第7話 それぞれの印象


 授業が終わるチャイムが鳴り、十分間の休憩に入った。

 生徒達がそれぞれ動く中、結衣は席を立つこともなく、教材をカバンに片づけて代わりにスマホを取り出す。ロック画面には授業中に届いたメールやメッセージ、アプリのお知らせが表示されているが、通知を消すとすぐにアルバムを開いた。


「ゆーいっ!」

「ひゃっ!?」

「何見てるの?」


 突然、後ろから右肩を軽く叩かれた結衣は、大きく肩を跳ねさせて持っていたスマホを胸元で握りしめた。気づかなかったのはスマホに集中していたからか、それとも相手が驚かせようと気配を消していたのか。

 すぐに肩を叩いた手は離れ、代わりにその手の主である茉莉が結衣の隣に立つ。

 犯人が誰かは察していたものの、視界に入った人物が浮かべた姿と一致すると、思わず溜め息を吐いてしまった。


「もう。びっくりさせないで」

「ごめんごめん。いつもならすぐに次の授業の準備するのに、今日は珍しく先にスマホ見てたからどうしたのかなって。何見てたの?」


 授業の準備より優先するものが結衣にも出来たのか、と茉莉は自然と伊澄を思い浮かべた。下手に警戒されるのを避けるため、確認するまで名前は口には出さないが。

 茉莉は圭とメッセージのやり取りをしているが、結衣はどうなっているのか。連絡を取り合っているようには見えないが、もしかすると茉莉の想像以上に進展があるのかもしれない。

 ほんの小さな期待を抱きつつ結衣の返答を待てば、きょとんと目を瞬かせた彼女はスマホの画面を茉莉に見せる。


「これ」

「……あ。一昨日の猫カフェの?」


 茉莉の予想は少し当たっていたが、画面に映し出されているのは伊澄ではなく、カーペットの上で寛ぐ猫だ。横にスライドすれば別の猫の写真も出てきた。


「そう。みんな可愛くて、授業中に思い出しちゃったら見たくなっちゃって」

「やけに好かれてたもんね。結衣と伊澄さん」

「そうかな?」

「途中、群がってたじゃん。圭さんが、『伊澄さんのフェロモンが猫にも効いてるのか……』ってちょっと引いてたもん」


 猫カフェには二十匹程の猫がいた。思い思いに寛いだり遊んだりしていたが、結衣はそんなに集まっていたかと記憶を振り返る。

 伊澄が猫に囲まれて嬉しそうにしていたのを思い出し、言われてみれば確かに集まっていたなと頷いた。圭が言っていたというフェロモンについては、本人もいないので触れないでおく。


「圭さんとあたしのとこはあんまり大人しい子は来なかったから、やたらとはしゃいだ気はする」

「二人も楽しそうだったね」


 結衣の撮った写真の中にも、茉莉と圭が楽しそうに猫と遊ぶ姿が写っている。

 あとで送っておこうと思いつつ、二人の仲が進展するのかと期待で胸が高鳴った。異性は苦手だが、人の恋愛は応援したい質なのだ。直接協力できることはないにしても、話を聞くくらいは出来る。

 心が温かくなるのを感じつつ茉莉を見れば、結衣の前の席に横向きに座った彼女は、一昨日の出来事を思い返しているのか宙を見上げていた。


「ゲーセンでは考えることもあったけど……うん。すごい楽しかった。今度は遊園地行こうかって話もしてたよ」

「すごい……。距離が縮まってる……」

「あ。別に、色恋関係じゃないからね? 普通に、友達としてだから」


 圭との付き合いについて追究していなかった結衣だが、想像以上に仲が深まっている様子で驚いた。当の本人は困ったような笑みを浮かべると、顔の前で軽く手を振って結衣の想像を否定したが。

