侵攻編17話 脆弱な肉体に宿る強靭な魂



アリングハム公サイラスの戦闘細胞浸透率は僅か2%、そして元々の身体能力も決して高くはない。いや、有り体に言えば"並以下"である。ここまで戦闘能力が低い兵士は普通、兵站部門に配属される。


常人に毛が生えた、いや、が生えた程度の力しかないサイラスだったが、明晰な頭脳の持ち主であり、優れた戦術理論を有していた。であるがゆえに、"智将"と謳われ、指揮官として名を馳せている。


ダムダラスの会戦で剣狼に敗れ、雪辱を期したザインジャルガ攻略戦でも敗北を喫して虜囚の身となり、高値で推移していたサイラスの株価は大幅に下落した。捕虜交換で帰国出来ても、名声の下落は派閥内での発言力の低下を招く。しかし、策士サイラスはいささかも気落ちしていなかった。終わった事はどうにも出来ない、敗北を糧にもう一度飛躍するしかないという強い意志、言い方を変えれば開き直りが彼には出来た。脆弱な肉体に強靭なメンタルを内包する男、それがサイラス・アリングハム公爵だった。


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「ブランドン、物事には必ず二面性があるものだ。手痛い敗北を喫しはしたが、何も得られなかった訳ではない。」


南エイジアに向かって進軍する艦隊、その旗艦の艦橋で、サイラスは腹心のブランドン・ヘインズ男爵に説いてみせた。


「なにか収穫があったのですかな?」


ヘインズの顔は冴えない。派閥内での発言力は低下し、率いる師団からも落ち目のサイラスに代わって新たなナンバー2に躍り出たオルグレン伯の下に走る者が出た。失った物には心当たりがあっても、得た物の心当たりはなかったのだ。


「多いにあったよ。まず、私自身の成長だ。私が自信だと思っていたものは過信で、過信は油断を招く。戦地で趣味に興ずるなど、驕り以外の何ものでもない。思えばあの時の私は、ダムダラスでの敗北は何かの間違いだなどと、甘い事を考えていたのだろう。」


捕虜交換で帰国したサイラスは、山ほど持っていたカメラを全て捨てた。以来、一枚の写真も撮ってはいない。


「公爵の成長は何よりの収穫ですな。我々の指導者なのですから。」


「収穫はまだある。落ち目の私を見限って去っていった連中だ。雨天の友こそ真の友、敗北と引き換えに、人材のふるい落としが出来たとも言える。」


"玉石混交の大軍よりも、一枚岩となった寡兵"が、サイラスの持論。そして部下には公平だったサイラスの下を去った者はそう多くはない。良き君主でありたいと務めた平素の行動が、窮地に陥った彼を救った。まだアリングハム公爵の下には、相当な数の将兵が残っている。


「なるほど。しかしノルド人でありながら公爵の下を去るとは許せぬ。さんざん世話になっておきながら、恩知らずどもめ……」


ロンダル島には二つの民族がいる。南部のロンダニウムと北部のノルデッシュ。現在はロンダニウム王家に組み込まれているノルド人であるが、かつては独立した王国だった。サイラス・アリングハムは、併合されたノルデッシュ王家の血を引く男である。


連敗を喫する前まで、戦果を上げて派閥のナンバー2に駆け上がったサイラスは、武勲を背景にノルド人の地位向上を図ってきた。併合した側の民族は、併合された民族より優位な立場にある。ロンダル島においてはロンダル人とノルド人は、公平に扱われていなかった。


「連合王国となってから3世紀以上が経過しているのに、ロンダル人は未だに征服者気取りだ。ネヴィルやオルグレンの覚えがめでたければ、"名誉ロンダル人"になれるとなれば、恩を忘れたくもなるだろうさ。」


オルグレンより爵位が高いマッキンタイア侯爵を、サイラスは歯牙にもかけていない。軍服の階級章と金モールを外せば、何ほどの事もないと見下ろしている。


「名誉ロンダル人…フン!ノルデッシュの誇りを捨てた走狗どもめが!」


「……格差を是正させて、真に一つの王国になる。それが現実的な手段だと思っていたが、私の見込みが甘かったようだ。生前、父や祖父が言っていたように、ノルド人の王国を復活させる。それ以外にノルドの民を救う方法はない。」


敗北した途端の手のひら返し、サイラスは自分がネヴィルにとって都合のいい手駒でしかなかった事実を実感した。王宮の密偵からの報告では、ロンダル王ネヴィルは御鏡雲水とサイラス・アリングハムの捕虜交換を相当に迷ったらしい。無敗の戦術家ではなくなったサイラスを帰国させずに、北部地方の支配者に自分の腹心を据えようかと検討したが、民心の離反を招くデメリットの方が大きいと判断しただけだったのだ。


ほぼ身分の釣り合った者同士の捕虜交換であったから、身代金は生じていない。しかしネヴィルはサイラスに対し、ロンダル王宮へを納めるように命令した。サイラスの支払った巨額の金銭は、雲水を捕らえた朧月セツナとネヴィルの間で折半されるのだろう。ネヴィルはさらに、サイラスの名を使って、北部地方に戦没者追悼特別税を課する事も決定した。要は、ザインジャルガでの敗北はサイラスの責任なのだから、軍の立て直し費用は北部で負担しろ、という事だ。


