第23話 流れた涙は
「乙葉……? えっと、どういうこと?」
胸元に飛び込んできた女性……乙葉を、伊澄は肩を掴んでそっと離しつつ、彼女の「会いたかった」という発言に説明を求めた。
すると、彼女は溜め込んでいた感情を一気に爆発させたように声を上げる。
「ごめんなさい! 私が悪かったの! 伊澄が仕事ばかりに夢中になってるから、ちょっとくらい嫉妬してくれないかって思って……!」
「嫉妬って……」
「でも、彼も浮気だったのよ! 他に女がいて……私が遊ばれてただけだったの!」
確かに、仕事を優先してばかりで恋人に構うことがなかった伊澄にも非はある。ただ、「嫉妬してほしい」という理由で浮気をするのは如何なものか。
茉莉が「いや、あの女、反省なんてしてないでしょ! 自分が悪いって思ってないって!」と声を荒げているが、「これ以上、悪化させんな!」と圭によって必死に止められている。止めなければ、爽やかな海岸には相応しくない、悲惨な光景になるだろう。
「それで、私も目が覚めて、伊澄ともう一度やり直したかったけど、連絡先も消えちゃってたし……」
「そ、んなこと、今さら……」
連絡先が消えたのは、伊澄のスマホが割れたからだ。データが飛んでしまい、メッセージアプリも消えてしまった。
職場に来なかっただけまだマシだが、今になってやり直したいとはどういうことか。また、伊澄も今は彼女よりも大事にしたい人がいるのだ。ヨリを戻す気はまったくない。
そんな想いからつい結衣を見てしまったが、乙葉が伊澄の視線を追って結衣を見た瞬間、失敗したと思った。
「誰? この子」
「あっ。わ、私……」
怪訝に顔を歪めた乙葉を見て、結衣は気圧されたように数歩下がった。そして、視線をさ迷わせた後、バッグの紐をぎゅっと握りしめて言う。
「たっ、ただの、知人です! し、失礼します……!」
「結衣ちゃん!?」
「待って!」
結衣を追いかけようとしたが、乙葉に腕を掴まれた。綺麗にネイルが施された長い爪が、少しだけ腕に食い込んだ。
しかし、今は乙葉に構っている余裕はない。
乙葉の手首を掴めば、思ったよりも簡単に離すことが出来た。
「ごめん。話は、また今度にしよう」
「伊澄、待って!」
悲鳴にも近い声が後ろから上がるが、伊澄は振り返らずに結衣を追った。
途中、すれ違った圭と茉莉が結衣の去った方を教えてくれたが、果たしてうまく説明できるだろうか。
来た道を戻り、ホテルのコンコースを抜ける直前で結衣を見つけた。
スピードを上げればすぐに追いつき、少々強引ではあるものの、手首を掴んで止める。
「結衣ちゃん!」
「っ、いや!」
だが、掴んだ手は明らかな拒絶の言葉と共に振り払われ、思わず立ち尽くしてしまった。走ったことで乱れた呼吸音だけが、やけに大きく聞こえる。
伊澄は必死に頭を動かし、何から言えばいいか考えたが、出た声はとても頼りないものだった。
「そ、その……さっきの人は――」
「嘘つき」
短く、けれどもはっきりと言われて結衣を見る。
悲痛に顔を歪め、目には今にも零れそうなほど涙を溜めていた。
「……ごめん」
それしか、口に出せなかった。
結衣がまた走り去ったが、後を追うこともできない。そんな資格は自分にはないのだと、思い知らされてしまった。
少し遅れて茉莉が伊澄の横を駆け抜けて行き、伊澄の隣には圭が足を止める。乙葉が来ないのは不幸中の幸いか。
「最悪じゃん。なんでこのタイミングで『元カノ』が出てくるわけ?」
「そんなの、俺が聞きたいよ……」
力が抜けた伊澄は、その場にしゃがみこんで膝に顔を埋める。
先ほど、伊澄に縋りついてきたのは、別れを告げてきた元彼女だ。浮気をした自分も悪いが、原因は伊澄にあると言って。
彼女の最後のメッセージは返信をする前にスマホが割れ、機種変更をしたことでデータは綺麗さっぱりなくなっていた。
乙葉には後で話そうと言って置いてきたものの、今になって考えると、連絡先を知らないのにどうするのかと思った。話をしないでいいならそれでもいいのだが、このままでは結衣にも被害が及ぶかもしれない。
「『嘘つき』って言われても、仕方ないよな……」
