侵攻編35話 文弱軍人、最後の意地



「我々は最後の突撃を敢行する!皇帝陛下万歳!」 「……これ以上、賊軍の攻勢を支えられそうにない。故郷の家族によろしく伝えてくれ。」 「帝国騎士に後退はない!リングヴォルト帝国に栄光あれ!」


司令本部に飛び交う通信、前線の悲痛な声はオペレーター達を絶望させた。口にこそしないが、皆わかっている。"この戦いは負けだ"と。


誰が最初にそれを口にするかが問題であったが、その役を引き受けたのはアードラーの副官、ミッテンハイム大佐であった。


「閣下、戦況は思わしくありません。ここは転進を検討すべきかと。」


「卿はそうしろ。ワシはここに残る。」


アードラーは首を振った。出来るだけ見ないようにしていたが、司令部のメインスクリーンは巨大で、目を閉じない限りは嫌でも目に入る。その画面には、魚群のように赤と青の勢力が表示されていた。敵性勢力を示すレッドマーカーは津波のような勢いで街区を浸食してゆき、市街中枢にあるこの司令部への到達も、もはや時間の問題。撤退するべき局面……いや、撤退するにしても、もう遅いであろう……


「捲土重来という言葉もございます。今日負けても、明日勝てばよいのです!」


我慢しきれなくなったミッテンハイムは、とうとう"負け"という言葉を口にしてしまった。アードラーは破産寸前のギャンブラーのように奇跡を信じて兵士チップをベットし続けただけなのであるが、ミッテンハイムにはそれがわからなかった。彼の目には、事務屋の浅知恵、戦術眼の欠如と映っている。


"……捲土重来、そんな機会があるものか"、駐屯軍総司令は心中で慨嘆する。


アードラーには戦術眼が欠けていたかもしれないが、ミッテンハイムには政治勘が欠けていた。帝国最大の植民都市群を失い、甚大な数の将兵を死なせて国に逃げ戻る。例え命を長らえたとしても戦犯として蔑まれ、死にも優る屈辱が待っているだけだろう。ミスを犯したライバルを貶め、出世してきたアードラーは、帝国内の力学を理解していた。今まではする側だったが、今回はされる側だと。


そして今回ほどの失態を演じた高官を、アードラーは知らない。失脚は不可避、彼にとって政治生命とは生命そのものに等しい。


「閣下!撤退のご決断を!」


転進、と言葉を飾る余裕もなくなったミッテンハイムが叫ぶ。高齢の中将とは違い、壮年の大佐にはまだ未来がある。無論、生き残れれば、の話ではあるが……


「陛下から託された植民都市を軒並み失い、どのツラ下げて帝国へ戻れようか。ミッテンハイム、後の事は卿に任せる。アシュレイと合流して、捲土重来とやらを目指すがいい。」


椅子から立ち上がったアードラーは、司令部内にある私室へ向かった。


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アードラー私室には暖炉が設えてある。この街に赴任してきた時、わざわざ拵えさせたものだ。暖炉の上に置いてあった豪奢な拳銃を手に取り、弾を込めようとしたアードラーの手が止まる。純金の額縁の中に収められている家族の写真が目に入ったからだ。


同じ死を選ぶにしても、服毒の方がよかろう。私の遺体は帝国に返還されるはずだ。であれば、家族に眉間を撃ち抜いた姿を見せたくない。それに死を選ぶにしても、一瞬とはいえ痛みは感じたくないものだ。


アードラーは拳銃を置いて壁の額縁を取り外し、写真を眺めやった後、何もない壁面に手のひらを合わせた。


「……まさか、これが役に立つ日が来てしまうとはな……」


壁の隠し金庫には安楽死用の毒薬が隠してある。要地に赴任する帝国重鎮はそうしていると皇帝から教わり、用意していたものだ。


アードラーは毒薬の小瓶をマホガニーの机に置き、水牛の皮と角で飾られた椅子に腰掛ける。そして机の引き出しからブランデーを取り出し、瓶のまま口にした。グラスに注がずに酒を飲むのは貴族らしくない振る舞いであったが、アードラーは少しでも死の恐怖から逃避したかったのだ。ゆっくりと酒を飲んでいる時間はもうない。


