第三話 蝶々

 ティンは怒りをたたえた目で、ユルを睨み付けた。


『お前は、契約をたがえるつもりか』


「違えたつもりはない」


 ユルは勢いを取り戻し、立ち上がってティンと対峙した。


「オレはあんたの言った通り、ククルの兄になった。それでちゃんと、旅もしてる」


『それだけでは十分とは言えない』


 ティンは怯まなかった。


『私が何故お前にククルを託したか、お前はわかっていない』


「……わかってるさ。でも、オレにもやりたいことがある。だから、あいつと馴れ合うなんざ御免だ」


 ユルは吐き捨て、鉈を手に取った。


 無駄だとはわかっていた。このいけ好かない男を斬っても、すり抜けてしまうのだろうから。


『それでは話が違う』


「黙れ。文句があるなら、ククルに訴えて来たらどうだ?」


 ユルの一言に、ティンは哀しそうに目を伏せた。


『私はククルには会えない。たとえニライカナイが近くても』


「どうして」


『お前は知っているはずだ』


 そう言われても、ユルは表情を変えることもなく目の前に佇む霊を睨み続けた。


『お前は、まだ忘れていないのか。お前は忘れると誓い、そして私との約束を……』


「ああ。あんたには感謝してるよ。だけど、オレには――忘れられない。それでも、あんたとの約束を違えることにはならないだろ」


 吐き捨てるユルを、ティンは哀しそうに見下ろす。


『神々に挑んでも無駄なのだぞ、ユル。私を見て、わかるだろう』


 ざあっと風が吹き抜けるが、その風も霊体であるティンの髪は揺らせない。


「あんたが勝てなかっただけだ。オレは、勝つ」


 ユルが言い切ると、ティンは凍てつくような冷たい表情になった。


『お前は愚かだ』


 それでもユルは、怯まなかった。


「――去れ、死霊」


 冷たい言葉を投げ付けると、ティンは顔を強張らせてから背を向けて歩き出した。しかし、彼は空を見上げて途中で立ち止まった。


『ククル――』


 すぐにその姿が揺らいで消え、ユルは首をひねる。


「何だってんだ?」


 ユルは急に圧迫感を覚え、胸を押さえて青ざめた。


(苦しい――)


 ユルは舌打ちして立ち上がり、海へと向かって駆け出した。




 気が付いた時にはもう遅かった。蔦に似たものに足を掴まれ、ククルは沈んでいた。


 抗う気力もなく、ククルは泣く。海の中では涙がこぼれているかどうかもわからないけれど、ククルは自分が泣いているのだと知っていた。


 ククルの足を掴んでいた物の正体は見えないままで、海の底には闇だけがある。


魔物マジムン……?)


 その時、光が閃いてククルは目を押さえる。そっと目を開けると、光の中で……信じられない人物が見えた。


(兄様!)


 ティンを一瞬見たと思った時、光と共にその姿は消えた。


 兄を捜して首を巡らせると、後ろから誰かに片腕で引き寄せられる。


(――ユル)