「あー……結衣ちゃんのことは茉莉ちゃんに任せとくとして、ちょっと落ちつけるとこ行くか。元カノさんのほうは、誰か連絡先分かるか知り合いにも聞いてみるから」
「……ありがとう」
このままホテルの近くにいるわけにもいかず、圭は伊澄の背中を軽く叩いて移動を促す。
立ち上がった伊澄は俯いたままだが、落ちた滴は見ないことにした。
結衣を探していた茉莉は、ホテルの隣にある海浜公園のベンチに姿を見つけて足を止める。
ハンカチを目元に当てており、泣いているのは一目瞭然だ。
「もう、この前の今日で何なの……」
「茉莉ちゃん……」
声で茉莉と気づいたからか、結衣は押し当てていたハンカチを外してゆっくりと顔を上げた。泣いたせいで目は赤く、走ったことで髪も乱れている。
茉莉は、そんな結衣の隣に座りながら溜め息を吐いた。
「せっかく良い雰囲気だったのに、思わぬ邪魔が入ったものね」
「え?」
「あの人、伊澄さんの元カノだって。だから、今は付き合ってないし、もう気持ちはないの」
「かのじょ、さん……」
やや舌っ足らずに繰り返した結衣は、また俯いて膝の上に置いた両手を握りしめる。
涙がぽたぽたと落ちたが、その理由は先ほどとは別だった。
「ど、どうしよう……」
「ん?」
「私……酷いこと、言っちゃった……」
今思えば、乙葉は「やり直したい」と言っていた。その言葉から、今、伊澄は彼女と付き合っていないのだと分かったはずだ。
しかし、彼女を親しげに呼び捨てしていたり、彼女が飛び込んできたからとは言えしっかりと受け止めた様子を見て、まだ彼女と付き合っているのだと思い込んでしまった。
伊澄に掴まれた手首が痛い。
止めたい一心だったのだろう。強く掴まれた瞬間、恐怖でいっぱいになり、思わず振り払ってしまった。
「『嘘つき』って、伊澄さんの話も聞かないで……!」
「うーん……。まぁ、誰でもあんな状況を前にして、しかも気の強そうな美人に睨まれたら、怖くなって逃げちゃうって」
恐らく、茉莉でも同じことをしただろう。ただし、「修羅場に巻き込まれるのが嫌」という理由になりそうだが。
泣き出した結衣を宥めつつ、乙葉が来ないかと内心冷や冷やしながら辺りを警戒する。海浜公園は、名前につくとおり海岸に接した公園だ。来ないとは言い切れない。
だが、乙葉は早々に去ったのか姿を見ることはなく、泣いていた結衣も気分が少し晴れたのか、少しずつ落ちついてきた。
茉莉が「大丈夫?」と声を掛ければ、小さく頷いた結衣はぽつりと呟く。
「……あの人、すごく綺麗な人だったし、また、元に……戻る、よね……」
「え? いや、それは――」
「ううん。もう、いいの」
「いいって……」
どうやら、結衣は泣いている間にある結論に至ったようだ。それを茉莉が否定しようにも、先に結衣によって遮られてしまった。
愕然とする茉莉だけでなく、自身にも言い聞かせるように言う。
「元々、伊澄さんは私のこと、妹みたいなものって言ってたし、それに……今日誘ってくれたのは、この前のこと見ちゃったみたいだから、それを気にしたんだと思う」
「……それ、伊澄さんが言ったの?」
自然と茉莉の声のトーンが落ちた。伊澄が誘った理由として上げたのなら、二人には悪いが、このまま結衣には諦めてもらおうと思ったのだ。
しかし、結衣は首を左右に振った。
「言いかけたときに、あの人が来ちゃったから、全部は聞いてないけど……でも、本当に、もういいの。ごめんね。いろいろと協力してくれたのに」
「…………」
「ありがとう、茉莉ちゃん。圭さんにも、お礼言わなくちゃ」
ハンカチをバッグに仕舞い、ベンチから立ち上がった結衣は「帰ろう?」と茉莉を振り返る。
その表情は無理やり浮かべた笑みであり、恐らく、結衣は帰ってからまた泣くのだろう。「もういい」と言える状態ではない。
「……いや、全然、よくないでしょ」
ゆっくり歩き出した結衣に続きながら、茉莉は小さくぼやいた。
そして、このまま終わらせてたまるかと、ある事を決めたのだった。
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