第9話 前途多難
「大変です、茉莉さん」
翌日、教室に入ってきた茉莉を見た結衣は、すぐさま彼女の机の隣に立った。
深刻な表情をした結衣からただならぬ雰囲気を感じ取った茉莉は、挨拶も忘れて真剣な表情で歯切れよく返す。
「ついに伊澄さんからメッセージが来た」
「逆です。伊澄さんにメッセージを送りました」
「何ですって?」
それは大変だ、と言葉を続けた茉莉を見て、結衣の深刻な表情が一瞬にして不安げなものへと変わった。
机に手を置いたまましゃがんだ結衣は、泣きそうな声で言う。
「す、すっごく手が震えた……」
「前例もあるけど、なんでそう男が苦手なのを疑いたくなるような行動をするのかな君は?」
「伊澄さんだけだもん……」
(それを本人に聞かせてやりたい……)
茉莉は頭を抱えそうになった手を寸でのところで止め、代わりに大きな溜め息を吐いた。
伊澄を異性として見ているのかと思うほど、結衣の伊澄への行動は突発的で異例だ。
ただ、これまでの様子を見ていると、もしかして異性への苦手意識を克服したのかと小さな期待を込めて訊ねる。
「もしかして、男の人大丈夫になった?」
「全然。今朝も電車怖かったよ」
「怖くなるような状況だったの?」
茉莉は近所にアパートを借りて一人暮らしをしているため、実家から通う結衣と違って電車を使わない。
どんな状況かイメージが沸かずに訊けば、結衣は思い返してまた怖くなったのか、小さく震え上がった。
「満員で、ぎゅうぎゅうだった」
「ああ、なるほど。で? 伊澄さんになんて送ったの?」
なんだそんなこと、と想像ができた途端に茉莉はあっさりと話を変えた。今の茉莉にとって重要な情報は別だからだ。
結衣はスマホを取り出してアプリを開きつつ、昨日の状況を順を追って説明する。
「ええと……昨日、猫カフェで会って、駅まで送ってもらったんだけど、そこでアクアリウム展のチラシを貰って――」
「待って待って。あたしの知らない情報がある。猫カフェ? 駅まで送ってもらった?」
てっきり、一大決心をして結衣から何か日常会話的なメッセージを送ったのかと思いきや、別のイベントが先に起こっていた。
結衣は慌てて止めた茉莉にきょとんとする。そんなに動揺することかと。
「なに? 実は猫カフェで再会する約束でもしてたの?」
「ううん。偶然。伊澄さん、お仕事が煮詰まってて、息抜きで来たって」
「へぇ」
「それで、話してたら解決したみたいで……あまり長い時間はいなかった気がする」
振り返ってから、結衣が入店してからの時間はともかく、伊澄は一時間もいなかったのではないかと気になった。本人が帰ると言ったのだからいいのだろうが、次はもう少し満喫できたら、と。
茉莉が「それで?」と先を促すので、結衣は思考を引き戻して続きを話す。
「ええと……駅まで送ってくれて、駅前でアクアリウム展の宣伝してたの」
これ、と結衣が折り畳んだチラシを茉莉に広げて見せた。
目を引くデザインのチラシに、茉莉も「わぁ」と小さく感嘆の声を漏らす。
「私が『行ってみたい』って口に出してたみたいで、一緒に行く? って誘ってくれて……」
「え!? それって、もしかして、伊澄さん、結衣のこと……!」
「ううん。伊澄さんも行きたかったみたい」
「へ、へぇ。そうなんだ」
恋の発展の兆しかと期待した茉莉だが、結衣はあっさりと否定した。
茉莉は、結衣がはっきりとした物言いだったこともあって引き下がったものの、内心では頭を抱えて「違うって! 気にしてないと誘わないって!」と悶えている。口に出さなかったのは、下手に食い下がって彼女の進展を阻害してはならないと思ったからだ。
「すぐに、『茉莉ちゃんと行くよね』って言ってたけど、伊澄さんは、さすがに圭さんは来てくれなさそうとも言ってて」
(ほら! それ! 遠回しに誘ってるじゃん! 知らないけど!)
