第36話 純粋で無防備で
「――――この我がいるのだ。それで充分だろう?」
黒すけは耳元で低く囁いた。
「え、黒すけ……?」
「邪魔者はいなくなった」
振り向くと黒すけは紅い双眸を細めて俺を見つめていた。
彼のその表情に、少なくとも俺に敵意を抱いている訳ではないことは理解できた。
黒すけは完全にそれが良いことだと思って言っているのだ。
「黒すけ……みんなのことを邪魔者だなんて言っちゃ駄目だ」
俺がそう言うと、彼は顔をしかめた。
顔をしかめたと言っても怒っている風ではなく、不思議そうな顔だ。
「何故だ」
彼は本当にそれの何がいけないのか分かっていないのだ。
「だって、みんなは仲間だから」
「仲間だと?」
黒すけは首を傾げる。
俺が彼に物の道理を教えてあげなくちゃいけないのかもしれない。
だって彼はついさっきまで剣だったのに突然人間になってしまったのだから。
人間としての常識は知らなくて当然なのかもしれない。
あれ、そういえば黒すけはなんで突然人間になったのだろう。元の黒すけは?
黒すけを帯びていた筈の腰を見ると、そこには黒すけを吊り下げていたベルトしかなかった。
剣がない。
どうしよう、黒すけが人間になったのはいいけれどその代わり俺が丸腰になってしまった。
「そうだ仲間だ。みんな俺の大切な人だ」
「なるほど。あれらは主の下僕のようなものという訳か」
「いや、違うけど……」
すぐには理解してもらうのは難しいようだ。
「しょうがないから今はそういうことでいいや」
今はそれで譲歩しておくことにした。
「ところで黒すけは何でその、人間になれたんだ?」
最も気になっていることを尋ねてみる。
「我は人の形を成す為に主の精気を吸い上げていた。それもこれも全て、悪い輩から主を直接守る為だ」
「そうだったのか……!」
そういえば最近続いていた眠くてダルい感じがなくなっている。
そうか、あれは黒すけが人間になる為に精気とやらを吸い上げてたのか。
まさか黒すけの仕業だったとは。
「そっか、よく分からないけど黒すけに心配かけちゃってたんだな。ごめんな。でもこうして人間の黒すけと会話できて俺は嬉しいよ!」
黒すけに向かってにこっと笑った。
「やはり……主は純粋で、無防備だ」
ポツリと黒すけは呟いた。
ううっ、もしかしてそれって頼りないって意味か!?
でもこれが俺なんだ。ずっと一緒にいた黒すけに今更偽ることもできないし、仕方ない。
「ごめんな黒すけ。こんな俺で我慢してくれないか」
「???」
人間の言葉は不思議だと言わんばかりに黒すけは再び首を傾げたのだった。
「主よ。そんなことよりも外に出なくていいのか?」
「あ、そうか!」
黒すけに言われてやっと今の状況を思い出した。
そうだ、地下室が崩れて周囲は瓦礫に覆われているのだった。
しかしどうすれば外に出れるのだろう。
「黒すけ、周りは全部瓦礫に埋もれているのか?」
彼に聞いてみる。
「いや。あちらに扉がある。あちらは埋もれていない」
黒すけは瓦礫の反対側を示した。
「良かった……!」
行く場所があるという事実にほっと胸を撫で下ろす。
この地下室は複雑に入り組んでいるから、先に進めば他の出口があるかもしれない。
そうして外に出れば皆と合流できるかもしれない。
あるいは皆を探すにしても一度外に出て助けを呼んだ方が早いかもしれない。
黒すけが示した方向に行くと、確かにそこに扉があるのが見えた。
その扉を押し開けようと手を添えたところで気が付いた。
あれ、やけにはっきりと自分の手が見えるなと。
さっきまではアーサーくんの光魔法がなければ一寸先も見えなかったのに。
不思議そうに自分の手足を眺めていると、黒すけが横から口を挟んだ。
「我は暗闇でも目が利く。眷属の能力を主が使えるのは当然のことだ」
