第16話 繋がれた手
アクアリウム展が催されているエリアは、二カ所ある出入口に黒いカーテンが引かれていた。
入口の横に置かれていたアクアリウムエリアのマップを確認すると、室内はコの字型に近い構造になっているようだ。初めは真っ直ぐな廊下、その奥に広い空間があり、出口に向かってまた廊下が伸びている。
入口のカーテンを、伊澄は結衣が入りやすいように捲ってやる。光を完全に遮断するためか、カーテンは意外と分厚い。
伊澄に促されて先に入った結衣は、黒い世界に浮かんだ鮮やかな緋色に目を奪われた。
「わ……!」
「すごいね」
後から入った伊澄も感嘆の声を漏らす。
明かりは水槽を照らす青白い光のみ。真っ直ぐ伸びた廊下には、両サイドに円柱状の水槽が置かれており、中では緋色の金魚が何匹も泳いでいる。羽衣のような鰭が優雅に揺れ、まるで花びらが舞っているかのようだ。
「あっちはまた別の種類がいるよ」
「ほんとですね」
水槽は五種類。中にいる金魚の種類もそれぞれ異なっていたり、数が違っていたりと、思わず一つ一つの前で足を止めてしまう。
縁日で見たことのある金魚から、ふっくらとした体と長い尾鰭を持つ赤と白の金魚、頭が少し大きい金魚など様々だ。
これでまだ入口ということは、奥のメイン会場はどうなっているのか。
気になった結衣が伊澄に先に行ってもいいか聞こうと顔を上げたときだ。
「…………」
「写真はフラッシュがなかったらいいんだって。撮って圭達に――結衣ちゃん?」
「…………」
水槽の傍らにはフラッシュ禁止のマークがあり、撮影自体は禁止ではないと分かると、伊澄はスマホを取り出して撮ろうとした。
だが、結衣が水槽とは別の方向を見て固まっていると気づくと、伊澄はその視線の先を追う。
伊澄達がいる列の水槽とは反対側。入口に近い一つ目の水槽で立ち止まる一組のカップルがいた。腕を組んで寄り添っている上、彼女の方は位置的に彼氏に隠れて見えにくい。彼氏は横顔だけしか見えないものの、爽やかな好青年といった風貌だ。
仲睦まじい姿だが、伊澄としては過去の彼女を思い出して複雑な心境に陥ってしまった。
(うーん……。そうか。俺、ああいうのをされたとき、すぐに逃げてたな……)
人目があるからと、腕を組まれそうになったときはやんわりと断ったり、出来るだけ自然に見えるように逃げていた。そのときの彼女の表情は覚えていない。
こんな状況で思い出すものでもないか、と意識を再び結衣に戻せば、彼女の表情が曇っていることに気づいた。水槽に背を向けているので分かりにくいが、先ほどまでとは明らかに様子が違う。
もしや、あの青年に何かあるのか。
そう考えが至った瞬間、また胸の奥に靄のようなものが生まれた。
何があったかは知らないが、これ以上、結衣の視界に彼を入れておくわけにはいかない。
ただ、声を掛ければ良かっただけのところを、気づけば伊澄は手を伸ばしていた。
「……えっ?」
「突然触ってごめんね? 奥行こうか」
結衣は、突然、空いていた手を握られてびくりと肩を跳ねさせた。
握ってきた相手……伊澄を見上げれば、彼は困ったように笑って軽く手を引く。
歩き出すとすぐに手は離されたが、すぐ近くにはいてくれている。
(……もしかして、気を遣ってくれた?)
あの青年について、伊澄には言ったことがない。結衣の様子だけを見て判断し、連れ出してくれたのか。
少し前を行く伊澄を見る。
水槽から離れた今、先ほどまでとは違って伊澄の表情は伺いにくい。また、人の多さに下手に距離を開ければ置いていかれそうだ。
結衣は、ほんの僅かな間だけ握られた手を見る。
「…………」
離されたことが、無性に寂しくなった。
そう感じた瞬間、結衣は伊澄の手にそっと触れた。
「え?」
「ご、ごめんなさい……」
今度は伊澄が驚いて立ち止まる。
もしや、嫌な思いをさせたかと不安になったが、握った手を離す気にはなれなかった。
「は、はぐれると、大変そう……なので……」
必死に言い訳を探して、懸命に言葉を紡ぐ。
人の多い中、微かな声だったが伊澄には届いていたようで、少しの間ぽかんとしていた彼はすぐに我を取り戻した。
握っていた手が少し強めに握り返されたことに気づき、はっとして伊澄を見上げれば、水槽の明かりに少し照らされた伊澄ははにかんで言う。
「そうだね。はぐれたら大変だ」
初めて見た笑顔に、結衣は胸がぎゅっと締めつけられたような感覚がした。これは何だろうかと戸惑いながら、空いた手で胸元を服の上から握る。
一方の伊澄は、耳が熱いのを感じながら、ここが暗い場所で良かったと思った。
(出るまでに落ち着かないと……)
握った手とは反対の手を頬に当てれば、ひんやりとした温度差から自分の顔が赤いとよく分かる。
メインとなっている奥の展示はさらに感動を覚える美しさだったが、今の二人にはそれを楽しめるほどの余裕はなかった。
そんな二人を後ろから見ていた圭は、茉莉に結衣の様子がおかしくなった原因を聞いていた。
アクアリウムを楽しみつつ、二人の様子も楽しんでいた圭と茉莉にとって予想外のハプニングだった。