今すぐ、この話を圭と共有したい衝動に駆られたが、今はまだ話が終わっていない。
ぐっと堪えた茉莉は、何とか笑みを浮かべて「それでそれで?」とまた続きを促す。
「茉莉ちゃんとも、男の人苦手なの直さないとって話してたし、伊澄さんは他の人より男の人っぽくないから大丈夫かなって、思って……私から、お誘い、したの……」
「でかしたー!」
「わっ」
結衣はその瞬間を思い出し、徐々に語尾が小さくなった。
思わず席を立って抱きついた茉莉を、周囲のクラスメイトは何事かと一瞬だけ目を向けた。何でもないことだと判断したのか、すぐに視線は戻されたが。
耳まで赤く染め上げた結衣を見れば、状況を見ていない茉莉でも相当な勇気を振り絞って言ったのだと分かる。ただでさえ、異性と話すときは視線も合わさず、言葉もたどたどしくなる結衣のことだ。状況は想像がつく。
茉莉が唯一気になったのは「男の人っぽくないから」と結衣が言っていたことだが、それについては後でどうとでもなる。
今にも泣きそうな結衣の頭を軽く叩くように撫でながら、それでメッセージを送ったのかと合点がいった。
「なるほどね。それで、日程を決めるためにメッセージ送ったのね?」
「う、うん。……あ。あと、茉莉ちゃんと圭さんも誘おうかって話も出て――」
「あー! ごめん! その日、行けないのー! 用事があってぇ!」
「まだ日にち言ってない……」
結衣が言い終えるよりも早く、茉莉は大げさなほどに残念そうな声を上げた。
しかし、まだ結衣は行く日にちを言っていない。
二人の間に微妙な空気が流れ、声を上げたときのままの表情で固まっていた茉莉はすっと表情を元に戻す。どうするか、と茉莉の思考はかつてないほどに高速で回転していた。
茉莉としては、こっそり二人の様子を見たかった。その場にいたのでは、きっと結衣は茉莉の近くにいるだろう。猫カフェのように圭と行動してもいいが、それではいらぬ誤解を与えてしまう。ゲームセンターが良い例だ。そもそも、圭が来るかも分からない。
結衣は不安げに茉莉の言葉を待っている。伊澄が他の人よりも異性とは感じないとはいえ、まだ二人きりになるのは怖いのだ。
良心が苛まれるが、結衣の将来を考えて、ここは心を鬼にしようと決めた。決して、自分の楽しみのためではない。
しかし、理由をどうするか。茉莉は置かれたままのチラシを視界に入れると、「これだ!」とその箇所を指して言う。
「これの! 開催期間中は! 遊べないの!」
「九月まであるんだけど……」
強調するために区切って言うも、開催期間は想定よりも長かった。ちなみに、今は七月の中旬だ。来週末からは夏休みに入る。
嘘だぁ、と茉莉はチラシを見た。嘘じゃなかった。
約二ヶ月と少しあれば、どこか一日くらいは行けるのではないのか。最も、九月となると伊澄達に再度、土日に休んでもらう羽目にはなるが。
珍しく食い下がる結衣は、よほど二人きりになりたくないのだろう。普段なら一緒に行くと言うところだが、今の茉莉は心を鬼にしている。
「ほら。夏休みと九月は、バイトいっぱい入れようかなーって。欲しい物もあるし」
「……そっか。茉莉ちゃん、一人暮らしだもんね」
(あたし、本気でバイト増やそうかな……)
茉莉は今もバイトをしているが、八月も今とさして変わりない頻度で入る気だったため、しゅんとした結衣に胸が締め付けられる思いだ。
このままでは結衣も当日を楽しめないかもしれないと思った茉莉は、せめてもの償いとしてある提案をした。
「んー……一緒には行けないけど、手伝いならしてあげる」
「手伝い?」
「服選びとかメイクとか、いろいろ。デートなんだし、普段、あたしと遊んでるような雰囲気から変えないと! あれも可愛いんだけど」
「でっ……!? そ、そんなのじゃないよ!」
デートという単語に一気に顔を赤くした結衣は、慌てて否定した。伊澄も結衣もそのつもりで行くと決めたわけではない上、茉莉や圭も誘う気だったのだ。もしかすると、圭は来るかもしれない。
その考えに至ったところで、結衣は圭が来たらどうしよう、という新しい不安に駆られる。
「け、圭さんが来たらどうしよう……」
「大丈夫。行かせないから」
「え?」
「行けないから」ではなく「行かせない」と聞こえた気がした。
気のせいかと茉莉を見れば、彼女は笑みを深くすると、追究を許さない雰囲気で言う。
「いいからいいから。行く日が決まったら教えて? その前までに買い物行こう!」
「ええ……」
「何なら会話ネタも提供してあげるから」
「それはお願いします」
素直に頼んできた結衣に満足げに頷きつつ、茉莉はスマホを取り出すと圭に素早くメッセージを送る。
『ぜっっっっっっったいに! 伊澄さんからの誘いは断って!!』と。
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