 ユルは鉈を一閃して、蔦を断ち切る。闇の正体も確かめようとせず、ユルはククルを連れて海面へと上昇した。


 二人揃って水面から顔を突き出し、荒い呼吸を繰り返す。


 ククルは咳き込み、ユルを見上げた。


「来い」


 ユルはククルの手を引き、浜辺に泳ぎ着いた。


 潜っていた時間が長いせいもあって、ククルは陸に上がってもまだ口が利けなかった。ゴホゴホ咳き込んで、飲んでしまった水を吐き出す。


「馬鹿かよ、お前。夜の海に、何で入ったんだ?」


 ユルの口調に非難を感じ、ククルは唇を噛み締める。


 夜の海では、水底の魔物マジムンが目覚める。誰もが知っている常識を、もちろんククルは知っていた。だけど、足が止められなかったのだ。


「わかんない。ただ、兄様に会いたくて」


 気が付けば、水の中に入っていた。恐怖などなくて、ただ進み続けた。


「ユルが、あんなこと言うから悪いんだよ」


「へえ」


 本人は応えた様子もなく、濡れた髪をかき上げる。


「へえ、って……」


「オレは正直に言ったまでだ。お前との旅は強制事項で、お前を置いて行くわけにはいかないから共に居る。オレがお前を利用しているように、オレを利用しろよ」


「そんな」


「だけど、死ぬのは許さない」


 じっと黒い目で見据えられ、ククルはたじろぐ。


 ユルの目は怖い。夜の色をしているから、夜みたいに底知れない。


「わかったか?」


「……わかんないよ。ユルは私のこと嫌いなんでしょ? 兄様兄様って、うっとうしいって思ってるんでしょ!?」


「まあ、うっとうしいことは確かだな。だけど、オレは嫌いとは言ってない。お前のことなんか考えてない、って言ったんだ」


 それでも拒絶には変わりない、とククルは心の中で泣きそうになる。


「割り切れ。オレに頼っても良いが、甘えるな」


「難しいよ……」


 途方に暮れたように呟くククルを残し、ユルは森の中に入って行ってしまった。


 ククルはそっと、海を振り返る。


「あれは、兄様だったの……?」


 さっきククルを捕らえかけた魔物がいるとは信じられないほど、夜の海は穏やかに凪いでいた。




 翌日、二人は終始無言で次の集落へと向かう道を進み続けた。


 ククルはユルにどういう態度を取るべきかわからなかったし、ユルはユルで考えごとをしているようだったからだ。


「なあ」


 昼頃になって、ようやくユルが足を止めた。


「何?」


「休むか。もう随分歩いただろ」


「うん」


 二人は木陰の下に腰を下ろし、乾飯かれいいをそれぞれ食べ始めた。


「……ユル」


 恐る恐るといった様子で、ククルはユルに話し掛ける。


「何だよ」


「昨日、私を助けてくれた時……」


(兄様を、見た?)


 と尋ね掛けたところで、喉が詰まる。


 ユルはそんなククルを見て、不審そうに眉をひそめた。


「ううん、じゃなくて。死んだ人に、会ったことある? 悪霊とかじゃなくて……その」


 言い直してから、二人の間に沈黙が降りて鳥の鳴き声がいやにはっきり聞こえて来た。


「死んだ人?」


「そう。フイニさんみたいな、恨みを残した霊じゃなくても……死んじゃった人は、こっちに帰って来ることあるの?」


「さあな。ニライカナイが近い日なら、有り得るんじゃねえの。お前の方が詳しいだろ」


「……そうかな。お祭りの時に、祖霊が帰って来るとは知ってるんだけど」


 戸惑うククルを見てから、ユルは静かに口を開いた。


「ああ、その通りだ。祖霊達は決められた期間にニライカナイとこの世を行き来し、幸せと災いをもたらす」


 ――――幸せも災いも、ニライカナイからやって来る。


 誰が言っていたのだろうか。遠き昔に、懐かしい声で誰かが教えてくれたという曖昧な記憶だけが残っている。とても古い記憶だった。


「祖霊か……」


(兄様は、私の親族。まさか、私を助けに帰って来てくれた? でも、今の時期はお祭りの時期じゃないのに)


「例外は」


 ユルが思い出したように言ったので、ククルは顔を上げる。


「神だけだ。神は時期に関係なく、行き来出来る」


「……祖霊も、神様ではないの?」


「ある意味では神だ。だけど、祖霊達は単体で行動出来ない。お前の一族は一つの祖霊となる。それに対して、神は“個”だ」


「神――」


 海の神、陽の神、月の神、風の神、火の神。ニライカナイには、たくさんの神が居る。皆それぞれ、大きな力を持っている。


(兄様は、神の血を引くから……帰って来れたの?)


 ククルはうつむいて、ティンのことを想った。


(それなら、どうか答えて兄様。私を責めてくれても罵ってくれても構わないから、もう一度会って欲しい。私は、兄様に謝りたいから……)




 ようやく辿り着いた集落に入ると、よそ者が珍しいのか、村人達が不審そうにククルとユルを見て来た。


「ここにも親戚が居るのか?」


「うん。ノロではないけどね」


 ククルとユルはようやく普段通りに振舞いつつあった。


 祖母から教えてもらった親戚の名前を、心の中で何度も呟く。


(ウイさんウイさん……)


「あの、ウイさんのお宅を知りませんか?」


 通りすがりの男に尋ねると、男は無表情で一軒の家を指差した。




「こんにちはー」


 ククルが呼び掛けると、奥からククルよりも年上と思われる少女が出て来た。


「はい、どなた?」


 ほっそりとした面はまだあどけないが、女の艶やかさも同時に併せ持っていた。


「神の血を伝える家から来ました、ククルと申します。この度、ティン兄様の死により“兄”が代わりました。ばば様の言い付けで、こうして親戚の家々に挨拶を」


「ああ、そうなの」


 少女はにこやかに笑って床に手を付き、頭を下げた。


「私がこの家の当主、ウイと申します。お目に掛かれて光栄です」


「あなたが、当主?」


 ククルは思わず、目をぱちくりさせたのだった。


「はい」


 ウイは何の屈託も無い笑顔を浮かべた。


 戸惑うククルは、横のユルが渋い顔をしていることに気付いたが、今度は奥からわらわらとやって来た少女達に目を奪われた。


「姉様、お客様?」


「まあ、かわいらしい二人」


 よく似た容姿の少女達が十人も並んでいる光景は、圧巻ですらあった。


「きょ、きょうだいですか?」


「ええ。妹達です」


 年子としても多すぎるのではないだろうか、と思いながらもククルは少女達に笑い掛ける。すると、一斉に同じような笑顔が返って来て、ククルはひっくり返りそうになってしまったのだった。


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