この仕打ちが若き将帥の心に火を点けた。ロンダル閥がガルム閥に次ぐ規模に成長するにあたって、サイラスの果たした功績は小さくない。勝っている間はそれなりの待遇を保証するが、負けたら容赦なく搾取する。兵士としては最弱のサイラスを、武勇に秀でるネヴィルは軽く見ている。


意を決したサイラス・アリングハムは、一ヶ月程前に側近を集めてノルド人王国の復活を目指して戦う事を宣言し、まずは失地の回復を目論む。提携相手と考え、密かに接触していた帝国皇女からの誘いは、渡りに船であった。


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誰よりも速くバルミアン市近郊まで進軍したサイラスは、瞬く間に3つの都市を陥落させた。小都市とはいえ、3つもあればそれなりの収益にはなる。同盟にも、利権を貪る特権階級はいるからだ。彼らの財産を没収したサイラスは防衛態勢を整え、自身はバルミアン市に帰投する。


ヘインズを伴ってバルミアン市長公邸を訪ねたサイラスは、薔薇十字総帥との会見に臨む。まだ少女と言っていい総帥の傍らには、仮面の参謀役の姿もあった。


「久しぶりだね、ローゼ姫。まずは挨拶を後回しにした無作法を詫びておくよ。」


椅子に座る前に優雅に一礼するサイラス。もちろん、非礼を詫びる気持ちなど微塵もない。


「どうぞお掛けください。アリングハム公が先に挨拶などに参られたら、私は失望するところでした。」


椅子に腰掛けたサイラスは満足げに笑った。ローゼ姫自身の考えなのか、それとも隣に座る髑髏マスクのアドバイザーの考えなのかはわからないが、少なくともこの少女総帥が時と場合を弁えたリーダーである事は間違いない。彼女はサイラス師団が社交辞令など後回しにして、神速で進撃した意図を理解している。


運ばれてきた紅茶と茶菓子、フォークの先でバウムクーヘンを突きながら、髑髏マスクは呟いた。


「……バウムクーヘンは内側ほど旨い。」


「その通りだね。遠慮なく茶菓子を頂こう。脳に糖分を補給しないとね。」


サイラスは死神に向かって頷いた。バウムクーヘンの内側、つまり素早く近隣都市を制圧すれば、その都市は最前線から遠ざかる。後からやってきた部隊がさらに先の都市を攻略するからだ。サイラスが挨拶を後回しにしてでも攻略を急いだ理由がそれである。最前線の都市は防衛コストが嵩む。領地は安全地帯にある事が望ましいのだ。


「陥落した照京以上の領地は取りたいところです。公爵、今後は薔薇十字と協力しながら進軍しましょう。」


ローゼ姫からの申し出は、サイラスにとっても望むところ。薔薇十字とサイラス派は利害が一致しているのだ。


「もちろんです。しかしながら我々の利益は確保した、これからは"他派閥に貸しを作る"べきでしょう。」


ネヴィルに対抗する為には、中小派閥と連携すべき。"智将"サイラスの戦略と薔薇十字の戦略も一致している。それがわからぬサイラスではない。


「聡明な方との会談は楽ですね。なにせ話が早いですから。」


"薔薇の聖女"もしくは"野薔薇の姫"と呼ばれ、派閥を超えて将兵の信望を集めるうら若きリーダーか。同盟にも"薔薇姫"と呼ばれる有能な都市総督がいるが、どちらの器が上だろうか? やはりこちらの薔薇だろうな、とサイラスは思った。


「お褒めに預かり恐悦至極。ところでローゼ姫にはまだ婚約者がおられないそうですね?」


「ええ、まだ17の小娘ですもの。」


「私などいかがですか? 10ほど歳が離れていますが、貴族の結婚では珍しくもない。」


「うえっ!? ボクと公爵が、ですか?……そ、その…」


やっと年相応の顔が見られた事にサイラスは安堵した。こんな可憐な少女が重荷を背負わなければならないとは、乱世とは残酷なものだ、と心中で呟く。


「ハハハッ、まあゆっくりと考えてください。私が30になる前に答えを出してくだされば結構ですよ。」


軽い気持ちで口にしただけだが、あながち冗談でもない。短慮な皇子と聡明な皇女、どちらが次期皇帝に相応しいかは自明の理だ。帝国の後押しがあれば、王国の復興は容易くなる。夫がノルド王国の国王、妻がリングヴォルト帝国の皇帝、この組み合わせなら機構軍すら手中に出来る。


「いえ、答えは今出しておきます。公爵に不満がある訳ではありませんが、ボクの返答は"ノー"です。ごめんなさい。」


迷う事なくキッパリ断られたサイラスは苦笑した。


「こちらこそ突然不躾な事を言いましたね。どうか今の話はお忘れください。」


サイラスはあっさり政略結婚を断念した。理由は二つ、誇り高きノルドの男として、結婚に頼った権力掌握など恥であるとの思いに至った事。もう一つは、姫の隣に座る男が猛獣の如き眼光でサイラスを睨んだからである。



"姫を権力掌握の道具に使う事は許さん!"、死神の眼光が示す意味を瞬時に読み取ったサイラスは、確かに智将の名に恥じぬ英才であった。


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