第20話 受け入れた気持ち
結衣と茉莉が走り去った方へと駆けていた伊澄は、商店街を出て少しした所に二人の姿を見つけた。
周りは住宅の多い比較的静かな場所で、人通りは疎らだ。
気づいてもらおうと名前を呼ぼうとした伊澄だったが、向かい合って話をしている様子の結衣と茉莉を見て、反射的に口を閉ざしてしまった。茉莉に宥められる結衣が、遠目でも泣いていると分かったからだ。
走っていた足を止め、伊澄は二人に気づかれる前に近くの角へと身を隠す。民家の塀に背を預けながら、早鐘を打つ心臓を服の上から押さえた。
(……いやいや。何で隠れたんだ?)
泣いているなら、駆け寄って理由を訊くべきではないのか。茉莉に任せておかず、自分が手を差し伸べればいいのでは。
しかし、何故か、今行ってはいけない気がした。
「――バカねぇ。それ、好きだから辛いのよ」
ふいに聞こえてきた茉莉の声。その言葉に、伊澄はハッとした。
好きな人に言われた言葉が原因で、結衣が泣いているのだとしたら。
直前に会っていた異性は、状況から考えて伊澄しかいない。
(ああ、そうか。俺、結衣ちゃんのこと、「妹」って言ったんだよな……)
あれこれと理由を付けず、ちゃんと向き合っていれば。自分の気持ちを、素直に受け入れていれば。
持っていた猫のキーホルダーを見つめ、重く湿った溜め息を吐く。
(駄目だ。今、あの子の前には行けない)
酷いことを言っておきながら、どんな顔をして会えばいいのか分からない。
キーホルダーをポケットに戻した伊澄は、そっとその場を離れた。
重い足取りで店に戻ると、言われたとおりレジで店番をしていた圭が「二人はいた?」と事情を知らないが故にあっさりと訊いてきた。
先ほどの姿が蘇り、また溜め息を吐いて首を左右に振る。
「えっ。もういなかったの? 二人とも足速くね?」
「俺、本当に最低だ……」
「はい?」
驚いた圭の言葉に対し、伊澄は唐突に自身を非難した。
一瞬、そんなに足が遅かっただろうかと考えてしまったが、雰囲気から察するに、「最低」なのは追いつけなかったことではないようだ。
しばし考えた後、圭はある事を閃いて訊ねる。
「伊澄さん。今夜、空いてる?」
「え?」
沈んでいる伊澄の心境を知ってか知らずか、圭は突然、伊澄の予定を確認した。
今の状況から、何故そういう問いに繋がったのか。何をするのかと目を瞬かせれば、彼はレジから出てきて言う。
「久しぶりに伊澄さん
「……分かった。店番ありがとう。部屋は散らかってるから、気にしないならいいよ」
「マジ? 伊澄さんの散らかってるは、仕事の資料とかだからなぁ……。大事なのは避けといてよ」
圭は、以前、伊澄の部屋に行った時を思い出した。前回については前置きもなく、友人と飲んで別れた後、酔った勢いで伊澄の部屋に突撃したのだ。その際も、伊澄の部屋には仕事で使う花の写真が幾つも載った分厚い冊子だったり、デザイン画だったりといったものがテーブル上を埋め尽くしていた。
さすがに、飲んで汚すわけにはいかないため、伊澄は圭に忠告をされてはいるが、自分自身でも帰ったらすぐに片づけようと決めて仕事に戻った。
「――で? 追いかけてった結果、どうなったわけ?」
「もう訊いてくるんだ……」
仕事が終わり、伊澄が自宅に戻ってから約一時間後。
宣言通りやって来た圭は、早速本題に入った。
部屋の中央付近に置かれたローテーブルには彼が買ってきた酒や肴が並べられ、少し飲んでから本題に入るのかと思っていたが、どうやらこれ以上は待ちきれないようだ。
手近にあった酎ハイの缶を開ければ、炭酸の抜ける音がした。
「どこまで言っていいのか微妙なんだけど……」
「いいよ。伊澄さんが言えないところは茉莉ちゃんから聞く」
「それ、俺がここまで話す意味あるの……?」
「まあまあ、細かいことは置いといて。なに? 結衣ちゃんに余計なこと言った?」
「圭。実は一部始終見てたとかじゃないよね?」
ビール缶を開ける圭は、まるでその場を見ていたかのように的確に言い当てている。
長年の付き合いによって培われた賜物だが、少し怖いと思ってしまった。
実は茉莉から聞いていたという落ちではないよなと思いつつ、酎ハイを一口飲んでから事の顛末を話す。
「お客さんに、結衣ちゃんのことを彼女と間違われて」
「うん」
「困ってたから、その場をやり過ごそうと思って『妹がいたらこんな感じなんだろうな』って言ったら、空気が変わって」
「あー……」
用意に状況が想像できて、圭はスルメを齧りながら遠い目をした。
空気が変わったことに気づけたのはいいのだが、その前の発言が大きな失敗だ。
「結衣ちゃんが、感想をまた聞かせてほしいって言って走り去って、茉莉ちゃんも追いかけて行ったんだ」
「で?」
「お客さんに、『ちゃんと向き合いなさい』って怒られた」
「正論ー」
少し前に流行った、どこかの芸能人が浮かぶ言い方だが、今の伊澄に取り合う余裕はない。
さらなる問題は、この後に起こった事だからだ。
「それで、俺も、自分に素直になっていいのかなって思って、届けるついでに追いかけたんだけど」
「俺に店番押しつけてな」
