第15話 伸ばした手は
(早く着いちゃったな……)
アクアリウム展が開催されている水族館。
二頭のイルカが水面から跳ね上がったところを模したオブジェの前で、伊澄は今の時刻を確認して小さく息を吐いた。
待ち合わせは昼の一時。早くに着いたので入場チケットも買ったのだが、それでも約束の時間まではあと十五分ほどある。
今朝は目覚ましが鳴るより早くに目が覚め、自宅でのんびり準備をしていようと思ったものの、そわそわしてしまって気が落ち着かなかったのだ。昼食も軽めに済ませたが、気を紛らわせようと見ていたテレビは何だったか、もはや記憶にない。
(うーん。こんなことなら、お昼も誘えば良かったな)
出掛けることすら緊張しているのだ。「一緒に食事」というハードルはさらに高いだろうと、お互いに昼食を済ませてからと思ったのだが、これならば少し強気に出ても良かったかもしれない。
また、待ち合わせの時間は日中でも気温の高い時間帯だ。海が近いので風は吹いているが、照りつける太陽は容赦なく肌と周囲の地面を熱している。
オブジェが見える建物の影に移動した伊澄は、額に滲んでいた汗を拭った。
夏休みということもあり、周りは家族連れや友人、恋人同士と人が多い。これで平日なのだから、土日ともなればさらに増えるのだろう。
(こうして待ち合わせをするのも久しぶりだ……)
圭や同性の友達ではなく、異性相手で。
何となく、手を繋いで歩く恋人達が視界に入り、「いやいや、そうじゃない」と頭を左右に振る。冷静になれ、自分達はそういう仲ではない、と言い聞かせて。
「伊澄さん?」
「は、はい!」
突然、声を掛けられ、反射的に大きく返事をしてしまった。そして、声の主が誰であるか分かった瞬間、思考が停止した。
目を見開いて固まる伊澄に、声の主……結衣は、どこか悪いところでもあるのかと不安になった。
「だ、大丈夫、ですか?」
「あ……や、ううん。大丈夫。ちょっと、考え事してて……」
「すみません。お待たせしてしまって……その、わ、私、何か……変、ですか?」
大丈夫と言いながらも、伊澄の意識はどこか心ここにあらずだ。
先にいた伊澄に待たせたことを謝りつつ、やけに視線が突き刺さるように感じた結衣は、何かおかしいだろうかと訊ねる。ちなみに、訊いてもいいと言ってくれたのは他でもない茉莉だ。
「雰囲気を変えてるから、びっくりしてるようなら思い切ってこっちから言ってやりなさい」と、やたらとピンポイントなアドバイスだと思ったが、まさか使うとは思わなかった。ただ、これで「変」と言われたら、今すぐにでも帰りたい気持ちになるが。
今日の服は、茉莉が選んでくれたものだ。白のトップスは袖が二重のシフォン生地になっており、二の腕の半分ほどを覆っている。明るいベージュのトレンチスカートに裾を入れていることで、ウエストの細さがよく分かった。
足下は焦げ茶色のブーツサンダルで、甲の部分はレースになっているので涼しげにも見える。
普段、あまり肌や体のラインを出すことのない結衣にとって、今日の服装はかなり勇気を出したものだ。
心臓が早鐘を打つのを感じつつ、斜め掛けにしているバッグの紐を無意識の内に握りしめる。
結衣の質問に目を瞬かせていた伊澄は、困ったように笑みを浮かべると首を左右に振った。
「ううん。違う。雰囲気はいつもと違うけど、よく似合ってるよ」
伊澄は結衣がワンピースを着ているところしか見たことがなかったため、今日の服装はとても新鮮に感じたのだ。
また、ハーフアップにしていたセミロングの髪は、今は後ろで一つにまとめているせいでうなじも普段より見えている。
気を抜けば未成年であることを忘れてしまいそうな程、大人びた雰囲気だった。
素直に褒められた結衣は、瞬く間に顔に熱が集まるのを感じた。
(が、頑張って良かった……!)
