第22話 始まりか終わりか


 ケーキバイキング当日。

 水族館に行った日よりも、伊澄は朝からそわそわとして落ちつけなかった。カバンには結衣が落としたキーホルダーとチケットが入っているか、朝、起きたときについていた寝癖はまた跳ねていないかと何度も確認した。

 そして、待ち合わせをしているホテルの前に向かった伊澄は、入口近くに立つ少女を見つけて思わず柱の陰に隠れてしまった。


(……待って。あんなに可愛かったっけ? いや、可愛かったけど……!)


 元々、可愛らしい顔立ちではあったが、気持ちを自覚してから改めて見ると一層可愛く見えてしまい、平静を保てる自信がなくなった。むしろ、彼女の隣に立つのが自分でいいのか。

 柱の陰でしゃがみこんでしまえば、カバンの中でスマホが振動する。

 取り出して見ると、圭からメッセージが入っていた。


 ――座ってないでさっさと行け。


「……はい」


 メッセージを読んでから辺りを見渡せば、ホテルの脇にある植木の陰から、圭と茉莉が伊澄を睨んでいるのが視界に入った。茉莉は「早く行け」と言わんばかりに手を振っている。

 確かに、待たせるのも悪い。変な人に絡まれても困る。

 腹を括った伊澄は、さも「今、結衣に気づきました」という体で声を掛けた。


「結衣ちゃん。待たせてごめんね」

「い、いえ! ついさっき来たばかりなので……!」


 声を掛ければ、伊澄に気づいていなかった結衣はパッと勢いよく振り向いた。ノースリーブのワンピースの裾と、羽織っているレースのロングカーディガンの裾が動きに合わせてふわりと広がる。

 ワンピースは淡い水色で、胸の下辺りで絞られていた。無地ではあるが、それがカーディガンの花のレースを際立てている。

 デコルテが広く開いているため、少し目のやり場に困りつつ、伊澄は己の煩悩を振り払って笑みを繕う。

 そんな伊澄を見るなり視線を泳がせていた結衣は、緊張しているのか頬は少し赤く、肩も縮まっている。視線を横に向けた際に見えた、後ろでまとめられた髪には、伊澄があげたバレッタが着けられていた。


「ま、前は、伊澄さんをお待たせしていましたし……お、おあいこですね」

(駄目だ。心臓に悪い……!)


 また伊澄へと視線を戻し、はにかんで言う結衣の愛らしさに、胸が締めつけられた。

 未だかつて、女性を相手にこんな気持ちになったことはあっただろうか。もしかすると、年齢を重ねたことで色々と感情が揺れ動きやすいのかもしれない。

 笑顔が引きつっていないか心配だが、結衣の様子を見る限りは大丈夫そうだ。

 胸の奥が温かくなるのを感じつつ、伊澄はハッとして今日の目的のひとつを思い出す。


「あ! そうだった。……はい、これ。先に渡しておくね」

「ありがとうございます。……あっ」

「ご、ごめん!」


 カバンからキーホルダーを取り出して渡せば、それを受け取ろうとした結衣の手に指先が触れる。

 軽い接触ではあったものの、今の伊澄にとっては十分すぎる衝撃で、勢いよく手を離して両手を小さく挙げた。

 結衣もキーホルダーを受け取った姿勢のまま固まっており、様子を見守っている圭と茉莉は「何をしているんだあの二人は」と怪訝な顔をしている。


「お、落としてしまって、すみません……」

「うっ、ううん! 大事にしてくれてて嬉しいよ。じゃ、じゃあ、行こっか」

「はい」


 水族館のときより緊張した面持ちで、二人は中へと入って行く。

 そんな初な反応をしている二人を見ていた茉莉は、植木の陰から出て大きな溜め息を吐いた。


「はぁ……。結衣はともかく、あの人ってほんと、交際経験あったの? ってレベルで初々しいんだけど大丈夫?」

「なんだろうな……。彼女さんに任せっきりだったからかもしれない」


 伊澄がどういう気持ちでこれまでの交際をしていたかは分からないが、恐らく、告白する前に自ら好きになったことがないような気がした。

 長い付き合いの圭ですら、親しい友人や先輩、後輩の集まりで恋愛の話になっても、伊澄の口から「好きな子がいる」という言葉を聞いたことがない。隠していただけかもしれないが、もし、いたとしたら今の状況にはなっていないだろう。

 遠い目をする圭の傍らで、茉莉は今のもどかしい様子に少しだけ腹を立てていた。


「もう。今日でケリ着けなかったら、あたしが言ってやる」

「こらこら」


 それはそれでややこしいことになりそうだ。もし、伊澄が動かなかった場合、圭は全力で茉莉を止めようと決めた。

 すると、茉莉はこれからの予定を考え、あることに気づいて言う。


「あと、すごい今さらではあるんだけど……こっそり、ケーキバイキングの様子窺うのって難しくない?」

「……確かに」

「けど食べたい。参考にするためにも撮りたい」

「うん」


 ここまで来て、何もせず二人が出てくるのを待つか。それとも、二人の視界に入ることを覚悟でいっそ中に入ってしまうか。

 ちなみに、圭と茉莉が来ていることは、伊澄も結衣も知っている。ただし、二人はお互いに知っていることを知らないため、同時に二人の視界に入ったときが少し面倒になるのだ。今のところ、「偶然、来る日が重なった」という体を装うことにしているが。

