第19話 感情の名前
「なるほど。あれは結衣だけじゃ無理ね」
「でしょう?」
夕方近くになり、作っていたゼリーが完成した。下層の青も程良い透明感を持っており、透明な上層の中にあるさくらんぼの存在を引き立てている。
店が閉まってしまう前に、と手早く包んで持って行き、まず、伊澄が店にいるかを確認するため、前回と同じく斜め向かいの店舗の影から様子を見ることにした。
その結果、伊澄はいつかの如く三人の四、五十代の女性客と話をしている最中だった。女性客は買い物帰りのようで、それぞれ買い物袋を持ったまま談笑している。
楽しそうな笑い声が聞こえてきて、結衣は花屋から視線を逸らし、店舗の影に引っ込むと小さく息を吐いた。
「忙しそうだし、やっぱり、また今度にしよう?」
「ええ? ちょっと待って。あの三人組、別に花を買いに来た様子じゃないのよ?」
「なんでそれが……」
「だって、どう見たって案内してるような感じじゃないし」
茉莉に言われて見れば、確かに、伊澄の前にいる三人の女性達は楽しげに話をしている物の、花には少しも視線を向けていない。心なしか、伊澄も少し困っているようにも見える。
接客は接客でも、雑談なら話は別だ。
悄然としていた結衣だったが、その手首が茉莉によってがっしりと掴まれる。嫌な予感がした。
「いっそ、思い切って行っちゃおう」
「えっ」
結衣が何かを言うより早く掴まれた手が引かれ、花屋へと進んで行く。
すると、客に向いていた伊澄の視線が結衣と茉莉へと向けられた。それにより、伊澄の前にいた三人の女性客も彼の視線を追って結衣と茉莉を見る。
「あれ? 二人とも、買い物?」
「こんにちは。お話し中すいません」
「いえいえ、いいのよー。私達もお仕事の邪魔しちゃってたし」
茉莉の後ろで一人慌てている結衣はそっちのけで、茉莉は女性客三人に笑顔を向けた。
断りを入れられたこともあって、彼女達も不快感を表すことなく自然と受け入れていくれている。それでも去る様子がないのは、現れた茉莉と結衣が伊澄とどういう関係なのか気になるからだろう。
「この前、お話ししてた課題の試作品が出来たので持ってきたんです」
「ああ! あれね。前は圭に食べられちゃったみたいだし、ちょっと残念だったんだ」
「ですよね。なので、今回こそは……結衣?」
伊澄は圭から話を聞いていたのだろう。ただ、彼の口から「残念」という言葉が出るとは思わず、これは彼の中でも何か変化があったのだろうと心の中で頷く。
そして、未だ茉莉の後ろに隠れるようにしていた結衣を振り返って見た。
「えっ! あ、は、はい。えっと……こ、これです!」
「ありがとう。楽しみにしてたから嬉しいよ」
茉莉に背中を押され、結衣はしどろもどろになりながら紙袋を差し出す。この場の全員の視線が痛い。
伊澄は、差し出された小さな紙袋を受け取りながら、花が咲いたように笑顔を浮かべる。前回、圭に食べられてもやもやとしていた気持ちが一瞬で消えてしまった。
結衣は渡すことでいっぱいいっぱいのようだが、冷静に場を見ていた茉莉は勿論、女性客三人も驚いたように目を見開く。
そして、いち早く我に返った女性客の一人が、微笑ましそうに結衣と伊澄を見て言う。
「ふふっ。こんなに可愛らしい彼女さんがいるなんて知らなかったわ。うちの人も、伊澄ちゃんくらいもっと素直になってくれたらいいのに」
「「えっ!?」」
確かに、何も知らない人から見れば、仲睦まじい恋人同士に見えるのだろう。
結衣と伊澄が二人揃って驚いたことが不思議なのか、彼女はぱちくりと目を瞬かせて小首を傾げた。
「あら、違うかった?」
「あはは……。すごく良い子ですけど、そういう関係じゃないですよ。俺には勿体ないというか……」
