第八話 姫君 3
ユルは布で顔を隠し、ちょうど昨日見たナミのような格好になっていた。恐ろしく真剣な顔をしていたので笑うわけにもいかず、ククルはぎこちない表情を浮かべてユルの後を付いて歩く。
ユルはまるでよく知った道を辿るような足取りで、迷うことなく
大きな門は複数あったが、どの門番もユルが何事かを口走り札をかざすと一つ頷いて、それぞれに栄誉ある門を通してくれた。
門を通る度に、ぴりっと痺れにも似た感覚を覚える。
(――そうだ。ここは、
国家を守る聞得大君の
ようやく城内というところで、ユルは最後の門番に札を見せ、とうとう顔を見せた。門番たちは話を聞いていたらしく、恐縮したように一礼して、城内に通してくれた。
まず、案内役の
(まあ、庶民の恰好じゃだめってことだよね)
納得したところで、女官が入って来る。女官は、黄色い
「こ、これを着るの?」
「はい。支度は、お手伝い致しましょう」
女官の助けを借りながら、ククルは今まで見たこともないぐらいに上等な琉装をまとった。着終えた後、女官に姿見を見るように促され、その姿を鏡に映す。
「…………わあ」
上かけの着物は長く、地の色は黄色い。黄色い生地に、あでやかな赤の花が踊る。足元に覗く着物は鮮やかな赤だった。
綺麗だなあ、と素直に思う。こんなにも生地が美しく、模様の華やかな琉装を着る機会が来るとは思わなかった。
しばらく呆然としていると、戸越しにユルの声が響いた。
「おい、着替えたか」
「あ、うん」
応答するとすぐに、ユルが入って来た。ククルを見て、へえ、と呟く。
何が「へえ」なのか、と首を傾げながら、ククルはユルをまじまじと見る。彼も、庶民の着物ではなく、王城で見劣りしない上等の琉装をまとっていた。紺地の着物は一見地味だが、細かな刺繍が施されている。
そんな恰好を見ていると、ユルが王子なのは本当なんじゃないか、と思えて来た。思いのほか、似合いすぎていたからだ。上等の着物に臆した様子もなく、泰然としている。着慣れていないと、この余裕は出ないだろう。
一方ククルは、着慣れない豪奢な琉装に若干気後れしてしまっている。
「じゃあ、行くか」
「うん。ねえ、でもこの着物……着ちゃっていいのかな? 誰かが、貸してくれたんでしょ」
「……ああ。まあ、いいじゃねえか。それは、お前にやるよ。
「え」
餞別って何、と聞きたかったのに、もうユルは部屋から出て行ってしまった。ククルは慌てて、彼を追った。
案内役の舎人に従って、ククルとユルはひたすら城の廊下を歩く。
漆塗りの柱に圧倒されながら、ククルはきょろきょろと城内を見渡した。鮮やかな着物をまとった役人や、大陸の衣装に身を包んだ外国人など、色々な人が出入りしていた。
人が多いにも関わらず、城内は風通しが良く、どこか清涼な空気に満たされている。聞得大君の守護の力が強いのか、それとも城そのものの風水が良いのか……。
しかしククルは、奇妙な違和感を抱いていた。
(何だろうこれ……濁り、みたいなのがあるような……)
ふと、前を歩くユルに視線をやる。ユルの歩き姿は堂々としていた。伸ばされた背筋は彼を実際の背丈より大きく見せ、迷いのない足取りは一種の威厳を感じさせる。
ユルの歩み方は、城に慣れた者のそれだった。ここで生まれ育ったのだ、と素直に納得できる。
(ユルはやっぱり、王子なのかもしれない……?)
しかし、こんなに口の悪い王子が居て良いのだろうか――と思った時、ようやく舎人が一室の前で足を止めた。
「こちらでお待ち下さい」
舎人に頭を下げられて、ククルは恐縮しながら、ユルは偉そうに頭を上げたまま、案内された部屋の端に腰を下ろした。
この部屋から見える中庭には色とりどりの花が植えられており、見惚れている内に眠くなって来てしまった。
ユルが許可を取ったと言った割には、長く待たされている。もう小一時間は経ったろう。
こくり、船を漕ぎかけたところで急に視界が華やぎ、ククルは目を丸くした。
しゃんしゃんと鈴の音が響き、艶やかな女性たちによる群舞が繰り広げられる。
(あれ、真ん中の女性は何だか見たことがあるような――)
ユルが息を呑んで、ククルの肩を掴んだ。
「見るな」
「え?」
「目を閉じろ。惑わされるぞ」
ユルに叱咤され、ククルはわけもわからず目を閉じた。
「――つれない、若様」
「黙れ。オレに干渉するなって言っただろ」
「あなたが、その娘を伴って来るからでしょうに。煩わしい手続きを取らずとも、あなたなら歓迎されますのに」
「黙れって言ってるだろ。オレは――ここには、こいつの兄として来たんだ」
くすくすくす、と微かな笑い声が遠ざかって行った。
「――もう良いぞ、目を開けろ」
「うん……。あれ、あの人……ってウイさんの家に居た人だよね」
「人じゃない。毒蛾だ」
ユルは、それ以上説明を拒むように顔を背けた。すると程なくして、役人が二人を呼びに来たのだった。
