第8話 図書室
俺はナイフを手に、深呼吸を繰り返した。
まさか再び、これを使うことになるとは思わなかった。
岩に手を当て、人差し指の付け根にナイフを当てる。
一気に刃を押し込む。
めちゃくちゃ痛いし、全然切れない。
「くそっ、くそっ! んっぐっぎっぃいい!」
骨の隙間に刃をこじいれ、二枚貝でも開くように何度も滑らせる。
指の付け根に燃えるような痛み、なぜか肘に釘を打ち込まれたような激痛。
涙が勝手にぼろぼろ出てくる。
体重をかけて、どうにか人差し指を切り離す。
全身に鳥肌が立ち、鉄砲水みたいな吐き気に襲われて俺は吐けるものを全部吐いた。
「……“小さな痛みの忘却”」
激痛を忘れるための、ほとんど効果もないような回復魔法を放つ。
たちまち、背中に衝撃が走った。
「あッ、うが、なんっ……!」
筋肉が、骨が、変形していく。
熱を帯びて膨れあがり、皮膚を破って突き出す。
ばさりと、音がした。
黒く濡れた羽根が、目の前に落ちた。
「なんだよそれ、あああ、なんでこんな目に!」
俺の背中に、羽毛と三本の指を持つ、翼と腕の中間みたいなものが生えている。
五歳児の身体を侮りすぎていた。
回復魔法でさえ、まともに使えないどころか暴走している。
もしかして俺、昔は羽根が生えてたのか?
「いやもういい、翼は分かった、使いようあるかもしれないし」
地面に転がった人差し指を掴む。
ナイフで皮膚を、血管を、肉を削ぐ。
むきだしの骨は、黒曜石のように黒く、艶やかだった。
これは俺が、自ら魂にかけた呪いだ。
何度転生しようと、呪いは肉体を変質させる。
黒い骨を、捻る。
鍵を開けるように。
空間が裂けて、森に光が差した。
人差し指があった場所から血をぼたぼた流しながら、俺は割れ目に身体をこじ入れた。
十メートル四方の四角い空間。
書架には、かつて収集したスクロールが並んでいる。
封じられているのは、戦略級の破壊兵器から、暗殺用の魔法まで。
魔王六六六ツ道具――
と、眷属の一人は呼んでいた。
発動に魔力を要するものばかりだ。
ちょっとした魔法すら放てない今の俺に、使えるものはほとんど無い。
使いきりの道具でなんとかするしかない。
アルゴー公の到着次第、修道士たちは移送される。
異端審問にかけられ、聖殿騎士団にとって不利な証拠を自白させられるのだろう。
時間はない。
すぐにでも、あの連中を皆殺しにしなければならない。
◇
大陸西部に一大勢力を築く王国アルージャは、中央集権を進める過程で聖殿騎士団の財産に目をつけた。
魔王が生まれ、諸侯が聖地遠征で揉めている今こそ、騎士修道会を丸呑みにする機会だった。
“堅牢公”カノプス三世は、兄であるアルージャ国王“勇気王”ルイ五世の意を汲み、銀鼠騎士団を連れて出陣した。
「魔王、魔王ねえ。そうは言っても子どもでしょ。嫌な仕事だな」
胸壁の上で、ひとりの弩兵がぼやいた。
だが、実際に魔王を討つのは彼らの仕事だ。
まして相手は五歳の子どもと無力な
「気持ちは分かる。だがなあ、子ども一人と引き替えに、聖殿騎士団を食えるってんならな」
隣の弩兵が言った。
「そりゃあまあ、そうっすけど」
「そら、来たぞ。驚いたな。まっすぐ歩いてくる」
草原を、一人の子どもが進んでいた。
裂けた服は血まみれで、ふらついている。
「なんか……翼みたいの生えてないっすか?」
「だから魔王なんだろ。やるぞ」
従士たちは、一斉に構えた。
魔王はよたつきながらも躊躇せず、クロスボウが生む
ふと、魔王が顔を上げる。
居並ぶ従士と、目が合う。
「よーし、待てよ、待てよー。もうちょっと。いよっし、
生ぬるい風が吹く。
世界が、翳った。
弩兵たちは、それを見た。
傾きかけた太陽が、燃え上がる輪郭を残し、黒く塗りつぶされる。
空には昼の青と薄暮の紫と夜の黒が渦巻く。
青と緑にちらつく極光が、旗のように、翼のように震える。
「魔王だ! 魔王の魔法だ!」
「逃げろ、やべーよこれ、殺される!」
「おい、動じんなよ! さっさと撃ち殺せって!」
弩兵のうち、多くは恐慌をきたし、多くは敵意で心を鎧った。
もちろん、武器を捨てて逃げ出すべきだった。
一人の従士がクロスボウのトリガーに指をかける。
引き絞る。
だが、一矢とて放たれることはない。
太陽の輪郭がひときわ強く燃え上がり、無数の火の粉を吐き出す。
まき散らされた焔は、杭のような形を採って地上に降った。
「うわ、なん――」
弩兵の頭が砕け、飛び散る血と骨は炎によって瞬時に蒸発する。
支える頭を失った身体はでたらめな数歩を歩いた後、城壁から壕までまっすぐに落下した。
「太陽が、うわ、太陽って、なんだよそれ!」
「冗談じゃねえぞ、太陽に襲われてる!」
「殺せ、早く殺《ころ」げッ」
「撃て、撃てーッ! 魔王を止めろ、全滅する前に!」
弩兵の全滅には、十秒もかからなかった。
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