第12話 笑顔を向ける相手は
店にいるだろうか。忙しそうにしていたらどうしよう。迷惑にならないのか。口に合うのか。
いくつもの不安がぐるぐると頭を回り、結衣は「うう……」と小さく唸って紙袋を持つ手に力を込めた。
(ど、どうしよう。茉莉ちゃんに言われるがまま持ってきたけど……)
手元の小さな紙袋は至って普通の茶色いシンプルなものだ。口が開かないよう、赤と白のチェック柄のマスキングテープで軽く留めている。
中に入っているのは、つい先ほど茉莉の住むアパートで一緒に作った、紅茶の葉を練り込んだクッキーだ。茉莉はよくある円形や四角い形にしていたが、結衣は何となく浮かんだ花のデザインにした。
それを見た茉莉がにやにやとしていたのは記憶に新しい。
(まさか、こんなことになるなんて……)
視線の先には、商店街に唯一ある花屋。店先には伊澄と数人の女性客がいる。常連客なのか随分と親しげだ。
休日の今日は普段よりも人通りが多く、がやがやと活気に満ち溢れている。
人の視線を考えただけでも踏み出す勇気が出ず、結衣は湿った重い溜め息を吐いた。
「夏休みの課題の練習をしたいから、結衣にも手伝ってほしい」と茉莉に言われたのが昨日の放課後。昼に伊澄と会ったことも抜け、特に用事もなく了承した結衣だったが、直後、茉莉に「じゃあ、伊澄さんの好みも訊いておいてね」と言われて激しく後悔した。
ちなみに、伊澄に好き嫌いを訊く際は、一時間近くメッセージを考えた末に「もうどうにでもなれ」と半ば自棄になって送った。
返信の音を聞いた瞬間、悲鳴を上げて家族を驚かせたが不可抗力だ。
(うーん。「連絡なしで行って驚かせちゃえ」って茉莉ちゃんに追い出されたけど、あの状況で行くのは迷惑だよね)
紅茶クッキーが完成して、熱を取った物を包んですぐ、茉莉は嬉々として結衣の背中を二つの意味で押した。伊澄に届けに行くようにという精神的な面と、部屋から追い出すという物理的な面で。
しかし、連絡をしていないからこそ、接客中……それも、談笑しているところへ姿を見せるのは仕事の邪魔になる。
そう思って、結衣は花屋の斜め向かいにある曲がり角で、店舗の陰に隠れて様子を窺っていたのだ。
茉莉には「渡すまで帰って来ちゃダメだから!」と言われ、電車で使っている電子マネーのカードを人質に取られた。財布はあるので自宅に帰ろうと思えば帰れるのだが、それをすると後で面倒になるので、諦めて茉莉の部屋に戻るしかない。
脳内で理由を考えつつ踵を返した結衣は、背後に見覚えのある青年がいたことに気づいて大きく肩を跳ねさせた。
「っ!?」
「あ、ごめんごめん」
「けけっ、圭さん!?」
「久しぶりー。元気にしてた?」
いつからいたのか、後ろには圭がいた。気配が全くしなかった。
漸く気づいてもらえた圭は、軽く手を挙げて人懐っこい笑顔を浮かべた。
確かに、伊澄には会ったが圭には会っていない上、連絡も取っていない。茉莉は別だが。
小さく首を傾げた彼に、早鐘を打つ心臓を宥めながら「は、はい」とぎこちなく返す。
すると、圭は結衣の持つ紙袋に目を留め、不思議そうに目を瞬かせた。
「もしかして、伊澄さんに用事?」
「え!? ……あ。えっと……茉莉ちゃんから聞いた感じ、ですかね……?」
圭は事情を知らない。そう思っていた結衣は、すぐに情報源が茉莉だと見て確認するように訊く。
だが、圭から明かされた情報源は意外なところだった。
「いや、茉莉ちゃんじゃなくて、伊澄さんからちょっとだけね。昨日、結衣ちゃん達とたまたま公園で会って、夏休みの課題を試食することになったって。嬉しそうに言ってたから」
「えっ」
それ、ちょっとじゃなくて全部です、と思った一方で、嬉しそうというのはどういうことか。そんなに甘い物が好きだったのか。
様々な疑問が浮かんで固まる結衣をよそに、圭は結衣の隣から花屋の様子を窺うと「あー、あれは確かに近づけないよなぁ」と苦笑いを浮かべた。
その声で我に返った結衣は、「そうなんです」と頷いてから紙袋を少しだけ持ち上げる。
「これを、今朝、茉莉ちゃんのお家で作ったので、持って行くように言われたんですけど……」
「何作ったの?」
中身が気になったのだろう。ずい、と紙袋を覗き込もうと近寄った圭に、反射的に数歩下がった。
