第17話 縮まる距離
アクアリウム展を出た後、二人は残る水族館内の展示もどこかそわそわしたまま見て回った。
繋いでいた手は、アクアリウム展の会場を出る際にどちらからともなく離してしまったが、先ほどより明るくなった館内では繋ぎ直す勇気は両者にはない。
結衣の気分が沈んだ原因の人物とも、あれからタイミングが上手くずれているのか会うことはなかった。まだ館内にいるかもしれないと思うと気は抜けないままだが、伊澄がいるおかげか多少は気が楽だ。
そして、出口が近づくと、土産用品を置いているショップに差し掛かった。
「伊澄さん。少し、お土産を見て行ってもいいですか?」
「うん。……あ。その前に、俺、ちょっとお手洗い行ってくるから、先にゆっくり見てて」
「分かりました」
一瞬、先ほどの人物が浮かんだが、さっと見た感じでは姿は見当たらない。
結衣の視線の動きに気づいた伊澄は、「すぐ戻ってくるから」と微笑んで足早に離れた。
背中が見えなくなったところで、結衣もショップへと足を向ける。通路にいるよりショップにいたほうが見つかりにくいだろうと踏んで。
分かれた二人に困ったのは、後をつけていた圭と茉莉だ。
「あれっ? 伊澄さん、トイレ行っちゃった」
「結衣はショップにいるけど、あたし達もあそこ入ると見つかっちゃいそうね」
「こそこそしてたら、店員さんに怪しまれそうだしなぁ」
柱の影に隠れて見ている時点で、周りの人に怪訝な顔をされているのだが、二人がそれに気づく気配はなかった。
ショップはそれなりの広さがあるが、結衣達に見つからないように動くのは、店員からすれば万引きを疑う行動に繋がりかねない。
ならば、このまま店の外で待つべきか。
二人揃って悩んでいたが、茉莉は圭の背後に迫った影に気づいて「あ」と短く声を上げる。
同時に、圭の頭が何かによって鷲掴みにされた。
「奇遇だなぁ。こんな所で会うなんて」
「ひっ!? あっ、ほ、ホントホント! いやぁ、世間って狭いなぁ!」
圭の頭を掴んだのは、先ほどトイレに向かったはずの伊澄だった。彼はトイレに行く振りをして、二人の後ろに回り込んだのだ。
笑顔を浮かべてはいるが完全には笑っておらず、茉莉は「あ、この人は怒らせたらいけない人だ」と察してしまった。
ただ、伊澄は茉莉の姿を視界に入れると、怒りを含ませた笑顔を消して溜め息を吐く。
「まったく。二人とも来ないって言ってたのに、いつの間にそういう仲になったのかな?」
「違います」
「いや、違うけど、否定早くない?」
茉莉の否定は、ほぼ伊澄の問いに重なっていた。
さすがの圭も少し傷つきつつ言うが、彼女の耳には届かなかったようだ。
圭には一瞥もくべることなく、淡々と伊澄に返す。
「断った後にやっぱり行きたくなって、仕方なく圭さんを誘った結果、たまたま今日になっただけです」
「わぁ、完全スルー」
「……分かった。ひとまず、そういうことにしておくよ」
茉莉の口振りに、伊澄もこれ以上何かを言うのは止めておいたほうがいいと判断して引き下がる。
圭は気づかれていないと思っていたため、一体どこでバレたのか気になり、思い切って訊ねた。
「伊澄さん、どこから気づいてたの?」
「え? えっと……アザラシの辺りだったかな。視線を感じて振り返ったら二人が見えて、邪魔しないほうがいいかと思って」
「割と序盤! しかも気遣われてるし!」
(あたし達がいるって知っててあれか……)
確か、結衣と伊澄のやり取りに二人してむず痒く感じていたときか。
愕然とする圭だったが、それよりも茉莉はいると知っても手を繋いだりしていたのかと、伊澄に対する見方が変わりそうだった。
伊澄は辺りを見渡すと、結衣のことが気になったのか圭を見て口早に言う。
「今はあまり追究しないけど、あんまり変なことはしないように」
「えっ。俺ぇ!?」
その忠告は、どういう意味なのか。
圭だけに釘を刺してから、伊澄はショップへと踵を返した。
「それ、伊澄さんのほうじゃ……」
