第7話 “堅牢公”アルゴー公アガス=アルゴー・カノプス三世

 銀鼠騎士団はアルゴー公国の公主、“堅牢公”カノプス三世が長男ヴェラと共に創設した。

 騎士修道会である聖殿騎士団とは異なり、いわば名誉組織だ。

 騎士団を構成する二十四名の騎士には、公国内の有力貴族のほか、他国国王も含まれる。


 今回、シルクス・コマンドリーを襲ったのは公国内の貴族が十名。

 いずれも従士セルジャンを連れていた。

 総勢百名からなる軍隊は、あっという間にシルクス・コマンドリーを制圧した。

 修道院長以下の修道騎士モワーヌ・シュヴァリエが出払っている以上、そもそもコマンドリーは抵抗などできなかった。


 修道士たちはまとめて食堂に放り込まれた。

 城砦内に住む、何も知らない小作人は家畜小屋に閉じ込められた。

 武装した歩兵が見張りに立ち、一人として逃れようはない。


 銀鼠騎士団の連れてきた歩兵たちは、倉庫の塩漬け肉やワイン、ビール、豆を勝手に持ち出し、がつがつと食った。

 食堂の隅で怯える修道士たちに、見せつけるようにして。


「どうだ、変わりないか」


 城砦を一回りしてきたヴェラが、歩兵に声をかける。


「ヴェラ様! ヴェラ様!」


 しこたま酔っぱらった歩兵たちが、わあっとヴェラのまわりに集まる。


「あのう、お願いがあるんです、ヴェラ様」


 鼻のない男が、もじもじしながら言った。


「俺、昔っからボーサの狐耳を、そのう……」

「味見したいのか。彼女は裁判を待つ身なのだが」


 ヴェラは大げさにため息をついてから、


「ちょっとだけだぞ」


 いたずらっぽく笑みを浮かべてみせた。


「わあ、さすがヴェラ様! 話が分かる!」

「ここにいるのは盟約違反の悪党だ。正義は我らにあり」

「我と我らが働きの内、報いに値せぬものは無し!」


 歩兵たちは、声を揃えて銀鼠騎士団の標語を唱えた。


「リゲル……」


 ボーサの狐耳は――ツィンカは、ただ一心にリゲルのことを思った。

 逃げ出さないと、決めた。

 今度は守ってみせると。

 決意に価値はなく、ツィンカは無力だった。


「どうか、生きて。リゲル、お願い」


 それでも、リゲルは逃がせた。

 冬の森で拾った死にかけの赤ん坊が、本当は魔王だった。

 そんなことはどうでもいい。

 もう二度と、家族を目の前で死なせない。

 ツィンカにとっては、それだけのことだった。


 鼻のない男が、ツィンカの顎をつかんで顔を上に向かせた。

 酒臭く生ぬるい息が顔にかかった。


「これは……どういうことだ」


 低くよく通る威圧的な声が、食堂に響き渡った。

 歩兵たちは、一斉に慌てて姿勢を正した。


 食堂の入り口に、老境の騎士が立っていた。

 “堅牢公”カノプス三世だった。


「父様、お待ちしておりました。いえなに、ちょっとした息抜きですよ」


 笑顔のヴェラに、アルゴー公はつかつかと歩み寄った。


「ヴェラ」

「ええ、父様」

「愚か者が!」


 カノプス三世は、いきなりヴェラを全力で殴り飛ばした。

 老いたとはいえかつての聖墓騎士、その膂力は並ではない。

 ヴェラは壁まですっ飛んでいった。


「え、なん、父様、なに、を」

「魔王を取り逃がしたと聞いたぞ」


 起き上がろうともがくヴェラの前に、カノプス三世は仁王立ちした。

 燃え上がる怒気でヴェラを焼き殺そうとでもするかのようだった。


「追跡させています。手負いの子どもですよ。そう遠くには逃げられますまい」


 カノプス三世は、深いため息をついた。


「……古文明最大の魔法都市は、一夜にして曠野と化した」

「父様?」

「平野に陣を敷いた三万人が、ただ一度の魔法で全滅した」

「それは、伝説でしょう? 魔王が魔王であった頃の」

「では、この話ならば信じるか。父と母を殺された嬰児みどりごが、己の命と引き替えに放った魔法で、都市を焼き滅ぼした」


 ヴェラの顔色が変わった。


「まさか、父様……」

「私が聖墓騎士を退しりぞいたきっかけだ。我らは魔王を討っているのではない。今この時もなお、嘆願し、命を絶ってもらっているのだ」


 壮年の騎士は、固めた拳を机に叩きつけた。


「大陸に魔王を僭称した愚か者は数多くいた。だが、あれこそが真なる最強の魔王だ! 大魔術師! 死人しびと占い師! 文明喰らい! そう呼ばれるものなのだぞ、ヴェラ!」

「す、すみません! ああ父様、すみません! 私は、ただ」

「何故だ、息子よ。何故、私の到着を待てなかった……! 魔王を殺した後であれば、このような土地、如何様にもできたものを!」


 父を、ヴェラは言葉も無く見上げた。

 誇り高きアルゴー公アガス=アルゴー・カノプスが、みっともなく狼狽し、後悔に身をよじっている。

 ヴェラはその現実を、うまく飲み込めなかった。


「で、では父様、我らは、どうすれば……今すぐに、立ち去れというのですか?」

「今になって魔王に死を乞えるか。ここで討つ他ない」

「あのー」


 鼻のない歩兵が、おずおずとカノプス三世に話しかけた。


「それじゃあ、その、ボーサの狐耳の味見は――あギっ」


 カノプス三世は得物の大剣を抜刀するなり、歩兵を頭から股までまっぷたつに切り裂いた。


「魔王の怒りに触れれば、これほど生ぬるい死に方はできぬと心得よ」


 ヴェラはごくりと唾を呑み、頷いた。


「橋を落とせ! 門を閉じよ! あるだけの石をかき集めろ! 石壁に弩兵どへいを並べるのだ!」


 悲壮な決意を込めて、アルゴー公は叫んだ。


「敵はただ一人! 而して魔王なり! 公国の興廃この一戦に在り!」


 血に濡れた刃が、高く掲げられる。


「我と我らが働きの内、報いに値せぬものは無し!」


 熱のこもった声が、銀鼠騎士団の標語を繰り返し唱和した。

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