だが、圭は封をされていると気づくと、中身の正体を結衣から明かされるのを待っている。距離が近いのは、彼のパーソナルスペースが狭いからだ。
訊かれた上に期待されたような目を向けられ、言わないまま去るのはさすがに失礼か。
そう思い、結衣は袋の合わせ目にあるマスキングテープを破り、中身を取り出して見せた。
「紅茶の茶葉を練り込んだクッキーです」
「え。めっちゃ綺麗に出来てんじゃん。課題ってこれ?」
クッキーは五枚の花弁を持つ花や葉の形をしているが、焼きすぎによる焦げなどもなく、綺麗な色合いに仕上がっている。表面に見える黒い点は茶葉だ。
そのクッキーを入れた包装は、処分を困らせないようシンプルな物にしている。ナイロン製の透明な袋に入れ、リボンで絞って留めているだけの。
これだけでも課題に提出できそうなものだが、テーマは「夏をイメージしたスイーツ」だ。クッキーだけではテーマに合わない。
「あ、えっと……これは、課題に使う一部で……これを砕いてケーキの底に使うか、飾りで使うか、まだ考えているところなんです」
「なるほどね。で、まずはクッキーの味見をと」
「はい」
「でも、本人は対応中と」
「……はい」
「それで、帰ろうとしたと」
「うっ」
状況をわざわざ説明され、しかも帰ろうとしたことまで言い当てられた。
返す言葉もなく俯いた結衣を見て、圭はちら、と花屋を見る。店舗の陰に隠れていたが、今は結衣が数歩下がったことで陰からは出ていた。本人は気づいていないが。
しかし、伊澄もこちらに気づく様子はなく、接客を続けている。
このまま結衣を返してもいいものか。あの場に結衣を連れて入るのは圭にとっては簡単だが、好奇の視線に晒されることを考えるとしないほうがいいだろう。しかも、相手は商店街によく買い物に来る客の中でも噂好きの面々だ。
(下手に噂されると、面倒なことになるよなぁ)
伊澄は商店街の中でも群を抜いて人気のある店員だ。顔良し、性格良し、仕事も出来るとなれば自然なことなのだろう。
かといって、このまま結衣を帰せば、茉莉に何か言われそうだ。特に、途中で圭に会ったのなら、圭に渡すか一緒に待つか、邪魔はするが少し近づいて気づいてもらえなど。
状況を説明すれば理解は得られるだろうが、伊澄を囲う人達がどういう人か結衣が知らないことを踏まえると、結衣から茉莉に説明するのは難しい。
黙ったまま考え込む圭を、結衣は不安げな顔でちらりと見上げる。
去ろうに去れない状況に困っているのだと分かったが、無意識に上目遣いになっている様を見た圭は、不覚にもどきりとしてしまった。
「んー……。ちなみに、一部ってことは、まだ試作の試作ってとこだよね?」
「は、はい。そう、なります。紅茶の茶葉を変えているので、どれがいいかと……」
「それって、俺が食べても良い?」
「え。け、圭さんが、ですか?」
「うん。伊澄さんはあれだし、このまま持って帰るより、俺が試食してみるのもありかなって。ほら、伊澄さんとは付き合い長いし、店にもよく来てるから、どれが良いかとか分かるし」
伊澄とは圭の喫茶店で再会した。二人の関係性を鑑みれば、よく通っているであろうことは嘘ではないとは分かる。
迷いを見せた結衣に、「茉莉ちゃんには俺からも言っとくから」とさらに押せば、彼女も安心したのだろう。「それじゃあ……お願いします」と遠慮がちにクッキーを差し出した。
「やった。役得ー」
(食べたかっただけなんじゃ……)
圭は早速、リボンを解くと嬉々としてクッキーを取り出した。
まさか、ここで食べるとは思っていなかった結衣はぎょっとする。
当の本人は気にする様子もなく口に入れたが、すぐに口の中に広がる紅茶の香りとほのかな甘みに顔を輝かせた。
「ん! おいしー! 伊澄さんにあげるの勿体ないくらい!」
「あはは……。それは大げさですよ……」
素直に述べられた褒め言葉に、結衣は恥ずかしさと嬉しさが混じる笑顔を零す。
その笑顔を見た圭は、内心で「これ伊澄さんに見せたいな……」と本人がいないことを少し悔いた。そして、二枚目に手を伸ばしかけたところで、ここが外だと言うことと、自身も用事があったことを思い出す。
