第26話 恋と愛


 公園で目にハンカチを当てて冷やしていると、戻りが遅いことを心配した茉莉が迎えに来たため、伊澄は結衣を彼女に任せて喫茶店に戻ることにした。このまま自宅に帰ってもいいのだが、圭に「ちょっと出てくる」と言っているので戻らないわけにはいかない。

 残された結衣はハンカチを借りたままだと気づいたが、濡らしている上に自身の肌に触れた物だ。せめて、洗ってから返したい。これならば、最初から自分のハンカチを出しておけば良かったと、うまくいかない自分の行動に嫌気が差した。

 結衣の隣に座った茉莉は、想像とは違った状況に説明を求める。


「で? どういう状況? まさか、彼女を置いて友人のとこ行ったわけじゃないでしょうね?」

「違うの……。私が意気地なしだったから」

「はい?」


 意味が分からず、首を傾げた。結衣の様子から察するに、伊澄は告白はしたのだろう。ならば、結衣はそれに応じるだけでいいのではないのか。

 結衣は、十数分前の出来事をぽつりぽつりと明かす。


「伊澄さんに改めて告白されて、『私も好きです』って返したかったのに……でも、どうしてか先輩の顔が出てきて……」


 伊澄とのやり取りを思い返すと、また目頭が熱くなってきた。

 重ねるのが失礼に思えるほど、伊澄と先輩は違う。似たところはあるが、伊澄は他者を力で傷つけることはないずだ。


「伊澄さんに、『ゆっくりでいいよ』って……待ってるからって言われて、自分が情けなくなっちゃった」


 気持ちは定まっているはずなのに、どうやら心の奥では準備ができていなかったようだ。

 話を聞いた茉莉は、隣にいるまま結衣の肩に腕を回して抱き寄せる。


「よしよし。よく頑張ったね」

「茉莉ちゃん……」

「でも、伊澄さんのことが好きなのは本当なんだよね?」

「……うん」


 好きという気持ちは嘘ではない。ただ、それを伝えられないだけで。

 状況の打開策を一緒に考えてくれるのかと思いきや、茉莉はあっさりと言ってのけた。


「じゃあ、話は早いじゃない」

「え?」

「待ってくれてるなら、焦らなくていいよ。今までみたいに、一緒に何処かにお出かけしたり、日常で起こったことを話したりとかしてたら、その内応えられるようになるって」


 待つからと言って、そこで一度交流が途絶えるわけではない。これまでのように関わりを続けていれば、いずれ受け入れられる日は来る。

 茉莉は優しい笑みを浮かべ、結衣の頭を撫でて言葉を続けた。


「最初の頃なんて、ろくに目も合わせてなかったの覚えてる?」

「うっ」

「慣れてきたからこそ、水族館でも手を繋げたんでしょ? それなら、案外、応えられる日は早いかもよ?」


 水族館で、トラウマの元凶である先輩を見て硬直した結衣を救ってくれたのは伊澄だ。

 特に理由も聞かずに連れ出してくれたが、あのとき、触れた温もりは今でも鮮明に思い出せる。


「……そっか。私、焦ってたんだね」

「うん。伊澄さんに甘えて、もうちょっと待ってもらおう」


 申し訳ない気持ちはあるが、伊澄が待つと言ってくれるのなら、それに素直に甘えてしまえばいい。

 茉莉にも言われたことで、結衣の気持ちも少し楽になった。


「ありがとう、茉莉ちゃん」

「どういたしまして」

「ひとつだけ、訊いてもいいかな……?」

「なに?」


 どんな相談をされるのだろう、と茉莉は少しわくわくしながら言葉を待つ。

 だが、次に結衣から出た言葉に、それは一瞬で砕かれることになった。


「水族館のことって、何処で知ったの?」

「…………」

「……茉莉ちゃん?」


 墓穴を掘ったと気づいてももう遅い。

 笑顔で首を傾げる結衣の目尻は赤いが、今の彼女の背後には別の物が見える気がする。

 滅多にないことだが、滅多にないからこそ、結衣が怒ったときはとても怖いのだと、茉莉はそのとき思い出した。


「あー……暑いし、帰ろっか」

「そうだね。帰りながらお話聞きたいな」

(逃げられない……!)


 結衣は笑顔のまま、茉莉の手首を掴んだ。逃がさないという、怒ったときの彼女の意思表示だ。

 水族館のことを口にした数分前の己を呪った。




「おっかえりー。告白は? 成功した様子じゃないけど」

「うーん。断定されると言いにくいけど……一旦、保留かな?」

「保留?」


 喫茶店に戻ってきた伊澄を出迎えた圭は、先ほどの席ではなく話がしやすいカウンター席に案内しつつ、想像よりもやや力ない伊澄の様子に目を瞬かせた。

 てっきり上機嫌で戻ってくるかと思っていたが、ぎこちなく笑みを浮かべて「保留」と言った伊澄の言葉を反芻する。


「そう。結衣ちゃんの心の準備ができるまで、俺は待つよって言ったの」

「ふーん。やっぱり、いざそうなることを考えると、まだ怖いかー」


 圭は結衣が異性を苦手とする原因を知っているため、すぐに彼女が思い留まっている理由に行き着いた。

 そんな圭を見た伊澄は、カウンターに軽く組んだ腕を置いてがっくりと項垂れる。


「はぁ……元凶の先輩を叱りたい気分」

「えっ。次はそっちの連絡先調べたらいいの?」

「いや、そこまでしなくていいよ……」


 あっさりと、調べられる雰囲気を出す圭の交友関係は、一体、どれほど広いのかといっそ怖くなった。

 発言に偽りはないが、呼び出そうとしたところで伊澄とその人は見知らぬ人だ。余計に拗れることは間違いない。


「結衣ちゃんも、俺に応えようとはしてくれたんだけど、圭が言ったようにやっぱり怖いみたいで。きっと、それがなかったら上手くいってた……のかなぁ……」


 最後の言葉が詰まったのは、異性が苦手でなければ出会いはなかったかもしれないと気づいたからだ。ここまで交流を続けたのは圭と茉莉の働きかけもあったからだが、それも結衣の「苦手を克服したい」という切っ掛けがなければ、茉莉はそもそも動かなかっただろう。

