涯、誰も欺かない。他人はもちろん、自分自身もだ。……ところでリリスは天掛公爵と結婚するつもりなのかい?」
まさか公爵は幼女趣味だったりしないだろうな?
「つもりではなく、確定事項よ。もちろん、パパの許可なんかいらないから。例え西から太陽が昇ろうとも、私と少尉は夫婦になるの。不名誉の塊を式には呼べないけど、録画ぐらいは送ってあげるわ。涙しながら拝聴なさいね。」
リリスが確定事項だと言うのならば、そうなのだろうな。義父に匹敵する天才だ、誰にも止める事など出来ない。
「そうか。幸せになるんだぞ。……アリエスの事は本当にすまなかった。詫びたところで許される事ではないのだが……」
私が狗畜生でなければ、アリエスは生きていた。娘の挙式に出席する事だって出来たのだ。
「……ママを見殺しにした事に関しては、私も同罪よ。過度な飲酒と違法薬物、男漁りを改めさせようとしたのは最初だけで、すぐに諦めた。あの頃の私は、馬鹿と見做した人間には、親でも関わりたくなかったのよ。でも、生きてさえいれば、ママだって変われたかもしれないのに……」
「これだけは断言しておく。未必の故意の責任は私だけにある。私は爵位と財産を目当てにアリエスに近付き、破滅するのを放置した。リリスには何の責任もないんだ!」
「……私はママに"パパは婿養子で伯爵家の血は引いていない。あんな碌でなしは追放すればいいのよ"って唆しもしたわ。」
「そう言われるだけの事を私はやった。実現しなかったのが不思議なぐらいだ。リリス、頼むから母親の事で自分を責めないでくれ。悪いのは私なんだ。」
「そうね。パパが全部悪い!」
そう言って笑った娘の顔を、私は生涯忘れないだろう。この笑顔が、弱い私の道標だ。
──────────────────
面会時間が終わり、戻って来た看守に連れられて、パパは面会室から退出した。
パパは真人間になれるだろうか?……それはわからない。ここには騙せる女もいないし、男はパパを蔑む捕虜と職員だけ。生きる為に強制的に人格を矯正される世界なのだ。本当の試練は、収容所を出てから始まるのだろう。
ダメ親父再生計画は動き出したばかりだ。動機は"少尉の心を軽くしてあげたい"であったとしても、始めた以上は私の責任。パパに更生か破滅かを、選ばせねばならない。
「次の捕虜を連れてきてよろしいですか?」
看守さんの声で我に返る。まだ面会は終わっていないのだった。
「ええ、お願い。また席を外してもらえるかしら?」
「所長から"可能な限りの便宜を図れ"と申し付けられております。」
少尉名義の通達は絶大な効果があったみたいね。覚えとこっと。
看守さんと入れ替わりに入って来た銀髪碧眼の捕虜は、何かいい事でもあったのか、ニヤニヤしていた。
「久しぶりだな、お嬢ちゃん。」
「シャペル軍曹には面倒な事を頼んじゃったわね。苦労したんじゃない?」
「面倒がない事はないが、苦労に見合う報酬は受け取ってるからな。監視付きとはいえ週に一度の外出許可に、花壇や食い物、その他色々。お陰で快適な収容所ライフを送れてる。あんがとよ。」
「礼なんて言う必要はないわ。ギブ&テイクが世間の基本よ。さっき会った感じじゃだいぶ反省してるっぽいんだけど、軍曹の目から見てどう?」
「修道士だってあんな生活はしちゃいないよ。最近あった事から話していくから賢い頭で判断してくれ。お嬢ちゃんもよくご存知の異名兵士、"殺人機関車"が図書室に来たんだが、ノアベルトは武士道に関する本を薦めたらしい。その理由ってのがだ…」
私はこのベテラン兵士にパパの護衛と観察を依頼した。場数を踏んだ精鋭兵は巧みな嘘でパパを欺き、似たような境遇だと信じ込ませている。思慮に欠けるパパは嘘の経歴を見抜けなかったみたいね。少し頭が回れば、"庇ってくれる同居人が、自分と同じように家族に対する罪悪感まで抱えている"なんて出来すぎだと思うでしょうに。
パパの近況を聞き終えた私は満足した。シャペル上級軍曹は抜け目がなく、観察力にも優れている。
「さすが"達人"トキサダ推薦の兵士ね。よく観察してるわ。パパにホラ話を信じ込ませる手管も含めて、大したものよ。」
「………」
この顔……ひょっとして? 少尉は嘘みたいな現実を生きている。同じ事がパパに起こったっておかしくはない!
「シャペル軍曹、あの話ってまさか!」
パパを騙す為に考えたフェイクではなく、事実だったのね!
「そうさ。お嬢ちゃんまで騙して悪かったな。」
「いいのよ。奥さんとお子さんは、気の毒だったとしか言えない。」
使い古された慰めの言葉なんて、きっと気休めにもなってないんだろうけど……
「依頼を引き受けた本当の理由は、娘が生きていればお嬢ちゃんと同い年だからだ。お嬢ちゃんみたいな吃驚する程の器量よしじゃなかったかもしれんが、俺にとっては世界一可愛い娘だった。」
「シャペル軍曹や私と同じ、
爵位を目当てに貴族の令嬢を誑かし、実の娘まで売って出世を企んだ卑劣漢なんて、誰だって守りたくない。だけど、亡くした娘と同い年で、髪と瞳の色までそっくりな私の依頼を軍曹は断れなかったのだ。
「わかってるんだ。娘とお嬢ちゃんは赤の他人だって。けどな、娘が"力を貸してあげて"って言ってるような気がしてな。俺には依頼を引き受ける理由があったのさ。」
知りもしない誰かに成り代わって心情を述べるのは無責任、それが私の信念だ。
「天国で暮らしてる奥さんやお子さんがどう思っているのか、私にはわからない。今の私と同じ気持ちでいてほしいと思っているけれど。シャペル軍曹には心から感謝しているわ。……ありがとう。」
「お嬢ちゃんは本当にいい娘だな。ノアベルトが羨ましいよ。」
「ふふっ、罵られてみたくなった?」
「それは遠慮しておくよ。こう見えてもウェハースみたいに脆いメンタルなんでね。」
嘘おっしゃい。軍曹は大きな傷を抱えながら、強く生きようとしている。自分では気付いていないんでしょうけど、失った妻子の為に価値ある仕事をしておきたいのよ。だから、無意味には死ねなかった。
「リリス、まだ~? およよ、リリスパパってこの人だっけ?」
末っ子気質の姉もどきが乱入してきたか。退屈させたかもしれないけど、しょうがないわねえ。
「パパはもっとクズよ。この人はまだ上等な部類。」
「……マジで口が悪いねえ。こんな気立てのいいコを悪魔呼ばわりとは世間も見る目がねえと思ってたが、やっぱり悪魔だったか。」
「私は"悪魔の子"よ。世間の評価は的を得てるわ。」
「らしいな。お嬢ちゃん、俺は"ノアベルトの友達"だ。万事、任せておいてくれ。」
ノアベルト・ヒューゲルは運がいい男みたいね。生まれつき容貌に恵まれ、やらかしてどん底に落ちてもなお、マルセル・シャペルのような心強い友を得られたのだから。
時期を見て、文弱なパパと精鋭のお友達が、一緒に出所出来るように取り計らおう。軍曹ならパパが道を誤ろうとしても止めてくれるはずだ。
パパ、わかってるわね?……もし友の諫めも聞かないようなら、今度こそ本当に破滅するだけよ。
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