第8話 浮かぶ二文字
(つい、来てしまった……)
仕事を終えた伊澄は、先日訪れた猫カフェの前に佇んでいた。
今の時刻は十七時を少し過ぎた頃。初夏の太陽に熱せられた地面はやや温度を落としてきたものの、じっとりと湿っぽい熱を発している。
伊澄が働く花屋の営業時間は十八時までだが、「ある件」を知った店主夫妻が気を遣って早く上がらせたのだった。
ある件というのは、伊澄が店で作っていたブーケのデザインだ。手早く仕上げ、依頼人に写真で送ったところ、「これも可愛いけれど、もう少し贅沢な感じがいい」というまさかの答えだ。一般的に「贅沢」に該当するであろう見た目の花にも変えたが、今度は「豪華すぎる」と言われてしまった。
最初の写真を送ってから二日が経過しており、期限も近い。依頼人に「我が儘言ってすみません。難しいようであれば、これでいいです」とも言われたが、それでは伊澄の気が済まなかった。
せめて明日までは、と粘った結果、「贅沢とは」という自問自答をしながらふらふらと町を歩いていて、気づけば猫カフェの前にいた。
(……気分転換に寄って行こうかな)
猫カフェの閉店まではまだ時間がある。店内にどれほどの客がいるかは分からないが、休日よりは少ないだろうと踏んで店に入った。
案の定、今は客足も引いているようで、前回のように待つことはほとんどなく、すんなりと触れ合いスペースに進んだ。
広々とした触れ合いスペースには、片手で足りるくらいの人しかいなかった。それに合わせてか、猫の数も先日よりは少なく感じる。
前回と同じ場所に行こうと、伊澄が視線をそちらに向けたときだ。
「……あれ?」
見覚えのある姿が、楽しげに猫と遊んでいた。
細い棒の先についたネズミのおもちゃを猫の前で振っているのは、先日、一緒に猫カフェに来た結衣だ。茉莉もいるのかと辺りを見渡したが、それらしき姿はないので彼女一人で来たのだろう。
結衣は伊澄の声に気づかなかったのか、いつか喫茶店で会ったときのように視線がかち合うことはなかった。しかし、このまま声をかけずに離れた場所にいるのも、気づいたときにお互いが気まずくなる。かといって、急に近づいたら彼女を驚かせるだろう。しかも、今は同性である茉莉がいないのだ。
おもちゃで猫と遊ぶ結衣は、どこかあどけなささえ残す無邪気な笑顔を浮かべている。先日も笑顔になることはあったが、あれは遠慮がちなものだったのだと今になって分かった。
(そっか。やっぱり、ずっと気を張ってたんだな)
色々と無理をさせていたのかと思うと、申し訳ない気持ちと共に健気な彼女に感銘にも似た気持ちがこみ上げる。
ふと、彼女が傍らに置いているカバンを見ると、伊澄があげたキーホルダーがついていた。二十歳前後の女性にはやや子供っぽいかなという心配もしたが、実際につけているのを見るとそんな気持ちなど吹き飛んでしまった。
(可愛い……。……ん? 「可愛い」? 猫が? それとも――)
ふいに心の中で芽生えた感情に自問自答した。
さらに、あまりにも長く見つめてしまっていたのだろう。視線に気づいた結衣と目が合った。
「伊澄さん?」
「へっ!? あっ、こ、こんにちは。えっと……ひ、久しぶり……かな?」
「ええと……多分、そう、です?」
突然、結衣から名前を呼ばれて、構えていなかった伊澄は少し取り乱しつつも返した。
ぐだぐだになった挨拶に、結衣も戸惑いつつも頷く。
その瞬間、止まった結衣の手から、隙を狙っていた灰色の猫がおもちゃを奪い取って走って行った。
「あ!」
「ごめんね? 邪魔しちゃって」
「い、いえ! 大丈夫です。ただ……あれは、返してもらわないといけませんね」
灰色の猫は、素早くタワーの最上部に駆け上がると、漸く手に入れたおもちゃをかじっている。猫による破損であれば弁償しろとは言われないが、誤って食べてしまっても問題だ。そうならないよう、触れ合いスペースにはスタッフもいるが、まだ大丈夫と見ているのか今のところスタッフが動く気配はない。