「それはごめん。……でも、追いかけた先で、泣いてる結衣ちゃんを見て、俺が酷いこと言ったんだって、そこで漸く自覚して」
追いかけた当初は、さほど酷い発言だったとは思わなかった。少し傷つけたかもしれないと思ったくらいで。
けれど、もし、自分が彼女の立場だったなら。好きな相手から、思わせぶりな事だけをされた挙げ句、恋愛対象ではないと言われたとしたら。
「……俺、何してるんだろうな」
「本当になー」
伊澄はテーブルの端に額を乗せて、さらに沈んだ。基本的に、落ち込むことはあってもあまり晒け出さない伊澄にしては珍しい。
場の空気が暗くなりすぎないよう、圭は軽く相槌を打ちながらテレビを点けた。適当に番組を変え、何組もの芸人が出ているバラエティ番組を見つけて手を止める。
そして、視線はテレビに向けたまま、未だ頭を上げる気配のない伊澄に言う。
「けど、素直になるって言うんなら、結衣ちゃんのことをそう言う風に見てるって受け入れるの?」
「……正直、年齢的にどうなんだろうってまだ引っかかってはいる。そんな感情を抱くのも、出会ってまだそんな経ってないのに、早すぎる気がするし」
「はあ? この期に及んで、まだそんなことで悩んでんの? この世の年の差夫婦とか、スピード婚した人達に謝れ」
うじうじと悩みを打ち明けた伊澄に、圭もいい加減にしろと少し語調を荒げた。
いくら結衣がまだ成人していないとは言え、もう高校生ではない。年が明ければ二十歳にもなる。そうでなくとも、未成年で成人と交際しているという人も数多くいる。
いつまでもそこを気にするのは、現実から目を背けるための言い訳だ。
「伊澄さん。ここには今、俺しかいない。いや、俺もいないことにしよう」
「何言ってるかちょっと分かりません」
まだビールは一缶も空いていないが、もう酔ったのだろうか。圭は酒にはそれなりに強い上、まだ顔色はいつもと同じだが。
頭を上げながら、圭がいるのにいないことにする意味は何なのかと思っていると、彼はストレートに訊ねてきた。
「結衣ちゃんのこと、どう思ってんの」
「…………」
「あの元凶の先輩を見て、どう思ったの」
「元凶だったんだ」
「あ、やべ」
口を滑らせた、と圭は片手で口を覆ったが時既に遅し。
圭の言う「元凶の先輩」とは、水族館で見かけた青年のことだろう。
結衣には詳しく聞いていないが、きっと良い思い出ではない人だと判断して連れ出した。また、彼に目を奪われることも気に食わなかった。
「それは、機会があれば結衣ちゃんに聞きたいところだけど……うん。そうだね。あの人を見て、俺以外の男の人のことで一喜一憂するのが嫌だなとは思ったよ」
「……うん。ごめん。そこまでは俺も予想してなかった」
明らかな嫉妬に、今までその二文字と縁のなかった伊澄しか知らない圭は、一瞬だけ言葉を失った。そして、深い溜め息を吐きながら、がしがしと雑に頭を掻く。
それが分かっていながら、何故、気持ちを認めなかったのか。
「妹に対してそんなこと思う輩はごく一部だろうし、まして、血の繋がりのない相手なら、それはもう疑うことなく『好き』ってことでいいと思う」
そう言って、圭は少なくなってきたビールを煽った後、「俺、なんで今さらこんなこと言ってるんだろ」と複雑な顔をする。誰かに言われずとも、伊澄は気づけるくらいには経験があるはずだが、分からなくなるようなものなのか。
一方、伊澄はテーブルに視線を落とした後、「そっか」と何かがすとんと胸に落ちたように呟いた。
「やっぱり、俺……結衣ちゃんのこと、好きなんだ」
そーだよ、と圭はぶっきらぼうに返す。
その反応から、随分と手を焼かせたのだと自覚し、伊澄は苦笑を零した。
「ありがとう」
「どういたしまして。じゃ、早速、告白でもすればー?」
「なんで急にそんな投げやりになってるの……」
気持ちを受け入れたのであれば、あとは告げるだけ。結衣の反応からして、恐らくうまくいくだろう。
そう思った瞬間、圭は急にやる気をなくしてしまった。
理由は単純なもので、ここから先は圭の力なしでも出来ることだからだ。ゆったりとしている伊澄だが、決めたことに対してはそれなりに早い。
「だって、告白ってなったら、伊澄さんならさくっと言っちゃうだろ?」
「…………」
「……え?」
今までの交際は女性側から告白されたことが多いが、一回や二回なら経験はあるだろう。
そう思ったものの、すぐに伊澄から告白したところを見たことも聞いたこともないと気づき、嫌な予感がした。現に、伊澄は急に眉間に皺を寄せて考え込んでいる。
この様子はまさか……と、とある可能性に行き着くのと、伊澄が助けを求めたのはほぼ同時だった。
「えっと……告白って、どうやってするもの?」
「したことねえの?」
「うん」
目眩がした。
世の一部の男性を敵に回すかのような発言に、いろいろと言いたいことが込み上げてきたが、それをうまく言葉にすることができない。酔っているせいか、それともありすぎてまとめきれないせいか。
結果、とてもシンプルな言葉が出た。
「……ごめん。一回、殴っていい?」
「えっ」
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