第25話 見えない壁
これ以上、喫茶店内で会話はできない。
そう思った伊澄は、「ごめん、ちょっと出てもいい?」と圭に断りを入れた。この上なく残念そうな顔をされたが、了承を出される前に席を立ち、未だ伊澄を見ることのない結衣の隣に歩み寄る。
「変なところを見せてごめんね。その……大事な話をしたいから、場所を変えてもいいかな?」
「…………」
結衣は迷っているのか頷くこともせず、俯いたままだった。少しして、助けを求めるように茉莉を見る。
視線を向けられた茉莉はテーブルに頬杖をついていたが、伊澄を一瞥するとあっさりと言った。
「伊澄さん。服濡れてるの、ついでに乾かしてきたらいいよ」
「……あ。そうだった」
「えっ。外暑くない? ここで――」
「圭さんはちょっと黙ってて」
「はい」
茉莉に言われ、伊澄は自身の髪だけでなく服も濡れているのだと思い出した。
一瞬、この状態で商店街を歩いて変な目を向けられないだろうかと思ったが、このまま店内で話をするよりはいいだろう。幸い、今日は蝉も煩く鳴く晴天だ。服もすぐに乾くはずだ。
結衣はまだ躊躇いを見せていたものの、他に助けはないと分かると小さく「分かりました」と返事をした。
喫茶店を出ると、夏の陽射しが容赦なく肌に照りつける。
何処がいいかと考えた結果、二人は商店街の片隅にある小さな公園に向かった。喫茶店からも比較的近い場所で、木々も多少は植わっているので日陰もある。直射日光の下で話すよりはいいだろうと判断してのことだ。
公園に着くと、日中でも気温が高い時間帯のせいか、遊んでいる子供は少なかった。
伊澄が隅にあるベンチに座ると、結衣も少し間を空けて隣に座る。一緒に猫カフェに行った時を彷彿とさせる状況だが、大きな違いは二人の間に流れる空気だ。
先日、嫌な別れ方をして以来初めて会うせいか、二人の間に流れる空気は重く、まるでこれから別れ話をするのでは、という雰囲気だった。付き合ってもいないが。
「えっと……全部、聞こえてた……よね?」
「……すみません」
謝る必要はないのだが、その一言で全部聞こえていたのだとは分かった。
本当はもっと良い雰囲気で想いを伝えたかったが、結衣がいるとは知らなかったので仕方ない。
喫茶店で話をしろ、と圭が言った時点で想定していなかった自分も悪いのだと言い聞かせ、伊澄は気持ちを切り替えた。
「俺、恥ずかしい話だけど、異性を好きになったことがなかったらしいんだ」
「え?」
「あー……いや、今のは語弊があるか。んーと、好きにはなるんだけど、何て言うのかな……人として好き、というか……」
それは、つい最近気づいたことだった。
圭の一言で、伊澄は今まで交際した人に対して親愛の情はあれど、恋情ではなかったと気づいたのだ。
だからこそ、浮気をされてもさほど気にすることはなく、破局しても立ち直りは早かった。ただ、乙葉のときは年齢のこともあって結婚まで考えたので、これまでよりショックは大きかったのだが。
「最初はね、結衣ちゃんのことは『妹』みたいな存在だと思ってたよ。でも、関わっていく内に、それも難しくなっちゃって」
異性が苦手で、これから社会に出たときに苦労するからと改善に励む姿や、好きなものに対する柔らかい表情。約束したことは守ろうとする真面目な姿勢。そして、アクアリウム展で先輩を見かけたときの結衣の姿に、「俺が守らないと」と強く思った。
だが、相手は未成年の上、異性が苦手な少女だ。これらは庇護欲に似た感情からくるものだと思おうとした。
それを一蹴したのは、常連客と圭だった。
「周りから、『妹に向ける目や態度じゃない』って言われて、圭にも色々と気づかされることを言われてね。そこで漸く、『恋をしているんだ』って気づいたんだ」
「…………」
「俺、結衣ちゃんのことが、一人の女の子として好きなんだ」
海辺では言えなかった言葉が、するりと出てきた。緊張はしているが、不思議と頭の中はすっきりとしている。
対する結衣は、改めて伊澄から想いを告げられ、膝の上に置いた両手を強く握りしめた。俯いたことで髪の間から見えた耳まで赤く染め、どう答えればいいのかという戸惑いが伊澄にまで伝わってくる。
煩わしく感じていた蝉の声が遠くに感じた。