(ん? 嫌な予感)
真っ赤になった顔を両手で挟んで冷やす結衣と違って、伊澄は苦笑を浮かべてやんわりと否定した。
その様子に茉莉は嫌なものを感じつつ、いっそ何も言わずに終わらせてくれないかと願った。もしくは、女性客から答えを避けるようなことを言わないかと。
だが、彼が続けた言葉は、茉莉の予想通りになってしまった。
「どちらかと言えば、妹がいたら、こんな感じなのかなぁって思います」
「…………」
結衣が固まったことに、伊澄以外の全員が気づいた。
初対面の女性客でさえ分かったというのに、伊澄は今の発言が失言だったとは思わないのかきょとんとしている。
茉莉は内心で「あーあ」と呟き、片手を額に当てたい気分だ。最も、同じようなことを思ったのは茉莉だけでなく、女性客達もだが。
今の空気を作ってしまったことを気にしたのか、結衣は流れている妙な沈黙を自ら破った。
「お、お仕事の邪魔して、すみません。えっと……また、感想、教えてください」
「うん。ありがとう」
「しっ、失礼します」
伊澄を見ることが出来ない。彼から視線を外したまま必死にそう言うと、ついには限界を迎えたのか走り去ってしまった。そのとき、勢いよく振り返った弾みで結衣のバッグに付いていた猫のキーホルダーが落ち、気づいた伊澄が拾う。
突然、走り出した結衣に驚いたのは茉莉だ。「結衣! ちょっと待って!」と慌てて彼女を追った。
キーホルダーを届けて欲しかったが、咄嗟のことで茉莉を呼び止めることもできず、かといって結衣の姿はもう声を掛ける距離にはない。あとで連絡をすればいいか、とエプロンのポケットに入れた。
そして、やたらと突き刺さる視線に気づいてそちらへと向き直る。
女性客は三人とも、呆れたような顔をしていた。
「伊澄ちゃん」
「はい?」
「今のはダメ」
「えっ」
前置きのない駄目出しに、一体、何をしたかと先ほどまでの流れを振り返る。おかしいところはないように思えるが、どうやら何かをしでかしてしまったようだ。
頭上にクエスチョンマークを浮かべる伊澄を見かねて、一人が先ほどのやり取りについて切り出す。
「あの子、可哀想よ。せっかく、伊澄ちゃんのために作ってきたのに、妹扱いはねぇ……?」
「そうねぇ。せめて、本人の前じゃなかったら……」
「で、でも、一応、まだ未成年ですし」
「恋に年齢は関係ないの! あの子も一人の女の子なのよ? ちゃんと向き合ってあげなさいね」
伊澄にしては珍しく反論したものの、軽く一蹴されてしまった。さすがは、伊澄より長く生きているだけはある。
三人は、困惑した様子の伊澄を見ると、揃って子供を見る母親のように「仕方ないわね」といった様子で軽く息を吐いた。
「その様子だと伊澄ちゃんは無自覚なんでしょうけど、あの子を見たときの伊澄ちゃん、今までにないくらい嬉しそうだったのよ?」
「え」
そんな顔をしていただろうか。嬉しくて笑顔になった自覚はあるが、それは誰にでも向けているものと同じだと思っていた。
すると、真ん中にいた女性客は片手を頬に当てて、これまでの伊澄の彼女を思い浮かべて言う。
「これまでの彼女さんといたときでも、あんな顔したことないんじゃないの? 知らないけど」
「あらやだ。知らないのに言っちゃってー」
「やあねぇ。ついよぉ」
「それじゃあ、長くお邪魔してごめんなさいね。良い報告が聞けるのを楽しみにしてるわ」
伊澄を一喝した女性客が言えば、他の二人も揃って「またね」と店を後にする。
残された伊澄は、ポケットに入れていたキーホルダーを取り出す。
「……向き合う、か」
事ある毎に浮かび上がってくる感情を抑え込んでいたが、果たしてその感情は、薄々と感じているもので合っているのか。それを、彼女に向けてもいいものなのか。