 予想とは別の方向なのは少し残念ではあるが、今後はどうなるかは分からない。

 結衣はひっそりと二人の行く末を見守ろうと心の内で決めると、机に片肘をつき、その手の上に顎を乗せた茉莉がにやりと笑みを浮かべたことに気づく。


「そんなことより、結衣のほうは良い雰囲気に見えたけど、大丈夫だったの? 異性だけど」

「うん。伊澄さん、私が男の人が苦手っていうのに気づいてたみたいで、打ち明けたら色々気遣ってくれたよ」

「やっさしー。さすが、モテる人は違うのかなあ」


 はあ、と吐かれた大きな溜め息は感心してのものだろう。

 伊澄は結衣に近づきすぎないよう、適度な距離を保ってくれていた上、なるべく気まずくならないよう話もしてくれた。さらに、迷子になった子供まで見事に宥めたり、結衣に「お礼」という名のプレゼントまでくれたのだ。「ストレス発散に付き合ってくれた」と言っていたが、むしろ、気を遣わせたことでストレスが溜まったのではないかと心配になったほどだった。

 しかし、伊澄はそれらを自然と行っていた辺り、彼の中では「気遣い」ではなく「当然の行い」なのだと気づいたのは、家に着いて暫く経ってからだ。


「根がとても優しい人なんだと思う。もしかしたら、猫ちゃん達もそれを感じ取ったのかもしれない」


 カバンにつけている猫のキーホルダーを見やれば、伊澄の膝で寛ぐ雪の姿が浮かんだ。

 動物には人の本性を見抜く力があると何かで見た気がする。心根の穏やかな人は、相応に動物に好かれるのだと。

 確かに、伊澄には不思議と周りを落ち着かせるような雰囲気があるように思えた。異性が苦手な結衣でも、自分から歩み寄れる程度には。


「結衣は?」

「え?」

「何か感じなかったの?」

「感じる……?」


 問われた結衣は、不思議そうに小首を傾げた。

 「何か」という曖昧なものが指すのは何なのか。先に話していた内容から推測するに、茉莉が言いたいのは「伊澄といて何か思うところがなかったか」と言うことだろう。

 片手を顎に当てて考える結衣だが、他の異性よりはまだ近づけると思ったくらいで、何かを感じた覚えはない。


「えっと……私は猫じゃないから……」

「可愛いなもう! そうじゃなくって、こう……ドキドキしたりとか、この人いいなーとかそう言うの!」

「ドキドキはしたよ」

「それは苦手だからでしょ」

「すごい。よく分かったね」

「はあ……。道のりは遠いかな……」

「?」


 やや諦めの混じる溜め息を吐いた茉莉は、遠い目をして宙を見つめた。結衣の性格から覚悟はしていたものの、これは目的を果たすまでそれなりに時間が掛かりそうだ。

 一方で結衣は、茉莉の言わんとすることが分からず頭上に疑問符を浮かべていた。

 ここで悩んでも仕方ない。気持ちを切り替えた茉莉は、今の進展状況を確認するためにも訊ねる。


「ちなみに、そっちは伊澄さんと次に会う約束とかしたの?」

「伊澄さんと? してないよ?」

「え!? なんで!? いや、ちょっとは予想してたけど!」


 さも当然、と言わんばかりに返す結衣。茉莉もその返事は想定内ではあった。だが、少しは何か進展があるのではないかという仄かな期待もあったのだ。

 茉莉は結衣の机を軽く叩きながら不満を露わにする。


「プレゼントまで貰ってるのに? あれから何もないの?」

「これは……お礼だって」


 茉莉は何かを貰った様子はないが、彼女は圭と一緒にいたため、伊澄なりに圭を邪魔しないようにしたのだと勝手に思っていた。


「今後の付き合いを匂わす物じゃないなんて、あの人何なの? ねぇ、連絡は?」

「帰ってからお礼を改めて送ったくらいで、特に返信はないけど……」

「あたしと圭さんがおかしいのかな……。というか、お礼に対する返信がないなんてどういうこと?」


 連絡を取り合うかは当人達にもよるため、必ずしも茉莉と圭がおかしいというわけでもない。

 ただ、茉莉としてはプレゼントを貰ったのであれば、何かしら今後も付き合いはあると思っていたのだ。

 結衣は小さく笑みを零すと、やや興奮気味の茉莉を落ち着かせようと言う。


「ふふっ。伊澄さんも色々と忙しいと思うし、私は気にしてないからいいの。それに、私のメッセージの書き方が完結しちゃってるから、返しにくいと思うよ」

