第4話 ボーサの泣き女

 橋を渡って、壕のふちに腰を下ろす。

 服をめくると、右腕の内側が焦げていた。


 針の刺さったような火傷の痛みを静めるため、壕に腕を突っこんだ。

 エサの時間かと勘違いした鯉が寄ってきて、俺の指先を吸った。


 たかだかあの程度の魔法でも、五歳の肉体には耐えられないらしい。

 反動で、むしろ自分の方が傷付いている。


「リゲル!」


 血相を変えたツィンカがすっとんできて、膝をつき、俺を抱きしめた。


「ごめんなさい、リゲル、ごめんなさい! 嫌な思いをさせましたね、辛かったでしょう。ごめんなさい」

「分かってて挑発したんだ。ごめん、スール・ツィンカ」


 ツィンカは何も言わず、俺をますます強く抱きしめた。

 優しい嘘かなにかだと思われてしまったらしい。

 ただ殺されたいだけなのに、いろんな面倒が起きるものだ。


「どうして、リゲル……」


 蜂蜜色の瞳から、涙があふれる。

 腕の傷が、あっという間に治っていく。


「ヒール、漏れてるよ」


 俺は苦笑し、言った。

 ツィンカは治癒魔法の使い手だが、なぜか泣きだすとあたりにヒールをまき散らしてしまう。

 拾われた日も、そうだった。


「だって、あなたが」


 ツィンカが泣くと、俺はいつもくだらないことを思い出す。

 五百年前の、本当にあったかどうかもはや曖昧な記憶。

 処刑の日、女王は切り刻まれる俺を見て泣いていた。


 ――どうして、俺のために泣くんだ?


 問いかけようとして、どうでもよくなって、俺は死んだ。

 その国はとっくに滅び、王家の血筋も途絶えた。

 五百年繰り返された合従連衡が国の痕跡を無思慮に踏み荒らした。

 もう二度と、涙の理由を知ることはできない。


 泣きやんだツィンカが、俺を解放した。


「魔法を、使えたんですか?」

「よく気づいたね」

「聞こえるんです」


 ツィンカは狐耳をぱたぱたさせた。


「今まで聞いたことのない音でした。百のバイオリンが、いっせいに和音を鳴らしたような……」

「古い魔法だから」


 俺の知っている魔法は、属性に品詞を重ねて威力や効果を変化させるものだった。

 さっきエノーに浴びせたのは、“火”を“小さい”威力と“黒い”効果で描いたもの。


 今現在、魔法は“ヒール”だの“ウインドブレード”だのと、極度に単純化している。

 ひとつの魔法は一つの効果しか発揮せず、品詞によって変化しない。

 疫病やら戦争やら、冬がめちゃくちゃ冷え込んだやら、色々あったのだ。

 人は死に、国は滅び、知識は散逸する。

 俺が書き残した魔法のスクロールも、残っちゃいないだろう。


「どこで習ったんですか? いつの間に?」

「基本は独学。覚えたのは五百年前」

「なんですかそれ」


 ツィンカは笑った。

 嘘は一つもついてないんだけどな。


「あのね、リゲル」


 真剣な顔のツィンカが、俺の額に額を当てた。


「同じ屋根の下で過ごす友に魔法を向けるなんて、許される行為ではありません」


 それから、「でもね」といたずらっぽく笑って続けた。


「ちょっとすっきりしました」

「なんだそれ」


 今度は俺が笑う番だった。


「普通は説教じゃない?」

「気持ちに嘘はつけませんから。腕、平気ですか?」

「うん、もう大丈夫。ありがとう」


 手指を握って開いて、傷が治ったことをアピールする。

 ツィンカは胸を撫でおろした。


「自分を傷つけないでください、リゲル。あなたはときどき……ときどき……」


 言葉に詰まったツィンカが、またぽろぽろ泣きはじめた。


「うわ、鯉がすごい元気に。ヒール漏れてるって」


 壕のふちに集まった魚どもがバチャバチャやりはじめた。


「すみません……すぐ涙が……」


 鼻をぐずぐず鳴らしながら、ツィンカはまなじりをぬぐった。


「よく頼まれて泣き女をやっていたんで、本当にもう……いやなんですけど、勝手に泣いちゃうんです」

「葬式のときにすごい泣くやつだっけ」

「はい。べらぼうに泣いて、亡くなった方を偲ぶ仕事です。あちこちで泣きましたよ」

「旅でもしてたの?」


 ええ、とツィンカは頷いた。


「ボーサですから」


 それは知らないなあ、と口にすると、ツィンカはボーサのことを話してくれた。

 百人ぐらいの集団で、荷馬車に乗ってあちこち旅する移動民族らしい。

 はるか昔、ずっと東からやって来たそうだけど、出自を知る者はどこにもいないという。


「ああ、それでリゲルなんだ」

「分かるんですか?」


 ツィンカが眼を丸くした。


「思い出したよ。聖地よりもずっと東、異教の地の単語だ。冬の一等星」

「あなたを拾った日、空に出ていたんです」


 五十年ほど前、その辺りに住んでいた。

 そこの君主スルタンが、俺を保護していたのだ。

 教皇庁との交渉材料に使うつもりだったらしい。

 ぶちきれた教皇庁は決死の暗殺隊を送り込んだ。

 彼らの、英雄と呼ぶにふさわしいあっぱれな働きで、俺は無事に死んだ。


「昔、おばあちゃんが教えてくれました。故郷の言葉だよって言って」


 黒髪黒眼と狐耳は、東方の血を引いているからか。


「みんな、殺されちゃいましたけどね。その年の冬は寒くて、街道がならず者だらけだったんです」

「それで、シルクス・コマンドリーに?」


 ツィンカはうなずいた。


「わたしがいちばん若くて、だから逃がされたんです。そこで、院長に拾ってもらいました」


 聖殿騎士団の修道騎士モワーヌ・シュヴァリエは、街道警護の任も担っているという。

 

「院長は私を連れ帰ると、すぐに襲った人たちを追走して……」


 皆殺しにしたのだろう。

 相手は、飢えに耐えかねて他人を襲撃するような食い詰め農民。

 重武装した騎士にとっては羽虫を払うようなものだ。


「まあ! わたし、なんでこんな話をしてるんでしょう?」


 ツィンカは大げさな身ぶりとおどけた口調で、話を打ち切った。


「リゲルが大人みたいに聞いてくれるから、つい喋りすぎちゃいました。ごめんなさい、おもしろい話じゃありませんでしたね」

「いや……ありがとう、聞かせてくれて」


 ありがとう、だって?

 俺は何を言ってるんだか。


 ツィンカは、ふたたび俺を抱き寄せた。


「生きていて、くださいね」


 いやいや、参ったね。


 適当な嘘をつくことは、もちろんできた。


「ヒール、漏れてるよ」


 そのかわり、俺は冗談でごまかした。

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