グビグビとブランデーを胃に流し込み、半分ほどを飲み干したあたりで、アードラーはようやくグラスを取り出した。酒に強くないアードラーは酔いと恐怖で震える手でグラスに酒を注ぎ、毒薬を垂らす。定まらぬ手先のせいで、高価な絨毯に酒と毒がこぼれてしまったが、これから死ぬ身であれば、気にする必要もない。


「ふん!……これが本物の末期の酒だな。」


アードラーは呟き、自嘲した。栄えある帝国貴族に生まれ、成功に成功を重ねてきた。それが無能どもに足を引っ張られ、この体たらくとは……


この惨劇を招き寄せたのは武辺狂のメルゲンドルファーであり、その弟子だったレームだ。決して、私の責任ではない。あの馬鹿二人が照京と尾羽刕をキチンと守っていれば、こんな事にはならなかった。


「メルゲンドルファー、レーム、おまえらは地獄に落ちろ。私は天国に行き、陛下をお待ちする。」


死者へ呪いの言葉を投げかけてから、意を決して毒薬入りブランデーを手にする。ワナワナと震える手は鉛のように重く、軽いグラスを持ち上げるのがままならない。


手の震えを抑えようとするアードラーの目の前には卓上型パソコンがあり、そのディスプレイに指輪の紋章が浮かび上がった。指輪はリングヴォルト皇帝が使用する紋章である。


「……アードラーよ、決戦に敗れたようだな。」


重々しく威厳に満ちた声、アードラーはいつも通りに頭を垂れる。


「申し訳ございません、陛下。力が及びませんでした。」


ブランデーグラスに目をやった皇帝は、ゆっくりと頷いた。


「……それでよい。卿の家族は決して粗略に扱わぬ。安心して死ぬるがよかろう。」


「ありがたきお言葉。帝国侯爵ヘルマン・アードラー、陛下のご厚情に感謝の言葉もございません。」


やはり私は陛下にとって特別な存在であった。忠臣の死を看取る為に、こうして通信を入れてくださるとは……


自分の人生は正しかったのだ。最後こそこうなってしまったが、帝国を支えた功臣として列せられるに違いない。そう考えたアードラーは、死の恐怖を薄められた。


「アードラー、後事はミッテンハイムに託したのだろう?」


「はい。いささか能力が不安ではありますが、血筋と階級を考えれば、妥当な人選かと。」


「さもあらん。アシュレイにはその旨を伝えておこう。それと、例の件は滞りなく済ませておいたであろうな?」


滞りはあったのだが、なんとか済ませておいた。今さら些細な遅れを報告するまでもあるまい。荷が無事に帝国に届けば、何の問題もないのだから。アードラーは大きな見栄を張るために、小さな嘘をつく事にした。


「それも間違いなく。積載出来るだけの金塊、美術品を載せた極秘船団は、既に出航しております。」


放棄した植民都市、それにこの朧京から、持ち出せるだけの金品全てを帝国に送る。それが皇帝から受けた極秘命令であった。尾羽刕が陥落した時点で、集められるだけの金品をかき集め、朧京が包囲される前に武装船団を送り出しておいたのである。


「よくやった。賊徒に金品など与えてもつまらぬ。帝国が築いた重工業プラントは全て爆破済み、貧民だけが群れる廃墟を与えて、悦に入らせておけばよい。」


焦土作戦、それが皇帝の決断だった。つまりはアードラーの敗北を予期していたという事である。想像力に欠けるアードラーは、露とも知らぬ事ではあったが……


廊下の前を走り抜ける兵士達の靴音が、司令部に賊軍が迫ってきた事を告げた。


「……陛下、お別れのようです。私の生体反応が消えれば、機密データも全て消去されますのでご安心を。」


自害するのにこの部屋を選んだ理由は、機密情報を始末する必要があったからである。今、通信に使っているコンピューターこそが、あらゆるシステムを制御するホストコンピューターなのだ。