「ちなみに、どんなの送ったの?」

「えっと……『今日はありがとうございました。キーホルダー大事にしますね』かな」

「『また遊びましょうね』とか何で入れてないの」

「何で入れるの?」

「そうだった。この子が自ら送るほうが珍しいんだったわ……」


 またしても不思議そうに首を傾げる結衣を見て、茉莉はがっくりと机に突っ伏した。

 だが、すぐに姿勢を元に戻すと、気持ちを切り替えるために軽く息を吐く。結衣に向き直った茉莉の目はやや真剣さを帯びており、思わず結衣も姿勢を正した。


「結衣は、異性が苦手なのを直したいんだよね?」

「で、出来ることなら」

「よし。じゃあ、小さなことでもいいから、伊澄さんに何かメッセージを送ること!」

「ハードル高いよ!?」


 今、メッセージは結衣の送った物を最後に終わっている。新しく送るとなると、それは結衣から何か話題を持ち出さなければならない。

 茉莉や他の同性の友人ならともかく、まだ知り合って日の浅い、それも異性を相手に何を送ればいいのか。

 しかし、茉莉は何かのスイッチが入ったのか、拳を強く握りしめて力説する。


「高いと思う! けど、君が乗り越えようとしているのはそれよりも遙かに高い壁よ! このくらいで挫けちゃ駄目なの!」

「茉莉ちゃん、面白がってる……?」

「うん。……あっ。ううん、そんなことないよ。ほら、伊澄さんって良い人だし、男の人でも結衣はまだ話せてたし、慣れるためにはもってこいの人だと思うの」


 一瞬、本音が出ていた。すぐに取り繕っているが、結衣の耳は確かに聞き取った。

 人が良い伊澄だからこそ、面倒なことに付き合わせたくない。異性を克服したいのも嘘ではないが。

 難しい顔で黙り込んだ結衣を見た茉莉は、彼女の頭を軽く叩くように撫でて言う。


「もうお互い顔見知りなんだし、そんな難しく考えなくていいの。あたし達にするみたいに軽い世間話をする感覚でいいし、それこそ、また猫カフェに行きたくなったときとか誘ったらいいんじゃない?」


 猫カフェ、と結衣は茉莉が出した単語を小さく繰り返す。

 脳裏を過ぎったのは、「また来たい」と呟いた結衣に返したのか定かではない、伊澄の「そうだね」という言葉。

 伊澄から誘われることはなかったが、それを結衣から切り出すのか。

 まだ誘うと決まったわけではないのに、スマホを持つ手にじっとりと汗が滲む。メッセージを送ることを考えただけで心臓が早鐘を打つ。


「うう……。ちょっとだけ、時間をください……」

「はいはい。けど、もたもたして伊澄さんに新しい彼女さんが出来ても知らないからね?」

「その時は、その時、で……ひえっ」


 喉の奥から言葉を絞り出しながら、アルバムを開いたままだったと手元のスマホを見る。

 真っ暗になっていた画面をつければ、指が触れていたのか写真は切り替わっていた。ちょうど、猫を抱いた伊澄の写真に。

 間抜けな悲鳴を上げてしまった結衣は、反射的にスマホから手を離す。スマホは重力に従って床に落ちた。


「……画面は?」

「わ、割れてません」

「そう……」



   ◇◆◇◆◇



「っくしゅん! ……あっ」


 造花で花束を作ろうとしていた伊澄は、突然出たくしゃみの反動により、思わぬ場所で茎を切ってしまったことに気づいて固まった。

 店頭で店員と談笑していた常連の女性客は、伊澄の小さな声を拾ったのか目を瞬かせる。


「あら、大丈夫?」

「あはは……。勢いで切っちゃいました」


 伊澄は年配の女性に苦笑で返しつつ、短くなってしまった造花をテーブルの端に置いた。

 テーブルには、数種類のブーケのデザイン画が置かれている。どれも伊澄が考えたデザインで、今はそれを元に造花で形作っているところだ。

 店では基本的に生花を扱っているが、プリザーブドフラワーやソープフラワーなどで作ったブーケやフラワーボックスなども販売している。後者については伊澄が個人的にオーダーを請けて作ることもあり、今、作っているブーケも依頼人に見て決めてもらうためのものだ。最終的には生花で作るが、依頼人がデザインを決めかねているのを見て、選びやすいよう造花で作っているところだった。