 ケーキバイキングを行っているのは、ホテル内のレストランだ。インターネット上にあった写真を見る限り、海を望む席は仕切りがないため、そこに通されると同時に視界に入る可能性はぐっと上がってしまう。


「「…………」」


 しばし見つめ合った二人は、やがて、ほぼ同時に無言で頷いた。


「ま、見つかったら見つかったで、当初の予定どおりに誤魔化そう」

「そうしよう」


 そして、二人もケーキバイキングへと向かうために中に入った。




 伊澄と結衣が案内された席は海を望む席だった。テーブルの端には案内された人がいることを示す小さな立て札が置かれたため、貴重品さえ持っておけば、二人同時にケーキを取りに行くことも可能だ。

 バイキングのケーキは、期間限定で有名なパティシエが監修していると話題だった。そのせいか、客も夏休み期間中とは言え、平日にしては多いほうだ。

 並べられた十数種類のケーキを見た結衣は、水族館のときと同じく目を輝かせていた。最も、今回は自分の将来に関わるもののせいか、目線は職人と同じようなものだったが。

 ケーキは正方形に切られたケーキや円柱の小さいケーキが多い。定番のショートケーキやチョコレートケーキ、チーズケーキを始め、チョコレートソースを網目状にかけたもの、飴細工を乗せたもの、何切れもの桃を一輪のバラになるように並べて置いたものなど、デザイン性の高いものもあった。また、コーヒーを使ったほろ苦いケーキや炭酸を混ぜたゼリーもあり、合間に挟むことで口の中が甘くなりすぎないようにすることもできた。

 そのゼリーを結衣が皿に取っているのを見て、伊澄は先日、結衣から貰ったゼリーを思い出す。

 ケーキバイキングに誘ってから、感想は直接言おうと思って送らなかったのだ。メッセージを送る勇気がなかったこともあるが。


「この前くれたゼリー、すごく美味しかったよ」

「お口にあって良かったです。実は、寒天で金魚を作って入れても良かったかなと思いまして……。でも、それだとよくあるデザインでもあるので、他のデザインで作っているところなんです」


 話が自身の得意な内容のせいか、結衣は緊張した様子もなく、ゆったりと自分の考えを話してくれた。

 伊澄の失言が尾を引いているかと思ったが、意外にも普通に接してくれていることに嬉しくなった。


「そっか。じゃあ、それも出来たら食べてみたいな」

「ふふっ。またお持ちしますね」

(えっ。何この可愛い笑い方。俺、幸せで死にそう。いや、食べるまでは絶対に死ねないけど)


 自然と漏れた笑みは柔らかく、見惚れてしまった伊澄の持つスプーンから、掬ったばかりのゼリーが器に戻っていった。

 手を完全に止めた伊澄を、結衣が心配したように「どうかしましたか?」と訊ねる。

 その小さく首を傾げる仕草すら愛おしく思えるのだから、恋とは厄介なものだ。

 伊澄は「何でもないよ」と返してから、またゼリーを掬いあげて口に入れる。炭酸ゼリーの、爽やかで少し刺激のある感触が口内に広がった。

 そして、二人は何気ない会話をしながらケーキバイキングを堪能し、決められた時間が来たところでレストランを出た。


(こ、このまま帰るわけには……!)


 圭には、今日、このまま告白しろと言われている。伊澄としても、結衣にどう思われているかはっきりさせたいところだ。

 早くなってきた心臓の鼓動を落ちつかせつつ、ホテルを出て、最初に伊澄が隠れた柱の近くで足を止める。

 結衣はやや遅れて足を止め、不思議そうに振り返った。


「伊澄さん?」

「あ、あの……ここって、海の近くにあるでしょ?」

「そうですね」

「海岸からの景色が、もっと綺麗だって聞いて……だから、その……もう少しだけ、時間って、大丈夫……かな?」


 両手を強く握りしめ、声が震えないように力を入れる。今まで、こんなにも日本語がうまく紡げないことはあっただろうか。

 ホテルを出てすぐ、柱に隠れて様子を見ていた圭と茉莉にも聞こえたのか、圭は笑いを堪えており、茉莉は見て分かるほどに引いていた。二人に背を向けている伊澄からは見えないが、結衣からはしっかりと見えている。

 そんな二人の異なる様子を気にしつつ、結衣は緊張した面持ちで返事を待つ伊澄に頷いた。


「はい。私も、見てみたいです」

「良かった」


 何とか、ケーキバイキング後に誘い出すことに成功した。

 あとはタイミングを見計らって想いを伝えるだけ。ただ、それが一番の難所だが。


(多分、うまくはいくと思う。……思うんだけど、なんで、伝えるのが怖くなるんだろう)