一歩踏み出しそうなのはどちらか。
去っていく伊澄の背に呟けば、茉莉が「どんまい」と肩を叩いた。
(……良かった。会ってなさそう)
ショップに入ると、結衣はお菓子の箱を手に持ちながら、奥にある円形の棚に置かれていたカピバラのぬいぐるみを見ていた。すぐ近くの壁面の棚にも多くのぬいぐるみがある。
先ほどの青年とは会っていないようで、伊澄は内心で安堵しながら結衣に歩み寄った。
「結衣ちゃん。ぬいぐるみを買うの?」
驚かせないために、背後から声を掛ける形にならないよう横に回り込む。
先に名前を呼んだことで、結衣はカピバラのぬいぐるみから視線を上げて伊澄を視界に映した。
「いえ、その……おっとりしてて、少し、伊澄さんに似てるなって思いまして」
「うーん、カピバラかぁ」
「私は好きですけど……」
「えっ?」
似ているだろうか、と悩む伊澄を見て、結衣は彼がさほどカピバラが好きではないのかと思った。
ただ、好きか嫌いかではなく、どこが似ているかと考えていた伊澄は、結衣の言った「好き」の意味が咄嗟に理解できずに首を傾げた。
結衣は誤解を招く発言だと気づくと、慌てて自分の発言がどういう意味かを示す。
「あっ! か、カピバラが! です!」
必死に言う結衣を見て、伊澄は「ああ、カピバラがね」と納得する反面、少し残念にも感じた。
一方、結衣は話を変えようと、言葉に詰まりながらもイルカのぬいぐるみを手に取った伊澄に訊ねる。
「い、伊澄さんは、何か買わないんですか?」
「そうだなぁ。せっかくだし、買って行こうかな」
伊澄は今日も働いている店主夫婦やスタッフを思い浮かべ、彼らにお菓子でも買って帰ろうと、ぬいぐるみを棚に戻して移動する。
ゲームセンターでもそうだったが、意外と伊澄はふらふらと何処かに一人で行ってしまうようだ。
結衣もカピバラを棚に戻し、伊澄の後を追った。
その途中、結衣はあるコーナーが目に入って足を止める。
(……綺麗。シーグラスを使ったアクセサリーだ)
ぬいぐるみコーナーのすぐ近くにあったのは、「水族館オリジナル」と謳っているアクセサリーのコーナーだ。
砂浜でたまに落ちている、割れたガラスが波によって削られ、角が取れたシーグラスや貝殻を用いたペンダントなどのアクセサリーを始め、髪留めなども販売していた。
結衣はあまりアクセサリーは着けないものの、ヘアアクセサリーであれば、髪が長いこともあってよく使っている。
ただ、素材が珍しいのか、バレッタ一つでもそれなりの値段がついていた。
(うーん。今はいい、かな……)
結衣が手に取って見ていたのは、「ホタルガラス」と呼ばれる、黒い背景に青い色がホタルのように浮かぶガラスを用いたバレッタだ。土台となっているのはシルバーの透かし模様で、中心に丸いホタルガラスがはめ込まれ、その左右には少し小さめのホタルガラスが並んでいる。
ヘアアクセサリーはいくつか持っているため、わざわざ買うほどでもない。デザインはとても好みだが。
そう思って元の位置に戻すと、隣から声が掛けられた。
「こういうの好き?」
「っ!?」
「あ、ごめん。びっくりさせたね」
「いっ、いえ! ……あ。お会計、私もしてきますね」
びくりとした結衣に、声を掛けてきた本人……伊澄は申し訳なさそうに眉尻を下げる。
結衣は、彼が水族館のロゴが入った紙袋を持っているのを見ると、慌てて自身も会計を済ませようとレジに向かった。
「そんなに急がなくてもいいんだけど……」
気を遣わせてしまった、と苦笑しつつ、結衣が見ていた物を見る。
結衣のアクセサリーの好みは伊澄にはまだよく分からないが、綺麗なデザインであることは間違いない。
手に取って見ていた伊澄は、あることを閃いた。
だが、その場でアクセサリーを眺めて五分と経たず、早くも結衣が戻ってきてしまった。
「お待たせしました」
「早かったね」
「レジが空いていたので……」
「そっか。じゃあ、もう少し待っててもらってもいいかな? 圭のお土産忘れちゃって」