「ねぇ。あれ、誰?」
「あたしも写真で見たくらいだけど、結衣がああなった元凶かなぁ」
結衣と茉莉は高校からの付き合いだ。先輩に絡まれて困っている結衣を茉莉が助けたところから、二人は仲良くなった。
元凶であるその人物は、結衣の中学のときの先輩だ。
「あの人、見た目はすっごい好青年でしょ?」
「うん。まぁ、ちょっと嘘くさいくらいには」
「さすが圭さん。その通り」
大半の人が、その人を見れば「好青年」と口を揃えて言うだろう。また、彼と関わりを持った人も、「あいつは人が良い」と。
しかし、ごく一部からは「見た目に騙された」という声もある。この悪いほうの話については、彼の表しか知らない人は「そんなことをする奴じゃない」と言って何故か信じようとしないのだが。
「結衣が中学生のときの先輩らしいんだけど、ほら、見た目はすごく良い人だから、結衣も好きだったみたいなの。でも、ちょっと……いや、かなり癖のある人でさ」
「意外と女遊びが派手な感じ?」
「まぁ、それもある。あとは、付き合ってる相手には手が上がりやすいみたいで」
人が多いせいか、茉莉は直接的な言葉を使わない。だが、あの青年が彼女に対して暴力を振るうということを圭に伝えるには十分だった。
茉莉は、結衣から青年の話を聞いたときを思い出し、眉間に皺が寄るのを感じる。
「その現場を、結衣は見ちゃったみたいなの。で、それを相手にも気づかれて、脅されてからさっぱりダメになってね」
「えっ! それ、結衣ちゃんも殴られ――」
「声が大きい!」
近くにいた女性に聞こえたのか、怪訝な顔をされてしまった。
慌てて圭を止めれば、彼は「ごめん」と口を手で塞ぎながら、今いる場所を思い出す。そもそも、ここで話すべき内容ではなかったのだ。
茉莉は溜め息を吐くと、先ほどよりも声を潜めて言う。
「さすがに殴られてはないけど、『言ったら殴る』みたいな感じではあったらしいの。あたしが知ったのは、結衣といるときに町であの先輩を見かけてさ。結衣の様子がおかしかったから聞いたのよ」
「……想像はつく」
脅してきた相手を見るだけでも、結衣にとってはかなり恐ろしいことだっただろう。
茉莉は、がたがたと震える結衣を思い出し、重い溜め息を吐いた。今振り返ってみても、よく打ち明けてくれたものだ。
「そんなことがあったから、穏やかそうな伊澄さんでも警戒心いっぱいなのは仕方ないの。……まぁ、だから、慣れるのが早いことにびっくりしたんだけど」
「あー……あの人は本当に根が良い人だからなぁ」
「そうね」
異性が苦手と聞いて、理由を聞かずに距離感を計りつつ、自ら詰め寄ることもしない。元凶の先輩との違いはそこにある。
茉莉は前にいる二人を見失わないよう、視線を外さずに言葉を続けた。
「これで猫被ってるんなら、今すぐにでも引き剥がすわ」
「付き合いの長い俺が保証するから、その心配はないけど……なるほど。茉莉ちゃんが結衣ちゃんに協力的なのは、聞いちゃったから?」
圭が伊澄に対して積極的に動くのは、伊澄が圭にとって「幸せになってほしい憧れの先輩」だからだ。
だが、茉莉は何故、結衣の苦手の克服に協力的なのかが圭には分からなかった。友人として多少は協力はするかもしれないが、ここまで積極的に動くものだろうか。
ずっと気にはなっていたが、茉莉から聞いた話から推測すると、彼女は結衣に対して罪悪感を抱いていたのではないのかと思った。いくらその状況を見てしまったとはいえ、思い出したくない事を聞いてしまったことへの。
図星だったのか、茉莉は渋面を作っていた。
「……社会に出たときに困るでしょ」
「表向きの理由はそれ?」
「ほんっと、なんでそんな見た目に反して鋭いわけ?」
「あははっ。……素直に喜べないのはなんでだろう」
圭は茉莉の棘のある言い方に笑いはしたものの、すぐに遠い目をした。
そんな圭を一瞥してから、茉莉は軽く息を吐いて本音を少しだけ明かす。
「聞いちゃったのもあるけど、苦手を克服できそうな相手が見つかったなら、そのまま良い方向に持っていきたいって思うでしょ。まぁ、伊澄さんが嫌がったら無理にはしなかったけど」
「…………」
「……何よ」
やや口早だったが、まさか茉莉から本音を聞けるとは思っていなかった圭は、思わず唖然としてしまった。
そんな彼を、茉莉はじろりと横目で睨むように見る。文句があるなら言えと。
だが、返ってきたのは言葉ではなく、無造作に頭を撫でる手だった。
「ありがとな。言ってくれて嬉しかった」
「……バカじゃないの」
「ツンデレってのも分かってきたから平気、ったぁ!」
「あ、ごめん。暗くて見えなかった」
「あれ? 元凶の先輩か……?」
思いっきり足を踏まれ、先ほど聞いたばかりの先輩の話が浮かぶ。勿論、悪いのは冷やかした自分だとは分かっているが。
圭は、彼女を茶化して遊ぶのは危険と自身に言い聞かせた。
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