「そういうことか! ……そういうことなのか?」
黒すけの説明はよく分からないが、夜目が利くのは便利なので理屈については深く考えないことにした。
今は小さいことに悩んでいる場合じゃないからな。
俺は扉を開いて先へと進んだ。
そこは狭い部屋だった。
机の上や棚の中にフラスコやホルマリン漬けの何かが浮き、何に使うのかも分からない器具が並べられている。
ここは実験室なのだろうと予想がついた。
ホルマリンの中には身体の一部が粘液状になったマウスなどが浮かんでいた。不気味だ。
「そんな。行き止まりなのか?」
どこかに先へ通じる道がないのかとキョロキョロする。
他に出口は見当たらない。扉は今俺たちが入ってきた一つだけだ。
俺は机の中に何か紙の束が置いてあるのを見つけた。
「これは……?」
研究記録、とそこには書かれていた。
「魔術師の研究記録か」
洋館の主人が書いたものだろう。
もしかしたら抜け道か何かについて書かれているかもしれない。
そう思ってページをめくった。
~~~~~~~
・○月×日
試行回数三十三回目。今回も失敗だ。
実験体は何の兆候も見せなかった。
このままではいけない。妻に残された時間は少ないというのに。
・○月△日
四十二回目。変化があった。
実験体の前肢が粘液状に変質した。
だが検体は間も無くして息絶えた。
どうやら変化に耐え切れなかったようだ。
だが一歩前進だ。
・△月×日
寝ずに実験を進めている。
あと少しだ。あと少しで形になるんだ。
間に合ってくれ。
・△月〇日
妻に朝食を持っていったら「貴方は誰」と聞かれた。
妻はもうまったく私のことを覚えていない。病は確実に妻を蝕みつつある。
だが問題はない。明日にも研究は完成する。
実験体はほぼ完全に■■■に変質しその後の経過も良好だ。
確実性を確認出来れば……妻と私自身に術を行使する。
・△月△日
遂にこの時が来た。
妻と私は新しい身体を手に入れるのだ。
もう妻は病に苦しまずに済む。
私は妻と新しい世界に行けるのだ。
(ここから先の記述はない)
~~~~~~~~
「な、何だ……これ……」
書かれていた内容に絶句した。
頭の中で整理する。
どうやら魔術師の妻は若年性アルツハイマーは何かだったようだ。
魔術師は妻を治す為か研究していた魔術を施したという流れのようだ。
「新しい身体、って……」
先ほどの不定形の怪物たちのことを思い出す。
洋館の住人たちが不在だったのはもしかして……
「う――――」
あの怪物たちが元人間であるかもしれない事実に気が付いてしまい、吐き気が込み上げた。
身体をくの字に折り、胃の中のものが逆流しそうになるのを我慢する。
「主よ。どうした」
突然俺の具合が悪くなり、黒すけが困ったように俺の周りをうろちょろする。
そうだ、俺がこんな姿を見せたら黒すけを心配させてしまう。
俺がしっかりしなければ。
「何でもない。大丈夫だよ黒すけ」
喉までせり上がっていた胃液を呑み込み、にっこり笑みを作る。
そして研究記録のページをめくった。
日記風になっているページ以外はよく分からない専門用語などで研究の仔細な記録などが書かれているようだった。ぱっと見ただけでは何が書かれているのかよく分からない。
「そういえば……」
懐に手を入れる。
そしてそこに収めておいた手帳を取り出した。
確か暗号か何かで書かれているから読めないとレオたちは言っていた。
この研究記録と手帳を突き合わせて読めば何か分かったりしないだろうか。
「……」
手帳を包む革製の表紙に触れ、その表紙から禍々しいものが伝わってくるような気がして躊躇してしまう。
でも俺が何か行動を起こさなければ……前に進めないんだ!
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