「じゃあ、早速、中に行こうか」
「え? チケットは……」
「もう買ってるから大丈夫」
入場チケットの販売所はオブジェの隣……ちょうど、今いる建物だ。
だが、伊澄は列を成しているそちらには向かわずに水族館へと歩き出したので、結衣は慌ててその背を追った。
伊澄はどこか上機嫌にカバンからチケットを出すと、一枚を結衣へと渡す。
素直に受け取った結衣だったが、すぐに自分の分を支払ってもらっていると気づいて伊澄を見上げた。
「えっ。あ、えっと、だ、代金は……」
「こういうときは、素直に受け取っていいんだよ」
「……あ、ありがとうございます」
にこりと笑って言えば、結衣はまた顔を少し赤くしながら伊澄から視線を逸らして礼を言う。
そんないじらしい姿につい、「どういたしまして」と言いながら頭を軽く叩くように撫でた。
だが、ぴしりと石の如く固まった結衣を見て、はっと我に返った。今、自分は何をしたのか。
「ご、ごめん! 急に触って」
「……えっ? あ、いえ……だ、大丈夫、です!」
伊澄に謝られたことで結衣も自我を取り戻すと、触れられたところを確かめるように自身の手を当てて力強く返した。不快感がなかったのは、それだけ伊澄には慣れている証拠だ。
そして、二人の姿が水族館内に入ったところで、オブジェから顔を出す二つの影があった。
「あれ、どこのバカップル? 天然タラシって噂は本当だったのね」
「んー……けど、伊澄さんが彼女にあんなことしてるの見たことないけどな」
「圭さんの前でしなかっただけじゃなくて?」
「いや、人前では少し距離はあったかな。彼女側からくっ付いてることはあったけど」
影の主は、誘いを断ったはずの茉莉と圭だ。周囲から不審げに見られているが、今の二人にとって重要なのは結衣と伊澄の言動だった。
こっそりと見ていた茉莉はげんなりとしていたが、圭は珍しいものを見たと言わんばかりの驚いた表情をしている。
これまでの彼女と付き合っているときには、人前で伊澄から触れるということをしていなかったはず。それが、今は自ら結衣の頭を撫でていた。
「表情も緩いし……あれ、実は伊澄さんにそっくりな別人だったりしない?」
「それはそれで大問題ね。見失う前に行くわよ」
「へーい」
距離が近すぎても二人に見つかる可能性があるが、見失っては元も子もない。
オブジェの影から出た茉莉に、圭ものんびりとついて行った。
「かっ、可愛い……!」
感動で声を上げた結衣の視線の先には、まだ白い毛に包まれたアザラシの子供がいた。
人工雪の上で横たわるアザラシは、眠たいのかうとうとしている。だが、見学している客の声に反応してか、時折、ぱっちりと目を開けては客のいる方を見ていた。
(こういうところは年相応だなぁ)
「あ。今、上がってきたの、親ですかね?」
「うん。母親みたいだね」
はしゃぐ結衣を微笑ましく思いながら、プールから上がった大きなアザラシへと視線を移す。今、見に来たのは水族館にいる魚や動物であって結衣ではないと、自然と結衣を見ていた自分を内心で叱咤しながら。
ちなみに、大人のアザラシが母親であることは、アザラシの名前と関係性が書かれたボードが立てられていることで知った。
水族館内は指定された順で回る仕組みになっており、アクアリウム展は終盤に設置されていると館内マップで確認した。それまでは常設の展示だ。
久しぶりに来た、と言っていた結衣は、様々な魚が泳ぐ水槽を通るたびに表情を輝かせて足を止めていた。
「ふふっ。お母さんに甘えてますよ。可愛いなぁ」
「結衣ちゃんは、動物を挟むと素直だね」
「え」
突然、何を言うのかと、結衣の表情が固まった。
しかし、伊澄としては悪い意味で言ったわけではなく、純粋に嬉しく思って言っただけだ。
「あ、ごめん。別に悪いって言ってるんじゃなくて、ただ……はしゃいでて可愛いなって思って」
「……えっ」
さらりと流れるように言われて、意味が分からずに思考が停止した。
これはどう返すのが正解なのか。茉莉からは何も聞いていない。
当の伊澄は、自身の発言がどれほどの威力を持っているのか自覚がないのか、嬉しそうに笑顔を浮かべて言葉を続ける。
「楽しんでくれているなら良かった」
「…………」
「あれ? 違うかった?」
「いえっ! た、楽しい、です」