聞得大君とは王の姉妹であり、オナリ神(守り神)である。霊力をもって国家を守護する、最も位の高き
通されたのは、聞得大君が人に会う時のみに使う部屋だった。
ただそれだけの部屋だというのに内装は豪奢で、価値のありそうな骨董品などが、たくさん飾られている。
ククルとユルが正座し、平伏して待っていると、長い衣をまとった女性が現れて正面の高い床に座った。
「頭を上げよ、娘。何の用で私に会いに来た」
「お、恐れながら申し上げます。私の名は、ククルと申します。八重山諸島にある、神の血を伝える家から来ました――」
ククルは、そっと顔を上げる。聞得大君は若くはなかったが、それでも気品のある美しさを備えていた。ただ、その目が怖かった。鋭く、見る者を焼き尽くしてしまいそうな激しい目に、怯みそうになった。
どうしてか、ティンの母であるクムを思い出す。
「そなたの出身地は、既に聞いておる。わらわは簡単には人に会わん。特別に会うことにしたのは、お前がその家の出身だからこそ。神の血を伝える家のことは、無論わらわも知っておるぞ」
聞得大君は微笑んで、ふと手に止まった蛾の翅を指で撫でた。
「神の血を引くが故に、そなたの家は王府より諸島の監視役を任されたのだったかな。――――して、何用か」
「私の家の、兄が代替わりしました。全く血縁関係がないのは前例のないことなので……」
祖母に習った通りのことを言おうとして、言葉が詰まる。
ティンだって、ククルの実の兄ではなかったのに。
「……聞得大君に、申し上げに来ました。新しい兄の名前は、ユルです」
ユルが顔を上げた瞬間、聞得大君が青ざめた。
「――お前」
「お久しぶり、母上」
信じられないことを口にして、ユルは立ち上がって懐に忍ばせていたらしい小刀を、取り出した。
「ククル、オレに力を貸せ!」
怒鳴られ、ククルは息を呑む。
「オレは、この女を殺しに来たんだ! そのために、力を貸してくれ――」
切ない声で紡がれた嘆願を、ククルはただただ呆然として聞いていた。
ククルは、祈れなかった。驚きすぎて、ユルが何を言っているのかわからなくて――動けもしなかった。
「ユル、何を……言ってるの?」
「力を貸せって言ってるんだ! こいつは人殺しの
「だって、この方は……聞得大君だよ……」
魔物であるはずがない。魔物はもっと、禍々しいものだ。人の霊力とは、全く異なる力を持つものである。目の前に座す女性が持つ霊力は、魔物のものではなく確かに人のものだった。
聞得大君はゆらりと立ち上がり、手に止まっていた蛾に命じた。
「ウイ。捕らえろ」
途端に、蛾は艶やかな女性へと姿を変じて、その手に刀を現した。
「ククル、頼む……。力を貸してくれ! オレの力だけじゃ、こいつを倒せない」
ククルは呻いた。祈れない。――祈れるはずも、なかった。
ユルは、聞得大君を殺せと言うのだ。
「ククル――!」
懇願は、聞き遂げられなかった。
ウイの刀を受け止めたユルの小刀はあっさりと砕け、その腹に白刃を埋め込まれた。
「ユル――!」
絶叫が、ククルの喉から迸る。飛び散る血が、視界を染めた。
「我が使いに勝負を挑もうなどと、馬鹿げたことをするのう。お前は」
聞得大君は顔色一つ変えずに、もう一度座り直す。ククルは信じられない思いで、彼女を睨みつけた。
「何で、何でユルを……」
「そいつが襲い掛かって来たからだ。安心しろ、致命傷ではない。――しかし、何の茶番かと思えば……そうか。お前の――オナリ神の力を借りれば、わらわを殺せると思ったのだな」
くつくつと喉の奥を鳴らし、聞得大君は倒れ伏したユルを見下ろした。
「娘、去るが良い。このことを口外せず故郷に帰れば、罰はなしとしてやろう」
「……でも、ユルが」
「それは、わらわの息子だ。悪いようにはせん。それとも、ここでわらわに刃向かうかえ?」
聞得大君のぞっとするような微笑に身を震わせ、ククルは後ずさった。
「……ククル、逃げろ……」
小さな、声がした。
「ユル?」
「早く、逃げろ……。早く……。オレは、大丈夫だから……」
腹の傷を抑える気力もないらしく、ユルは目を閉じたまま言い募った。どくどくと、真っ赤な命の水が溢れている。
「ユル……」
ククルは泣きたかった。自分が不甲斐なくて、心が痛かった。
どうして、ユルを信じてやらなかったのだろう。呆然とせず、力を貸してやれば良かった。聞得大君を殺す力を貸すことは許せないでも――逃げる力を貸してやれば良かったのに。
ユルは意識を失ったのか、それきり何も言わなかった。
「娘、急げ。役人が来るぞ」
聞得大君の声に押されるようにして、ククルは泣きながら立ち上がって、走り出す。
「力を貸してあげましょう」
ウイの声が響いた、と思った次の瞬間、ククルは城の外に立っていた。ウイの力によって転送されたらしい、と気付き――ククルは壮麗な城を仰ぎ、涙を零した。
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