 気持ちを切り替えようと軽く息を吐くと、女性客は「そういえば」と思い出したように言う。


「この前、伊澄君が猫カフェにいたってうちの孫娘から聞いたのだけど……彼女さん?」

「えっ!? ……あ。ああ、この前の」


 「彼女」と言われて浮かんだのは、既に忘れかけてきた元彼女の姿だ。しかし、元彼女とは猫カフェに行ったことはなく、すぐに一昨日の結衣達と行ったときだと分かった。

 どうやら、あの時に女性客の孫娘もいたようだが、そもそも伊澄は彼女の孫娘と面識がない。大方、店にいるのを遠目に見られていたか、もしくは女性客とは別のときに来ていたかだろう。

 これまでの経験から、彼女の孫娘にどう思われているかを察しつつ、結衣のためにも否定しておくことにした。


「いえ、彼女とかではなくて……ちょっとした知り合いです」

「そうなの? 実は、うちの孫娘がちょっと気にしてたの。彼女さんかなって」

「はは……。僕には勿体ないくらい良い子ですよ」


 伊澄の言葉は嘘でも建前でもない。異性が苦手という難点はあるが、律儀で周りのこともちゃんと見られる子だ。迷子になった幼い子供を前に困ってはいたものの、決して見過ごすことはせずに彼女なりに面倒を見ようとしていた。

 そう言えば、メッセージに返信をしていないなと、届いた文章を読んで満足して終わっていると思い出す。

 一方、女性客は孫娘を応援するのではないのかと思わせるほど、期待に満ちた声を上げた。


「あらっ! じゃあ、もしかしたらそうなるかもしれないのね?」

「いやー、それはどうでしょう。僕も、暫くはそういう相手を考えてなくて」


 他人の恋の芽生えに反応するのは、いくつになっても変わらない。特に、恋愛事を好む人であれば。

 ここではっきりと「違います」と言い切れば話は終わるが、それでは客を切り捨てたようにもなってしまう。そのため、伊澄はそれとなく恋愛トークから遠ざかるために、やんわりと断りを入れた。


「ええ、でも……」

「勿体ないって思うでしょう? でも、この子はこの仕事が楽しいみたいで。彼女が出来てもすぐ『仕事優先しすぎ!』って振られるのよー」


 それでもまだ食い下がりそうな女性客だったが、彼女と話していた従業員もとい伊澄の叔母が状況を察して間に入ってくれた。ただ、その内容は伊澄としては少し避けたかったが。

 だが、女性客は「確かに、仕事をする姿は素敵だけれど、優先しすぎるのも考えものねぇ。そうそう、うちの旦那も」と伊澄から自身の夫の不満へと自ら話を切り替えてくれた。それは、彼女が伊澄を気遣ったわけではなく、たまたま彼女の話が飛躍しやすいからだが。

 助かったと安堵の息を吐いた伊澄は、話に出ていた猫カフェを思い出す。


(まだ二日しか経ってないけど……)


 おどおどとした結衣の姿が浮かぶ。今まで付き合ってきた女性とは違うタイプの彼女は、返信していない伊澄をどう思っているだろうか。むしろ、異性が苦手なので安心しているかもしれない。

 思わず小さく笑みを零した伊澄は、また猫カフェに行きたいなと改めて思った。


(……あ。でも、どうしよう。一人で行くのも……まぁ、いっか。一人でも)


 一度は行った店だ。未知の領域ではないため、以前よりは一人で行くことに抵抗はない。現に、一人で来ている客もいた。

 また休みの日に行こうかなと思いつつ、伊澄は作業を再開した。



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