 海岸へと向かいながら、頭の中で告白のシミュレーションをする。たった二文字を伝えるだけで、しかも、成功する確率も高い。

 しかし、もし、うまくいかなかったら。あの日の失言で、見損なわれていたら。

 そう考えると、告白がとても恐ろしいものに思えた。


(すごいなぁ。今まで、告白される側だったけど、する側ってこんなに勇気がいるんだ……)


 贅沢な悩みだと、圭に弾かれた額が痛くなった気がした。

 今まで女性に任せてばかりだった代償なのだと言い聞かせて、伊澄は心の中で「よし、頑張るぞ」と自身を勇気づける。

 ホテルの脇にある道を進むと、目の前には真っ白な砂浜と太陽の陽射しを受けてキラキラと輝く青い海が広がっていた。


「う、わぁ……! レストランから見えていましたけど、すごく綺麗ですね」

「そうだね。海に来たのなんて何年振りだろ……」

「ふふっ。それ、ゲームセンターの時も言っていましたね」

「あ。……出不精なのがバレちゃったか」


 仕事以外、伊澄はほぼ外出をしない。彼女に言われて付き合うことはあったが、行くのは大抵、買い物か映画館といった屋内施設ばかりだ。

 無邪気に笑う結衣を見て、伊澄も緊張していた体から少し力を抜く。

 異性が苦手な彼女も、随分と慣れてくれた。最初の頃は目も合わせず、しどろもどろに話をしていたのが、今では普通に話をしてくれている。ただ、これは先にケーキバイキングである程度話をして空気に慣れたからでもあるが。

 結衣は、波打ち際まで歩いて行く途中で桜色の貝殻を見つけると、「これ、花びらみたいですよ」と嬉しそうに振り返って伊澄に見せた。

 「綺麗だね」と返してから、伊澄は周りを窺う。

 海水浴客は、少し離れたところにある海の家近くに固まっている。伊澄達がいる辺りは比較的静かで、人はほぼいない。波打ち際で親子連れが遊んでいるくらいだ。

 時間は夕方に差し掛かろうかという頃。太陽は西に傾いてきているが、まだ沈むまでは時間がある。


(……これって、すぐ言ってもいいもの? もう少し遊んでからとか? いや、海岸で遊ぶって言っても、今の状態で何をすれば……)

「伊澄さん?」

「あ! ご、ごめん。少し、考え事してた」


 いつ、告白をすればいいのかとタイミングを考えていると、黙ったままの伊澄を案じた結衣が声をかけた。

 困ったように笑みを浮かべて返せば、結衣は何かあるのかと伊澄の近くに戻った。

 距離が再び近づき、今しかないと思った伊澄は声を絞り出す。


「あ、あのっ!」

「?」

「俺、つい最近になって、漸く気づいたことがあって……」


 突然、「好きです」とも言えず、前置きから始めた。もう少し短い前置きにすれば良かったかと思いつつ、話がおかしくならないように必死に頭を働かせる。

 結衣も何か大事な話なのだろうと気づき、何も言わずに伊澄の言葉を待っていた。


「ずっと、圭達には『そうだろ』って言われてたけど、俺が変に考えすぎてて……この前は、結衣ちゃんのこと傷つけたと思う」

「この、前……」


 いつのことか、と振り返った結衣は、すぐにハッとして視線を落とした。斜め掛けにしているバックの紐を握る手に力が込められる。

 これは後で謝るべきだったかと思いつつ、ここまで口に出してしまえばもう先に言ってしまうしかない。


「ごめん。実は、あのとき追いかけてて、茉莉ちゃんと話してるところ聞いちゃったんだ」

「わ、忘れてください! あれは……」


 見られていたと知り、急に恥ずかしくなった。何処まで話を聞かれたのか、泣いているのは見られたのか。

 困惑する結衣だったが、同時に、やはり、誘ってくれたのは傷つけたことに対する謝罪の意味があったのかと、期待が崩れる音がした。ただし、勝手に抱いていた淡い期待だったため、伊澄を責める気は起きなかった。

 しかし、伊澄は真剣な口調で首を左右に振る。


「ううん。忘れない。だって、俺は――」

「伊澄?」


 完全に二人だけの世界と化していたそこに、第三者の声が……見知らぬ女性の声が入った。

 二人が驚いてそちらを見れば、海の家がある方向に、二十代半ばの美しい女性が立っていた。セミロングの金髪が潮風に靡き、はっきりとした目鼻立ちは少し気が強そうにも見える。

 木陰から様子を窺っていた茉莉は、見慣れない女性の登場に怪訝に顔を歪めた。


「誰あれ?」

「やばっ」

「え、知り合い?」

「いや、知り合いも何も、あの人は――」


 圭がその女性の正体を茉莉に明かし、「はぁっ!?」と声が上がったのと、女性の顔がくしゃりと歪んで「会いたかった……!」と伊澄に縋りついてきたのは、ほぼ同時だった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る