異性が苦手ということは伊澄も知っている。
心根の優しい人だ。結衣が楽しめて安心したのだろう。
結衣は、伊澄の言う「可愛い」に大きな意味はないのだと結論づけて、まだドキドキする心臓を宥めながらぎこちなく返した。
「そっか。なら良かった」
「え、えっと……さ、先に進みましょうか。すみません、長居しちゃってましたよね」
「もういいの?」
「人も増えてきましたし、また今度でも大丈夫です」
「……そうだね。また次の機会に」
もしかすると、次に来たとき、アザラシはもっと大きくなっているかもしれない。けれど、それはそれでまた愛らしい姿はある。
それよりも、伊澄は結衣の口から「また今度」と出たことに胸が高鳴った。
感情の揺れは極力気にしないようにしながら、水族館に入るときとは違って先を行く結衣を追って隣に並ぶ。
これまでよりも近い距離になってしまったが、結衣が避ける気配はない。
(慣れ、かな)
些細な変化だが、気づいた瞬間にまた心が温かくなった。
アザラシのいたエリアから進むと、右手側に大きな水槽のあるエリアに変わった。水槽自体が光源となっているかのように青い光に包まれた薄暗い空間だ。
水槽に目を奪われ、無防備になっている結衣の手が視界に入る。
もう少し近づきたい、と欲が出た。
伊澄の手が、自然と結衣の手に伸ばされる。
あとほんの少しで触れるというところで、水槽を見ていた結衣が伊澄へと向き直った。
「すごい! 今の見ました!? ものすごい速さで、イルカ、が……って、伊澄さん?」
「ううん。何でもないよ……」
振り向いた先にいた伊澄は、何故か水槽とは反対側の壁に寄りかかるように左手をついていた。
結衣が突然動いたことで我に返った伊澄が、光の速さで彼女から離れて勢い余って壁にぶつかっただけだが、それを結衣が知る由もない。
こっそりと付いてきている茉莉と圭は、声を押し殺して笑っている。
「あの、どこか具合が……?」
「うーん。ある意味では悪いけど、体調不良ではないから安心して」
「……?」
それは、果たして安心していいものか。
怪訝な顔をする結衣に、伊澄は話を変えるためにもイルカの泳いでいる目の前の水槽を指して「ほら、また近くを泳いで行ったよ」と言った。
伊澄の異変も気になるが、彼が大丈夫だと言うのならしつこくしないほうがいいのだろう。
結衣は伊澄の体調には気をつけようと思いつつ、水槽へと視線を移した。
そんな二人を見守っていた茉莉は、笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭う。
「いやー、アザラシの所ではものすごくプールに突き落としたい気分になったけど、あれはもう『そういうこと』でいいのよね?」
距離を開けていたため、二人が何を話していたかは聞こえてこなかったが、それでも結衣の表情と漂う雰囲気から察することが出来た。
しかし、先ほどの伊澄の行動を鑑みれば、彼が結衣に対して少なからず好意を抱いていると思っていいだろう。
隣にいた圭も漸く笑いを抑えると、一度大きく息を吐き出してから返した。
「そういうことでいいんじゃないか? あー、笑った。伊澄さんもあんなに慌てることあるんだ」
「今時、あんなことする人いるのねぇ」
「それな。手くらいさっさと繋いじゃえよって焦れったくなったけど、結衣ちゃん相手だと慎重にもなんのかね」
これが普通の男女だったなら、雰囲気次第ではすっと手を繋いでいたことだろう。
繋がずに避けたのは、伊澄の結衣への気遣いの表れとも、単に彼の勇気が足りないだけとも取れる。
また先に進む二人の後を、距離を開けてついて行っている途中、茉莉は視界の隅に一瞬だけ入った人に気づいて足を止めた。
「ん?」
「茉莉ちゃん?」
「…………」
茉莉が気になったのは、見覚えのある男の人だった。今は人混みに紛れて姿が分からないが、何処で見た人だったか。
すっきりしない記憶に難しい顔をしていると、圭が肩を軽く叩いて現実に引き戻した。
「見失うぞー?」
「あ、ごめん。すぐ行く」
すぐに思い出せない辺り、大したことのない人か、知人に似ているだけなのかもしれない。
そう結論づけて、茉莉は圭と共に結衣達を追った。
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