「あ、いっけね。俺、買い出し頼まれてたんだった」
「すみません。足止めしてしまいましたね」
「いやいや、足を止めたのは俺だから。じゃ、クッキーありがとね! 完成も楽しみにしてる!」
「は、はい。ありがとうございます」
さらりと完成した物を食べると宣言しているようなものだが、レシピさえ出来れば何度でも作れる物だ。
伊澄に試食してもらう分を作る際、少し多めに作ろうと考え、結衣も茉莉の待つアパートへと足を向けた。
「――じゃあね、伊澄ちゃん。またよろしく」
「ありがとうございました。こちらこそ、よろしくお願いします」
よく来る馴染みの客達を見送った後、伊澄は軽く一息吐いて気持ちを切り替える。
嫌な客ではないものの、話好きな彼女達は花を買いに来るだけでなく雑談で寄ることもあるのだ。
今日はその雑談の日で、初めは週末が暑くなるだとか、来月の夏祭りの準備にうちの主人が張り切っているだとか、そんな些細なものだった。
しかし、話が盛り上がるに連れ、伊澄の猫カフェでの一件の話になった際は、どう話を逸らすかと神経をすり減らしたものだ。
(うーん……。俺だけならまだしも、結衣ちゃんが関わってると、あまり話すのもなぁ……)
悪口ではないにしろ、自分の知らないところで自分の話をされるのは嫌かもしれない。また、伊澄も客にはあまりプライベートな話はしたくない質だ。訊かれれば答えるしかないのだが。
うまく逸らす話術を身につけねば、と思いつつ、仕事に戻ろうとしたときだ。
ふと、視界の隅に見覚えのある姿が見えて、自然と目がそちらに引き寄せられた。
「……あれ?」
見つけたのは、正面の店舗から数えて二軒ほど隣の店舗の片隅。ちょうど、商店街から横に逸れる曲がり角の所に、結衣と圭がいた。一緒にいるイメージの強い茉莉はいない。
珍しい組み合わせだなと思いつつ見ていると、結衣は持っていた紙袋を圭に手渡し、嬉々として受け取った圭は中から一つの包みを取り出した。
遠目でよく分からないが、さらに包みから取り出した物を見た限り、クッキーのように思える。圭がそれを口に入れた直後、彼は顔を輝かせて「おいしー! 伊澄さんにあげるの勿体ないくらい!」と言っているのが聞こえた。
(……もしかして、言ってたお菓子?)
そこで漸く、昨日、公園で結衣達と会ったときのことを思い出した。
夏休みの課題で作るスイーツの試食をしてほしいということを。
行動はとても早いが、恐らく茉莉に急かされでもしたのだろう。そして、持ってきたものの接客中で渡そうに渡せず、通りかかったか一緒に来ていたかは伊澄には分からないが、とにかく何らかの理由で圭に渡されることになった、と。
圭にストレートに褒められ、外だと言うこともあってか、結衣はやや恥ずかしそうにしながらも嬉しいのか笑顔を浮かべている。
「……そっか。ちゃんと、笑えるよね。男相手でも……」
思わず口から出た言葉にはっとして口元を片手で覆う。幸い、近くには誰もいなかったが、店の奥にいた店主からは不思議そうな顔をされた。
胸の奥で、靄のような重い塊が蠢く。
不快感に眉間に皺を寄せながら、気にしないようにしようと頭を振って振り払う。
(いやいやいや、圭がお菓子とかをつまみ食いするのはよくあることだし、気さくだから打ち解けやすいんだろうし……)
自身に言い聞かせるように理由を並べていくが、これではまるで嫉妬しているようだと気づく。嫉妬するような間柄ではないのに、だ。
嫉妬ではない、と否定して、この感情に合点のいくものは何かと考える。
(……あれかな。警戒心の強い猫が漸く近づいてくれたのに、他の人にはあっさりと行かれたみたいな……うーん?)
感覚としては近いが、今ひとつ合致しない。
だが、いつまでも店先で悩んでいるわけにもいかず、伊澄は二人を視界に入れないように店の中に入った。
そして、レジ近くに掛けられているカレンダーを見ると、結衣としていた別の約束を思い出す。
「そうだ。日にち、決めないと」
一緒に行こう、と話していたアクアリウム展。
その日にちをまだ決めていないと思い出すと、伊澄は今日の夜に連絡をしようと決めた。
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