伊澄は苦笑を零すと、「俺も手伝うよ」と申し出た。取り乱していたのが嘘のようにすんなりと出てきたため、伊澄自身も内心で驚いてしまった。
それから、二人で灰色の猫からおもちゃを取り返そうと奮闘し、数十分近くかけて取り返すことに成功した。途中、様子を見ていたスタッフが「私が取っておきますよ?」と言ってくれたものの、もはや意地になっていた二人が揃って「大丈夫です」と返したのは記憶に新しい。後半はほぼ猫に遊ばれていたが、取り返すことが出来たのでよしとした。
疲労感からソファーに座った伊澄は、やはり、少しの距離を開けて座る結衣に話しかける。
「そう言えば、結衣ちゃんは学校帰りだったの?」
「は、はい。……伊澄さんは、お仕事でしたか?」
「うん。今日は早めに上がらせてもらったんだ。仕事が煮詰まっちゃって」
「圭さんからお聞きしましたが……お花屋さん、なんですよね?」
結衣は「煮詰まる」というのがどのようなものか想像ができず、圭から聞いた情報が本当に合っているのかと確認のために訊ねた。圭が嘘を言って得をするようなものでもないが、何か特殊なこともしているのかと気になったのだ。
すると、伊澄は楽しげに笑顔を浮かべて自身の仕事について語る。
「そう。ただ、俺個人でブーケとか色々と注文を受けててね。今、頼まれているブーケで、良い案が浮かんでこなかったんだ」
「ブーケ、ですか」
「誕生日とか結婚記念日が多いけど……あ。最近だと、好きな芸能人とかのイベントでプレゼントする用とかもあるかな」
「すごい……。色々とあるんですね」
「うん。あとは、ブーケの形も色々あるよ」
誕生日や結婚記念日などの祝い事は結衣も想像はつくが、イベントでのプレゼントにも用いられているのかと、自身の想定よりも広い用途に思わず感嘆の声が漏れた。
伊澄は、個人で請け負っているというブーケ作りが楽しいのか、先日よりも饒舌だ。
「今は『誕生日に』っていう依頼なんだけど、何度かやり直しててね。そうしてると、何がいいのかって、良いイメージが沸かなくなって」
「それで、ここに来たんですね」
「はは……。そういうこと」
依頼を受けた際にどんなデザインにするかは客から聞くものの、それを形にするとなるとそこは伊澄の想像力次第だ。
ただ、今回詰まっているのは、依頼人の要望に答えきれないことへの、伊澄のなけなしのプライドが関わっている。
「普段なら、その依頼主が込めたい意味の花言葉の花とかを使うんだけど、可愛らしいデザインがいいって言われてね」
「可愛らしいデザイン……」
「いくつか作って写真を送ったんだけど、今度はそれにもう少し贅沢な感じを付け加えたいって言われたんだ」
「贅沢……」
「見てから注文が少し変わるのはよくあることだから、そこから花の種類を変えたり、色合いを変えてみたり。色々したけど、今度は『豪華すぎる』ってなって」
よほど自身の中で切羽詰まっていたのだろう。経緯をすらすらと述べる伊澄は、要所要所を繰り返す結衣に申し訳ないと思いつつ、口は止まらなかった。声に出せば、胸の奥で複雑に混ざっていたものが少しずつ整理されていくようだ。
「それで、贅沢って何なんだろうなぁって考えてたら、ここに辿り着いてたってわけ」
「伊澄さんにとっての贅沢なんでしょうか?」
「はは……。まぁ、猫好きにしてみたら贅沢な空間だよね」
伊澄は力なく笑みを浮かべ、寄ってきた猫の顎を撫でてやる。特別猫が好きというわけでもないが、猫だらけのこの空間は、猫好きにとってはこの上ない幸せな場所だろう。
そんな伊澄の横顔を見た後、結衣は自身のカバンへと視線を移す。そこには、伊澄から「お礼に」と貰った猫のキーホルダーがあった。
特に結衣が何かをした記憶はないが、彼がこうして悩みを話してくれているのだ。何か力になれないかと、結衣も一緒に頭を捻る。