「うむ。卿の最後は、余が見届けてやろう。」


「ありがとうございます。……皇帝陛下万歳!帝国に栄光あれ!」


皇帝に勇気をもらったアードラーは毒杯を呷り、椅子の背もたれに身を預けた。


アードラーの顔が土気色に変わり、毒が本物であった事、もう助からぬ事を確認した皇帝は、深々と嘆息した。やっと我慢する必要がなくなったからである。


「……おまえなどを重用した事は、余の一世一代の誤りであった。算盤勘定しか能のない文弱を、軍の要職に就けてはいかんな。」


己が誤りなど認めた事がない皇帝が、非公式とはいえ失敗を認めた初の事例である。アードラーにとっては残酷極まりない事例ではあったが……


「……へ、陛下……い、今なんと……」


安楽死用の毒物だから、痛みはほとんどない。アードラーの感じた痛みとは、心の張り裂ける痛みであった。


「おまえは無能だ、と言ったのだ。メルゲンドルファーとアードラー、どちらかを生かせるのなら、余は間違いなくメルゲンドルファーを選ぶ。そのメルゲンドルファーにしても、おまえよりはマシ、という程度ではあるがな。無能は無能らしく、屍人兵製造の責任を被って、地獄に堕ちるがよい。公式には否定してやるが、はそうは思わぬだろう。」


朧京に屍人兵の製造工場があった事は、アードラーの預かり知らぬ事であった。王宮の技術者から工場の存在が明かされたのは、街が包囲されてからなのだ。それまでは"非接触アンタッチャブル地域エリア"として、管轄を任されていなかったのである。


「……ワシが無能じゃと? ならば貴様も無能だ、ゴッドハルトよ!」


結果論から言えば、いや、結果論など関係なく、忠誠を尽くした男は安らかに死なせてやるべきであった。信じ切っていた者に裏切られた怒りは恐ろしい。死に瀕したアードラーは、自分をこんな状況に追い込んだ剣狼よりも、敬愛していたはずの皇帝ゴッドハルトが憎らしかった。


「何をしておる、アードラー!疾く死なぬか!」


キーボードを叩くアードラーに皇帝は怒鳴った。もうアードラーが助からない事は確実であったが、最後の最後、皇帝の裏切りを予期していたかのように、事象は動いていた。震える手でグラスに注いだ毒物は定量より少なく、先に流し込んだ瓶半分ほどのブランデーが毒の回りを遅くしていたのだ。


……裏切りに報復する僅かな時間が、アードラーには残されていたのである。


「何をしておるか、じゃと?……極秘船団の炎素エンジンを停止させる信号を送っておるのだ!まだ届く距離にいるはずじゃからな!」


腹立ちまぎれの代償が高くつく事を皇帝は悟ったが、その身は遠く離れた王宮にあり、どうにも出来ない。戦争以外には才幹を持つアードラーは、膨大な金品を積載した船団が逃亡した場合に備え、再起動が不可能なエンジン停止装置を船に仕込んでおいた。また、足のつかない船を準備するのに手こずって、船団の出航は予定よりも遅れていたのだが、それを黙っていたのも幸いした。


「よさぬか!賊徒に金を渡してなんとする!」


「賊徒ではなく、同盟軍じゃろう!…き、貴様の…足を……引っ張って……やるわ……」


信号を送信し終えたアードラーは卓上の羽根ペンを取り、メモに船団の座標を書き記す。


「メモを破れ!家族がどうなっても良いのか!」


アードラーは答えない。執念の炎を燃やし尽くし、もう体に力が入らないのだ。力なく椅子から崩れ落ちた老人は、シミが点々とする絨毯に倒れ込む。


……間違いだらけの人生であったな。こんな俗物に忠誠を捧げるとは……


遠のく意識の中、アードラーは思った。メモを破る力はもう残っていないし、残っていても破る気はない。


ゴッドハルトの性根は見えた。例えメモを破り捨てたところで、皇帝は家族に報復するだろう。


生前は犬猿の仲だったメルゲンドルファーに、アードラーは会いたくなっていた。反りの合わない男だったが、皇帝への忠誠心だけは本物だと認めていた武辺者に、虚構の中に潜んでいた真実を教えてやりたかったのだ。


さてどんな顔をするものか?……もし地獄で会えたら、二人で嘆き節でも歌ってヤケ酒でも酌み交わそう。


「文弱の 阿呆が見せし 猿芝居 わらえ閻魔よ 地獄の底で」


この島の流儀で辞世の句を詠めば、こんなところか。細かいルールは知らんが、大体は合っておるじゃろう。思えば興味深い文化を持つ地であった。もし生まれ変われるのなら、学者として再訪したいものよ……




ヘルマン・アードラーは思い浮かべた辞世の句を抱きながら、この世を去った。彼はクレイジーポエマーと揶揄される"達人マスター"トキサダよりは、詩人であったらしい。


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