 そう思うと、結衣には申し訳ないが、元凶である先輩を責めきれない。

 だが、その思いも圭の一言で砕かれたが。


「まあ、脅されたんだからトラウマは深いだろ」

「脅された?」

「あ、やべ。聞いてない感じ?」


 聞き捨てならない単語が出て、伊澄は怪訝な顔で圭を見る。

 伊澄の様子から、てっきり結衣に聞いているのだとばかり思っていた圭は、失言だったと気づいてコーヒーを入れる手を止めた。

 すると、何故か怪訝な顔をしていた伊澄が謝った。


「いや、ごめん。今のは俺が悪かった。結衣ちゃんから聞けるような状態じゃないと思って……でも、気になって鎌掛けた」


 想いが通じているからこそ、苦しんでいる結衣を見て、彼女に何があったのかと気になった。かと言って、泣いて困惑している結衣に聞くわけにもいかず、圭ならば事情を知っていたはず、と伊澄も知っている体で話を出したのだ。

 だが、人に鎌を掛けることが滅多にないせいか、圭の「失敗した」という顔を見て罪悪感に苛まれた。


「一応、言っておくけど、手を出されたわけじゃないし、口で言われたくらいらしいぞ。明かしてくれている範囲では」

「…………」

「伊澄さん、無言の圧が怖い。そんな人じゃないのに」


 圭の余計な一言で、伊澄の纏う空気ががらりと変わった。普段、温厚な彼にしては珍しく苛立ちが現れている。

 これでも飲んで落ちつけって、と伊澄の前に出されたアイスコーヒーは、コップの中で氷がぶつかって涼やかな音を奏でた。

 軽く息を吐いてから、ごめんと一言謝ってアイスコーヒーを口にする伊澄を見て、圭は感心と驚きの混じる声を上げる。


「『恋は人を変える』って聞くけど、そうなるとはねぇ……」

「俺もびっくりしてる」


 今まで複数人と交際してきた中で、ここまで気持ちが揺れ動くのは初めてのことだ。自分から好きになるとはこんなにも苦しいことなのかと、何度目かの溜め息が零れた。

 対する圭は、そんな伊澄を微笑ましげに見る。


「まぁ、待つって決めたんなら、ちゃんと待っておけよ」

「……そうしたいんだけど、何て言うのかなぁ。お互いに好きなんだから、欲が出ちゃうと言うか」

「それ、まだ陽の高い時間帯でも言えること?」

「…………」

「…………」


 圭に言われて、伊澄は何のことかと固まった。

 沈黙が流れ、店内に流れるクラシックがやや大きく感じた。厨房からは食器を洗っている音が聞こえる。

 やがて、意味を理解した伊澄は、一気に顔を赤くして慌てて否定した。


「え!? い、いや、そういう意味じゃなくて! 結衣ちゃんのこと、困らせたり悲しませたりする気はまったくないんだけど、何て言うのかな……もっと一緒にいたいなぁとか、そんな感覚! でも、今の状況だと、近づきすぎるのも駄目かなぁって。拒絶されるのも辛いし、でも、俺より辛いのは結衣ちゃんだし……こんなこと考えるのも嫌だなって」

「どこの初な少年だよこれ……」


 焦ったからだろう。早口でまくし立てるように言う初めて見る一面に、圭は乾いた笑みを浮かべた。同時に、ここまで動揺するとなると、やはり伊澄は恋をしているのだなと実感する。

 すると、厨房で話を聞いていたのか、店主が顔を覗かせた。厨房と圭のいるコーヒーなどの飲料系を用意するスペースは受け渡し用のカウンターで仕切られており、カウンター席にいる客の会話はある程度聞こえるのだ。


「あっははは! 伊澄君、本当に恋してるんだねぇ」

「おじさん……」


 初老を少し過ぎたくらいの店主は、初々しい伊澄の様子を豪快に笑い飛ばしつつ、けれども慈しむような目を向けた。そして、カウンターに腕をつきながら、先ほどとは違ってゆったりとした口調で穏やかに言う。


「私は、それでもいいと思うよ。下心があるのが『恋』なんだから。でも、それだけ悩めるって事は、彼女を愛している証拠だろう」

「あ、愛……!?」


 突然、何を言い出すのかと顔に熱が集まった。

 確かに、結衣のことは好きだが、「愛」といったよりスケールの大きなものでは考えていなかったのだ。

 店主が現れたことで伊澄に半身を向ける姿勢になっている圭は、「じーちゃん、意外とロマンチストだからなぁ」と遠い目をしている。


「ははっ。恥ずかしがる事じゃないぞ。真心があるのが『愛』って聞いたことないかい? 今の伊澄君は、自分の欲だけじゃなくて、相手を思いやる心がある。そういう気持ちを抱ける人に出会えるのは、とても貴重なことなんだよ?」


 大事にしないとね、と言い残し、店主はまた厨房の奥に戻って行った。

 伊澄は店主のいた場所を見たまま、「愛か……」と噛みしめるように呟いた後、何故か圭をまっすぐに見つめて言う。


「俺、大事にするよ」

「……うん。それは、俺に向かって言わないで欲しいかな」




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