ふと、視界に入ってきたのは、カゴで眠る猫の姿だ。数匹が収まっている状態で、何匹かは手足や頭がカゴからはみ出している。
「……ブーケって、カゴとかは使わないのでしょうか?」
「え?」
「いえ、あの……あれとかも、猫好きにしたら贅沢だなって、思ったので……その、例えば、お花が好きな人なら、それが詰まっていたら、贅沢に、思える、の、かな、と……」
言いながら、結衣は贅沢を求めるのは『花』であって『猫』ではないと気づき、言葉尻が小さくなっていった。また、花が詰められたフラワーボックスもあるのだ。こんな考えは既に出ているだろうと。
伊澄はきょとんとしていたが、結衣が指した方向を見ると、暫く眠っている猫達を見つめてから「ああ!」と何かを閃いた様子だった。
「そっか。そういう贅沢もあるよね。わぁ、なんでそっちを思いつかなかったんだろう」
依頼主から「ブーケ」と言われ、形を固定して考えていた。また、贅沢=色や大きさ、形の目立つものと。
勿論、伊澄はブーケの依頼を受けているが、中には少し形を変えて箱やカゴを用いて作ったことはある。だが、今回は箱などの物を使うとは話に出しておらず、すっかり候補から外してしまっていた。
最終的に使うかは依頼主によるが、デザインの一つとしては十分に出せるものだ。頭の中には早くもいくつかデザインが浮かんできた。
「帰って考えてみるよ。ありがとう」
「お、お役に立てたなら、良かったです……」
早速、帰ることにした伊澄は、随分とすっきりした様子でソファーを立った。伊澄に撫でられていた猫が名残惜しそうに足に擦り寄ってきたが、「また今度ね」と優しく言われると「にゃあ」と返事をするかのように鳴いていた。
結衣も時計を見ると、そろそろ家に帰ろうとカバンを持って立ち上がる。
「結衣ちゃんも帰る?」
「はい。電車の時間も近いので……」
「そっか。じゃあ、駅まで送るよ」
「え!? い、いえ! 大丈夫です! すぐそこですし」
「……あ、ごめん。あんまり男といるのも気まずいか」
慌てて断る結衣を見て、伊澄は結衣のある事を思い出す。『異性が苦手』なのだという事を。今日は普通に話せていたため、すっかり抜け落ちていた。
だが、結衣としては、異性が苦手だからという理由よりも先立った思いがあった。
「そ、そうではない……とも言い切れないんですけど、その、お仕事を優先してください」
――仕事を優先しすぎたから……。
結衣に言われた言葉で、どくん、と心臓が大きく脈を打った気がした。
今、優先したのは仕事ではなく結衣だが、これがもし、前の彼女だったなら。
(多分、そのまま帰っていた、よね……)
礼を言って、足早に帰っていただろう。仕事を優先しているという自覚はあったが、改めて考えるとなかなかに薄情な男だ。
ただ、それがなぜ、結衣には別の行動を取ったのか。
辿り着きかけた答えの言葉が浮かんできたが、伊澄は無理やり胸の奥に追いやって蓋をした。そんなはずはない。まだ出会って日が浅すぎる、と。
結衣に戸惑いが伝わらないよう、ふわりと自然な笑みを浮かべられたのは、長く続けてきた接客業のおかげだ。
「俺も、家が駅の方向だから気にしないで。勿論、無理にとは言わないけど……」
「…………」
家が駅の方面なのは事実だ。途中で少しばかり道を外れるが、それは結衣には伝える必要はない。
少しの迷いを見せた後、結衣は「じゃあ……」と一緒に帰ることを了承した。それに安堵の息が漏れたのは、伊澄本人も自覚がないことだった。
猫カフェを出ると、陽はかなり傾いていた。
夜の帳が下りてきた空を眺めつつ、伊澄は結衣に近づきすぎないよう距離を気をつけて歩く。まるで、初めて猫カフェに行ったときのようだ。当時と違うのは、伊澄から他愛ない話をかければ、結衣がすんなりと返してくれていることか。まだ声は小さめだが、最初に比べると随分と慣れてきたのだと分かる。
(結衣ちゃんは、警戒心の強い猫みたいだ)