返事をしなければ。答えは分かり切っているのだから。
そう自身に言い聞かせた結衣は、一度ぎゅっと目を瞑ってから、意を決したように伊澄を見た。
「あ、あの――!」
結衣を見ていた伊澄と視線がぶつかった。勢いよく顔を上げたせいで、少し驚いている様子だ。
その瞬間、アクアリウム展で見た先輩の姿が脳裏を過ぎった。
――この事、誰かに言ってみろ。
放課後、ゴミを捨てに行ったときに偶然目にしてしまった光景。
殴られて倒れ込んだ女子生徒と、「好青年の鑑」と言われていた先輩の豹変した姿。
――お前も同じ目に遭わせてやる。
誰にでも優しく穏やかな先輩に、結衣も密かに憧れを抱いていた。一緒にいる女子生徒がよく変わっていたのは気になったが、人気のある人ならば、自然と人が集まってくるのだろうと思うことにして。
だが、あの日、それがすべて砕かれてしまった。
それ以来、異性がとても恐ろしいものに見えるようになったのだ。
(違う、のに……)
伊澄と関わって、彼はあの先輩とは違うと分かった。だからこそ、結衣は伊澄が近くに来ても嫌悪感を抱くことはなく、二人で出掛けることもできた。
何故、今になって先輩の姿が重なるのか。
視線がまた膝に落ちる。
伊澄の想いに答えたいのに、口はうまく動いてくれない。
どれほど沈黙が流れていたのか、先に場の空気を変えたのは伊澄だった。
「ごめんね。突然すぎた」
「ち、ちが……っ!」
「無理しなくていいんだよ。これは、俺の自己満足だから」
伊澄の謝罪の言葉に弾かれたように顔を上げれば、彼は困ったように笑みを浮かべた。
このままでは誤解を与えたままになってしまう。しかし、想いとは裏腹に、口はうまく言葉を発してくれない。
どうしよう、と焦る結衣の視界が滲む。早く答えたいのに、何が引っかかっているというのか。
「ご、ごめん、なさい……。……違うんです。私……私は……」
「結衣ちゃん」
頬を伝った涙を拭い、必死に言葉を紡ぐ結衣を、伊澄の酷く優しい声が呼ぶ。
先ほどまでとは違って、伊澄は穏やかな慈愛に満ちた表情をしていた。
呆然とする結衣に向かって腕を伸ばそうとした伊澄だったが、目元に触れる直前で結衣がびくりと肩を跳ねさせると、触れることなく離れていった。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ。待ってるから」
「っ! ご、ごめんなさい……」
「目、ちょっと冷やそうか。ハンカチ濡らしてくるから、ここで待ってて」
泣いたせいで、結衣の目は赤くなってしまっている。店に戻ることを考えると、冷やしたほうがいいだろう。
伊澄はポケットからハンカチを取り出すと、水場へと駆けて行った。
一人になった結衣は、ハンカチを濡らす伊澄を見ながら呟いた。
「どうして、すぐに答えられなかったんだろう……」
ケーキバイキングの後、海辺で伊澄に何を言われるのか、気づかないほど鈍感ではない。あのときは、すんなりと受け入れる心構えはできていたはずなのに、今になって恐怖心が芽生えたのは何故か。
理由が分からず、結衣は自身の心の弱さに大きな溜め息を吐いた。
一方で、水場で蛇口を捻って水を出した伊澄は、太陽光によって熱せられた水の熱さに思わずハンカチを落としそうになった。
「あっつ! ……さすが、夏なだけはある」
水道管に溜まっていた水が熱せられていただけのため、少しするとひんやりとした水が出てきた。いつもならこのような失敗はしないのだが、冷静なように思えて存外困惑していたようだ。
ハンカチを濡らすついでに手も冷やせば、徐々に頭の中も整理されてきた。
(さっき、危うく触れそうになった)
結衣は伊澄の想いに応じようとしてくれていた。だが、彼女の中の「トラウマ」がそれを阻んだのだろう。
ちぐはぐな気持ちに困惑し、涙を流した彼女を宥めたいと思ったのだが、それは今の伊澄にはできないと思った。
「どうして、あと一歩が踏み出せないかなぁ……」
熱湯が触れた箇所が、じんじんと小さな痛みを響かせる。
「好き」という気持ちは同じはずなのに、まるで見えない壁に阻まれているようだった。
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