侵攻編4話 雨の匂いを嗅ぐ肺魚



翌日の朝になっても、シオンと過ごした休日の余韻に浸っている。オレは幸せをじっくり噛み締め、何度も何度も反芻する粘着質な男なのだ。


仕事がなければ午前中いっぱいは幸せを噛み噛みしていたに違いないが、そうは問屋が卸さない。まずは気が進まない仕事から片付けよう。オレは嫌いなおかずを最初に食べる主義でもあるのだ。


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新政府は軍司令部の近くにあるビジネスホテルを丸ごと借り上げている。臨時の捕虜収容所に使う為だ。このホテルに収容されているのは指揮官クラスの高級軍人、戦闘能力が高い者が多いので、厳重な警備体制が敷かれている。秘書役としてシオンかリリスが帯同するのが常なのだが、今日はオレ一人で動く。とりわけ、嫌いなおかずとの対話は、リリスには聞かせたくない。


案内役の照京兵に導かれ、リリスの親父が軟禁されている部屋へ入る。オレの顔を見たノアベルトは椅子から転がり落ち、もつれる足で窓際まで逃げた。


「ヒイィィ!!け、剣狼!」


壁に背を預け、みっともない叫び声を上げる醜態に、心底情けない気持ちになる。わかってはいたが、爵位や階級を剥がれてしまえば、何も出来ない小物なのだ。


「娘の千分の一の度胸もない男だな、情けない。下がっていい、二人で話す。」


こんな軟弱が万人束になろうとオレの敵ではないと知る案内役は、頷いて室外に退出した。


「こ、殺さないでくれ!娘にした事は本当に悪かった!今は反省の気持ちでいっぱい…」


「黙れ!思ってもいない戯れ言を聞かされるのは不愉快だ。」


セロリとブロッコリーのごった煮か、おまえは!緑黄色野菜も人畜のおまえと一緒にされたら不愉快だろうがな。


「は、はいぃぃ!」


「おまえと長話をするのは精神衛生上よろしくないので要点だけ言うぞ。もう帰る国はない。ローエングリン伯爵家は廃絶され、皇帝の直轄領となった。言うまでもなく、身代金を払う者もない。」


「そ、そんな!」


「ノアベルト・の身柄は、近日中に捕虜収容所に移送される事になる。荷物もないから荷造りは必要あるまい。」


「た、助けてください!私は慰み者になどなりたくない!」


「……わかった。助けてやろう。」


「え!? ほ、本当に……ですか?」


意外な返答に戸惑いを隠せないノアベルト。そりゃそうだな、おまえに恨みはあっても借りなどない。


「収監は避けられないが、一番マシな収容所を選んでおいた。分を弁えた振る舞いをしていれば、リンチも懲罰もない。おまえはこの上なく尻の穴の小さい男だが、ソイツも無事に済むだろうよ。新しい仕事は、収容所内にある図書館の司書だ。昔取った杵柄だから、問題なかろう。」


リリスの話じゃ婿養子になる前は、帝国図書館に勤務していたらしいからな。


「ありがとうございます!ありがとうございます!」


「真面目に働いていれば、帰国が許可されるかもしれん。同盟への亡命を希望するなら、オレが口を利いてやってもいい。」


「何と御礼を言えばいいのか…」


「礼は娘に言え。オレはおまえなんざどうなってもいいんだ。」


嘘偽りなく、そう思っている。リリスを嫁にしても、おまえには事後報告すらする気がない。


「リ、リリスが……リリスが私の為に口添えを頼んでくれたのですか!あんな仕打ちをした私の為に!」


「そうだ。おまえの百倍の器量と頭脳を持ち、千倍の優しさを持った娘に感謝するんだな。」


これは不正確な表現だったな。まるでこの男にも優しさがあるかのように聞こえる。ゼロは千倍しようがゼロだってのによ。


「………私は…」


「話はこれで終わりだ。最後に一つ、警告しておこう。同盟への亡命が叶っても、おまえの動向は見張っているからな。もし唯一の取り柄である容貌を悪用して、リリスの母親にしたような真似をしでかしやがったら、死んだ方がマシだと思える罰を喰らわせる。女を食い物にして立身出世を謀る輩が、オレは大嫌いだ。」