一人考え込んでいた伊澄を現実に引き戻したのは、聞き慣れた声だった。
「それって結衣ちゃんの?」
「え?」
キーホルダーを見つめていた伊澄の背に声を掛けたのは、不思議そうな顔をした圭だ。エプロンを外しただけの仕事着の上に薄手のパーカーを羽織っており、暑いのか袖は肘上まで捲っている。
格好からして仕事中のはずだが、何かあったのか。
その疑問が顔に出ていたのか、圭は「買い出しに行くところ」と説明してから言葉を続ける。
「その袋……もしかして、結衣ちゃんが来てたのか?」
どこにでもあるようなごく普通の茶色い紙袋だが、口の部分が見覚えのある赤と白のチェックのマスキングテープで留めてある。また、キーホルダーも結衣が伊澄から貰っていた物と同じとなれば、浮かぶのは一人しかいない。
――恋に年齢は関係ないの! あの子も一人の女の子なのよ? ちゃんと向き合ってあげなさいね。
ふいに、つい先ほど一喝された言葉が蘇った。
「……圭。お願いがあるんだけど」
「え?」
伊澄はそう言うと、きょとんとする圭の前で手早くエプロンを外し、紙袋と一緒に圭に渡した。
「これ、店の奥に持って行って。あと、ちょっとだけ店番頼む」
「はい?」
「すぐ戻る!」
「え? は!? ちょっ……!」
圭が了承するより早く、伊澄は駆け出していた。
残された圭はしばし唖然としていたが、店の奥から出てきた浩介に「あれ? 伊澄は?」と訊かれると、苦笑を浮かべて返す。
「あー……ちょっと、大事なお客さんが、忘れ物したとかで届けに行きました。帰ってくるまで、俺、店番しててもいいんですかね?」
「えっ。いいのかい? 悪いねぇ。ありがとう」
(断らんのかい!)
圭は花については詳しくない。てっきり、帰ってもいいと言われるかと思いきや、浩介から返ってきたのは予想外の返事だった。
(今日、仕事終わったら伊澄さんに根掘り葉掘り訊いてやる……!)
幸い、買い出しと言っても急いでいるわけでもない。伊澄も走って追いかけているため、さほど時間は掛からずに戻ってくるだろう。
内心で愚痴を零しつつ、それでも律儀に、圭は店番をすることにしたのだった。
「結衣! 結衣、待って!」
駆け出した結衣を追った茉莉は、今日に限ってサンダルを履いていることを恨んだ。走りにくいことこの上ない。
商店街を抜け、それでも足を止めない結衣は、ただ恥ずかしさから逃げ出したわけではなかった。
――どちらかと言えば、妹がいたら、こんな感じなのかなぁって思います。
伊澄に言われた言葉が、酷く胸を締めつけた。その理由が分からず、けれど、あのまま伊澄の前にいることが辛くなったのだ。
やがて、結衣も息が切れたのか、少しスピードが緩んだ。それを見逃さず、逆にスピードを上げた茉莉は結衣の手を掴んで引き止める。
「結衣!」
「っ!」
引かれた反射で振り返った結衣だったが、その頬にははっきりと涙の跡があった。驚きで見開かれた大きな目にも、新しい涙が溜まっている。
それを見た茉莉が愕然としたのを見て、結衣は彼女からぱっと顔を背けた。
茉莉は、肩で大きく息をしながら、掠れた声で言う。
「はあっ……な、んで……泣いて、んの……」
「わ、分か、ない……。で、でも……つ、辛く、て……」
理由など、聞かなくても明白だ。それでも茉莉が訊いたのは、自覚の有無を確認するためだった。
だが、ここにきて、彼女はまだ分からないと言うのか。
大きく息を吸って吐いた茉莉は、止めどなく涙を流す結衣を優しく抱きしめる。
「バカねぇ。それ、好きだから辛いのよ」
その感情の名を、「恋」と呼ぶ。
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