2 フレアサイン




「ほんっと、世のなか何があるか分からないわねえ。明日は我が身って言葉をこれほど実感したことはないわぁ。……でも良かった。酷い怪我じゃなくって」


「うん」


 頭には包帯を巻き、右腕と右脚はギプスで固定され全身擦り傷だらけではあるものの、脳や命には別状はなく、詩稲しいな次凪つなぐは事故の翌日には意識を取り戻していた。


「でも検査とかあるみたいだから、もう数日は入院するみたいね。……おばさん、着替えとか必要なもの取ってくるからね。あ、そうそう、警察の人が話を聞きたいって言ってたから、あとで来るかもしれないわ。大丈夫? 話せる?」


「はい、大丈夫です」


 お見舞いに来ていたおばさんは心配そうにしていたが、次凪がふだん通りであるのを確認すると苦笑交じりに頷いた。


「…………」


 やがてお喋りなおばさんが出て行くと、途端に病室は静まり返った。

 次凪がいるのは六人部屋なのだが、隣のベッドの男性を除けば他はみんな高齢者のようで、見舞いも客もおらず室内は静寂につつまれている。

 微かな寝息と、廊下を行き交う足音、遠くから聞こえる院内アナウンス――何をするでもなく、次凪はベッドの上で半身を起こしたまま宙に視線を向けている。完全に空気と一体化していた。


 ふと、紙をめくるような音が聞こえた。

 次凪が横に目をやると、隣のベッドの男性が読書をしている。眼鏡をかけた、細身の中年男性だ。男性は次凪の視線に気付いたのか、不意に顔を上げた。


「こんにちは」


 男性が口を開く。次凪も「こんにちは」と返した。男性は少し困ったような顔をした。


 今日まで面識のなかった相手だが、次凪が意識を失っている間、おばさんと親しくしていたらしい。隣ということで話す機会があったのだろう。おばさんは誰とでも親しくなれる人だ。先ほども少し言葉を交わしていた。


 ただ、次凪としては特に話す話題もない。黙って相手が何かを言うのを待った。


「えーっと……」


 しかし相手も話すことがないのか、何やら気まずそうに視線を泳がせていた。


 そんな沈黙を破ったのは、廊下から聞こえてきた複数の足音だ。

 軽く速い歩調を想起させる足音と、重たく落ち着いた足音が二つ。これまで聞こえていた病院職員のそれとはどことなく異なるもので、それらはちょうど次凪のいる病室の前で停まった。


 男性がそちらに顔を向けるので、次凪もつられて目を向ける。


 現れたのは、スーツ姿の男女三人。

 先頭にいた小柄な女性は室内に視線を走らせると、ふと次凪の頭に目を留めた。つかつかと軽快な足取りで近づいてくる。


「……詩稲次凪くん、ですね?」


「はい、そうです」


 頷くと、女性は多少面食らったような間をおいてから、名乗った。


「警察です」




                   ■




 その女性刑事は、雪末ゆきすえと名乗った。


「事故の原因は車の自動走行システムの異常とからしいですが――」


 雪末は次凪に、今回の「ひき逃げ事件」について説明した。

 乗り捨てられた車から異常が見つかり、次凪がひかれたこと自体は〝事故〟であるらしいが――


「逃げた〝犯人〟の顔とかは見てないですか? 見てない? はあそうですか――」


 運転手はその後、逃亡したという。彼女たちはその逃げた犯人を捜索中らしい。


「……ともあれ、こういうのもなんですが、病院の近くでの事故というのが不幸中の幸いでしたね」


「そうですね、幸せでした」


「うん? 幸せ……?」


 半日以上のあいだ意識を失っていたものの、目立った負傷は手足の骨折くらいだ。特にこれといって異常も感じないのだが、


「えっと、本当に大丈夫……?」


 と、聴取をする雪末に心配されてしまう。


 何かおかしなところでもあるのだろうかと次凪は首をかしげた。

 どちらかといえば、おかしいのは彼女……いや、「彼ら」の方だろう。


 病室に訪れた警官は三名。二人は男性で、一人は病室の中、一人は外で待機している。

 まるで何かを警戒するように睨みを利かす二人の男性――多少、疑問を覚える。


 ひき逃げに遭った経験などないのでそもそもこの場合における通常の聴取が分からないのだが、わざわざ三人もの警官が出向くものだろうか。


 それも、二人の男性警官は腰に拳銃と、拳銃に似た「何か」をぶら下げている。

 先ほど「犯人」と言っていたが、何か他に事件でもあったのかもしれない。


 ……こういうのは、刑事ドラマだと定番だ。


「定番ですね」


「……え? 何が?」


 ひきつったような笑みを浮かべる雪末。次凪にとっては見慣れた表情だ。みんな、よくこういう顔をする。


「えーっと……とりあえず、大丈夫そうで何よりというか。まあ、その、ご協力ありがとうございました。それでは、お大事に――」


 と、雪末が席を立つ。次凪は笑顔を浮かべて見送ろうとした。


 その時、スピーカーが唸った。

 比較的静かだった院内が、にわかに騒がしくなり始めた。



『――火事です。火事です――火災が発生しました。落ち着いて避難してください――』



 言葉で表現しがたい警報音が鳴り響き、日本語と英語で避難指示が繰り返される。

 廊下からは看護師たちが避難を促す声が聞こえてきて、病院全体がざわざわとした雰囲気につつまれる中……病室入口に集まった警官たちの方にも異変があった。


「これって〝特殊警報フレアサイン〟ですよね……? 何がありました?」


「この病院でらしい。……屋上だそうだ、急ぐぞ――」


 …………。


「フレアサイン……」


 足早に去っていく警官たちを見送りながら、次凪は彼らの会話の中に出てきた耳慣れない言葉を反芻する。

 耳慣れないが、聞き覚えがある。


 たしか――


「僕たちも避難しようか」


 と、隣の男性がおもむろに動き出す。他のベッドの患者たちも何事かと起き上がり始めた。


「大丈夫? 立てるかい?」


「はい、大丈夫です」


 男性に手伝われながら次凪はベッドから下りる。脇に杖があったので、それを使うことにした。


 看護師が病室にやってくる。慌てる他の入院患者に声をかけながら、車椅子に乗せたり杖を用意したりと忙しない。


「大丈夫ですから。落ち着いて、指示に従って移動してください」


 杖に半身を預けるようにしながら廊下に出ると、職員が避難誘導をしている。歩ける方はなるべくエレベーターではなく階段で避難するようにと。


 階下へと向かう人の流れ。


「…………」


 それに逆らうように、次凪は階段を上り始めた。



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