返答は聞かずに背を向けて部屋を出る。小物が今後をどう生きようが、娘への仕打ちがなかったコトにはならない。贖罪するもしないも勝手にしろ。オレの興味の範囲外だ。


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このホテルにはまだ用がある。部屋の外で待っていた兵士に、次の捕虜のいる部屋に案内してもらい、今度は扉をノックする。おっと、入室の前に不機嫌面をリセットしとかねえとな。


「どなたですか?」


「戦場で卿を倒した者だ。入ってもいいかな?」


「!!……どうぞお入りください、龍弟侯。」


入室する前に案内役の肩を叩き、手筈通りに動いてもらう。フライング気味のオーダーだが、ここからの仕事には自信があるから問題ない。合図された案内役は、一礼してから階下への移動を開始した。


「失礼する。」


入室したオレに会釈する帝国騎士、レオナ・ヘンラインの左腕は包帯で吊されていた。


「腕の具合はどうだ?」


「綺麗に折って頂いたので、じきに治ると思います。」


"折って頂いた"は、ないと思うが。


「それはよかった。卿の主家と交渉をしてみたのだが……あまり芳しい報告は出来ない。」


「"私達に支払う身代金はない、もしくは相場に合わない雀の涙のような金額だった"のですね。安心しました。」


「安心? 命懸けでお家の為に戦った騎士に、捨て扶持以下の金額を提示する薄情者には、立腹するのが普通だと思うが……」


「誰もが侯爵のような主君ではありません。もし帰国が叶っても、私と部下を待っているのは慰労会ではなく、査問会です。龍弟侯、どうか部下達を帰国させないでください。酷い仕打ちが待っています。」


命を懸けた奮戦の代償が制裁か。切ない話だ。


「ヘンライン卿、部下達から聞いたのだが、卿は照京駐屯任務が終了すれば、除隊するつもりだったそうだな?」


「はい。赴任前に祖母が亡くなり、天涯孤独の身となりました。これまで禄を食んできた御礼として、駐屯任務だけは全うしようかと……」


祖母を害される恐れがなくなった彼女は、軍を抜けたがっていた。だが、部下達から強く慰留されて、最後の任務だけは全うしようと龍の島に赴任してきたのだ。部下達にしてみれば、横暴な上官との緩衝材になってくれていた彼女がいなくなれば、どうなるものやらわかったものではない。泣きの涙で慰留に努めたのだろう。


「最後の任務を全うした卿に、オレから二つの道を提示したい。一つは同盟市民として市井に生きる道。」


「私を釈放してくださるのですか!収容所送りではなく!」


「奪還戦で大量の機構兵を拘束したんでね。収容所がもう満杯なんだ。もう一つは、姉さんの護衛役として今一度剣を取る道だ。」


「龍弟侯の姉君……私を帝の護衛役に抜擢しようと仰るのですか!」


「不服か?」


「とんでもない!ですが私は帝国騎士です、周囲が認めるはずが…」


「周囲は知らんが、オレは認める。レオナ・ヘンラインは帝の護衛役に相応しい人間であると。」


「……龍弟侯の温情に応えたい気持ちはあります。ですが私はアシュレイ様に恩義のある身、恩人に剣を向ける訳には…」


「アシュレイ・ナイトレイドに剣を向ける必要はない。姉さんを守るのが卿の任務だ。剣神アシュレイの刃が帝の間近に迫るようでは、その時点で我々の負け。そうならぬように図るのは卿ではなく、オレの仕事だ。」


「……本当によろしいのですか? 敵国人だった私が帝のお側に仕えるなど、前代未聞です。それに私と龍弟侯は、ほとんど面識もない。どうして私を信用される気になられたのかも不可思議なのですが……」


「剣は言葉よりも雄弁に人格を語る。卿の高潔な人柄は、戦場で剣を交えたオレにはわかっている。」


カッコをつけてみたが、ちゃんとした理由もある。一緒に投降した部下達が口を揃えて、"自分はどうなってもいいが、副隊長にだけは御慈悲を。除隊するつもりだったレオナ様を軍務に縛りつけたのは我々なのです"と嘆願してきた。"雨天の友こそ、真の友"と言うが、人間は逆風、逆境に置かれた時に、その真実が露わになるものだ。