まだ目が合うことはほとんどないが、それでも、こうして会話が出来るようになったのは少し嬉しい。
やがて見えてきた駅の出入り口付近では、数人の男女が揃いの紺色のポロシャツを着てチラシを配っていた。ポケットティッシュを配る人はたまに見かけるが、チラシは珍しい。
横を通った際に思わず受け取った伊澄は、黒を基調としたチラシに大きく書かれていた文字を口に出して読んだ。
「アクアリウム展?」
「再来週から、この近くであるんですね」
結衣も別の人からチラシを受け取り、その内容に目を通した。
黒い背景のチラシには、色鮮やかな魚が水槽で泳ぐ姿が写っている。背景が黒いのはデザインではなく、会場自体が暗く、水槽が明かりによって浮かび上がっているからだ。
「綺麗……。見てみたいな……」
その呟きは、猫カフェで聞いたものとよく似た独り言だ。伊澄に向けられたものではない。
だが、伊澄の口から出たのは、当時とは違う物だった。
「一緒に行ってみる?」
「……えっ?」
「……あっ」
結衣はあくまでも声に出していた自覚がなかったのだろう。突然とも取れる伊澄の誘いに、大きな目をさらに大きく見開いて固まった。
当の伊澄もまさか自分から誘うとは思わず、はっとして片手で口元を押さえるが既に遅い。
恥ずかしさから耳まで熱くなるのを感じつつ、この場をどうにかして収めようとぎこちなく笑みを作った。
「あ、あはは。ごめん。茉莉ちゃんを誘ってあげたら喜ぶんじゃないかな」
「……伊澄さんは、行かないんですか?」
「え? 俺? あー……興味はあるけど、これこそ、男一人で行くのは勇気がいるかな……」
「…………」
アクアリウム展が行われるのは近くの水族館だ。勿論、一人で行く人もいるだろうが、圧倒的に多いのは複数人だ。これなら猫カフェのほうがずっと一人で行きやすい。
伊澄の「圭もこれには付き合ってくれないよな……」という言葉を聞いた結衣は、チラシに目を落として口を閉ざす。
(茉莉ちゃんを誘うのも、勿論したいけど……でも、今は――)
苦手な異性を克服するためにも、と結衣はある決心をしてチラシから顔を上げる。その瞬間、伊澄と視線がかち合って「うっ」と少し怯んでしまった。
だが、内心でしっかりしろと自身を鼓舞すると、チラシを持つ手に少し力を込めつつ息を吸う。茉莉に言うような、簡単な言葉を発するために。
「ああああ、あの!」
「うん?」
「これ……いっ、一緒に、行きませんか?」
「え?」
まさか、結衣から誘われるとは思っていなかった伊澄は、彼女が言わんとしていることが理解できずに首を傾げた。
しかし、今の結衣に説明するだけの余裕はなく、詰まりながら言葉を続ける。
「ええと、詳しいことは……また、連絡、します……。その、行ける日とかあれば……教えてくださると、助かります……」
声は徐々に小さくなっていくが、不思議と伊澄の耳には届いた。むしろ、周りの音がすうっと引いているようだ。
耳まで赤くした結衣を見ていると、先ほどまで彼女と同じように赤面していた伊澄は逆に冷静になってきた。同時に、彼女が勇気を出して伊澄をアクアリウム展に誘っているのだと分かると、懸命な姿に胸が温かくなるのを感じる。
しかし、結衣は伊澄の返事を聞ける余裕がなくなったのか、「今日は送っていただいて、ありがとうございます! 失礼します!」と頭を下げると慌ただしく走り去ってしまった。
改札に駆け込んでいく小柄な姿は、やがて人混みの中に紛れて見えなくなる。
「……ふふっ」
結衣の必死な姿が蘇って、思わず笑みが零れた。まさか結衣から誘われるとは思わなかったが、彼女も彼女で苦手を克服するために進歩しようとしているのだろう。
受け取ったチラシを丁寧に畳んでカバンに仕舞いつつ、「シフト確認しないとなぁ」と呟いた伊澄は、スマホに届くであろうメッセージが今から待ち遠しくなった。
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