「はい。私、外で待ってますね」
圭本人はいるけどと内心で思いながら、伊澄はレジへと向かう。途中、本当に買っていなかった圭への土産となる物を手に取って。
そして、手早く会計を済ませた伊澄は、結衣と合流すると水族館を後にした。
外に出た瞬間、蒸せ返るような暑さに襲われ、室内の温度がどれほど涼しかったのかを身に沁みて実感した。
陽は傾き、空は茜色に染まっている。時計を見れば、既に十八時を回っていた。
駅までの道を歩きながら、充実した一日だったと今日を振り返る。
「今日はありがとう。水族館って久しぶりだったけど、すごく楽しかったよ」
「私も、楽しかったです。アクアリウムも……き、綺麗でしたしね! 茉莉ちゃん達にも見せたかったです」
「あー……うん。そうだね」
結衣はアクアリウムのエリアで再会した青年のことより、繋いだ手を思い出してまた顔が熱くなった。夕日のおかげで、赤くなったのが分かりにくいのが救いだ
対する伊澄は、その二人がいたことを知っているため、思わず遠くを見つめてしまった。
そして、周りの人が疎らになってきたのを見ると、カバンから一つの袋を取り出して結衣に渡す。
「はい、これ。駅だといろんな人に見られそうだし」
「え?」
思わず受け取ってしまったが、何が入っているのか。
恐る恐る袋を開けると、見覚えのあるバレッタが出てきた。
「これって……」
つい先ほど、水族館のショップで見たバレッタだ。
そこで、伊澄が最後に会計に向かったのを思い出し、これを買うためだったのかと結衣は申し訳ないような、嬉しいような複雑な感情に思わず顔を顰めてしまった。
戸惑っている結衣を見た伊澄は、どこか上機嫌な様子で言う。
「結衣ちゃんが、一歩ずつ踏み出して成長しているご褒美ってことで。今日は付き合ってくれてありがとう」
「えっ? あっ、いえ……あ、ありがとうございます。……で、でも、私、伊澄さんに何もお返しが……」
「いいの。俺があげたいって思っただけだから。使ってくれたら嬉しいな」
「……ありがとうございます。大事にしますね」
再度、お礼を言った結衣は、大事そうにバレッタを持ったまま、ふわりと花が綻ぶように笑顔を浮かべた。
不意を突かれた伊澄は、さっと結衣から視線を逸らし、また駅へと歩き出す。
だが、袖を何かに引っ張られたことで、踏み出した足もすぐに止まった。
「結衣ちゃん?」
「あ、あのっ、えっと……ま、まだ、慣れたか分からないんですけど……。その……や、やっぱり、何でもないです……すみません」
振り向けば、袖を引っ張った張本人である結衣は、必死に何かを伝えようとしてくれていた。
伊澄が足を止めて目を瞬かせているのを見ると、袖を掴む手はゆっくりと離れてしまった。
慣れたか分からないというのは、異性に対してのことだろう。
伊澄の脳裏にアクアリウム展で見た青年の姿が浮かび、自然と離れた手を握っていた。
「っ!」
「駅まで、もう少し練習しよっか。結衣ちゃんが嫌じゃないなら」
その聞き方はずるい。もはや、返事を声に出すことすらままならない結衣は、代わりに小さく頷いて返す。
伊澄の手に少し力が込められる。
また駅に向かって歩きながら、ちらりと伊澄を見れば、彼の耳が少し赤いような気がした。
駅に向かう二人を見送る茉莉は、来た当初よりも随分と距離の近づいた様子に、何という感情を抱けばいいか分からなくなっていた。
「圭さん。あの人って、いつもあんな感じ?」
「俺、あんな伊澄さん知らない……」
今まで付き合ってきた彼女とでさえ、伊澄はほとんど手を繋いでいなかった。人が見ていないところでは分からないが、少なくとも人の目があるところでは。
「結衣、大丈夫かな……」
茉莉の「大丈夫かな」の言葉の前には、「もう放っておいても」とついている気がしたのは、圭の気のせいということにしておいた。
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