「帝の護衛役、謹んで拝命致します。私如きをそこまで見込んでくださった龍弟侯のお心に、全身全霊を以て応えましょう。」


「決まりだな。龍の島には"善は急げ"という言葉がある。レオナさん、今から姉さんに挨拶に行くぞ。」


「は、はい!あの、龍弟侯…」


「オレのコトはカナタでいい。レオナさんはもう仲間だ。」


「しかしですね、同盟侯爵である…」


「細かいコトはいいんだよ。オレは固っ苦しいのは嫌いなんだ。一緒に投降した部下達も、レオナさんが引き受けるなら、自分達も帝に剣を捧げると言っている。みんなで姉さんのところへ行くぞ。」


指を鳴らすと室外で待機していた騎士達が入室してきた。部下達と手を取り合って再会を喜ぶレオナさんだったが、すぐに表情を引き締め、その決意を確認した。


「皆、いいのか? 我々は故郷の人々からは、裏切り者と見做されるのだぞ。」


部下の一人が全員の心を代弁する。


「レオナ様、東方には"士は己を知る者の為に死す"という言葉があるそうです。騎士も士であるからにはそうありたいし、そうあるべきです。」


"士は己を知る者の為に死し、女は己を悦ぶ者の為に容づくる"、知己の語源となった言葉だ。豫襄よじょうのような硬骨漢が、この世界にも居たのだろう。


「皆の気持ちはよくわかった。世間の風聞如きで揺らぐようでは、信念とは呼べぬ。我らは信を貫く一念を以て、大龍君にお仕えするぞ!」


「「「「「ハッ!! 我らが剣を龍に捧げましょう!!」」」」」


レオナ・ヘンラインと5人の騎士が、姉さんを守る砦に加わった。オレは人材を登用する時には、同郷人というだけで優遇はしないし、異郷人だからって差別もしない。己が描いた理想を完全に実現出来てはいないかもしれないが、そうありたいとは思っている。


この人事には必ずハレーションが起きるだろう。孫娘を親衛隊に戻したい竜胆左近が真っ先に異を唱え、それに追従する者が出てくるに違いない。


"波平、物事を決める時には二つの手法がある。トップダウンで号令を下し、流れを決めてしまうやり方と、入念に根回しを済ませ、満を持してゴーサインを出すやり方だ。前者を連発するワンマンからは、いずれ人心が離れる。後者しか出来ない狸には、大改革など出来ない。時と場合によってトップダウンと根回しを使い分けられる者こそ、優れた指導者なのだ"


卓球に例えれば、前陣速攻型とカット主戦型ってところか。なんとなく聞いていただけの親父の言葉が今、オレを導いてくれる。


"何かを変えようとすれば、必ず反発が起きる。波平、異論や反論を恐れてはならない。そして、軽んじてもいけない。とは、とことん話し合え。だが、我欲や私情を異論反論に置き換えて反駁はんぱくする者には構うな。そういう輩は美辞麗句で飾りながら、"イヤだ!かく俺の言う通りにしてくれ!"と言ってるだけなのだからな"


ああ、わかってる。色々あったお陰で、ちょっとばかり人間の真贋が見えるようになってきた。それは親父に関してもだ。オレは親父の負の側面ばかりに意識が向いてて、全体を見ちゃいなかった。自分の経験、自分の哲学、自分の信念を息子に伝える気持ちだってちゃんとあったんだよな。


判断に迷った時に、オレは親父の言葉を思い出す。そして思い出す度に乾いてヒビ割れた心に、慈雨が降り注いでくるような気持ちになるんだ……


地球では肺魚のように地中で眠りこけていたが、央球に来たらいきなり戦乱の豪雨に巻き込まれちまった。親父よ、知ってるかい? 肺魚ってのは雨の匂いを感じ取ったら、惰眠から目覚めるんだ。泥の中を這いずりながら、オアシスを目指す肺魚のようにオレは生きる。



……わだかまりが消えた訳じゃないが、天掛光平はオレの父親だ。この世界に生き、この世界で死ぬと決めた以上、再会も和解も出来ないが、どうか平和な日本で幸せに暮らして欲しい。そう思えるようになったってコトは、オレもちっとは成長してるんだろう。


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