18.幸せ

「幸せって? たとえば?」

「可愛い後輩といられて幸せ! とか」

「ないなー」

「即答ひどい」

 昔は幸せだったかもしれない。自分の性を知るまでは。しかしそんな昔のこと覚えていないし、嫌な記憶が上塗りされていくから思い出なんていいものじゃない。

 人一倍努力をしているはずなのに簡単に追い抜かされて、同級生だけではなく通りすがる人からも視線をもらう。強姦未遂の被害は両の手で数えられない。……未遂じゃないことだってあった。

 オメガ同士で結ばれた両親は、結局お互い別の人との人生を選んだ。

 幸せだったこと、あるんだろうか。

 家族も初恋と思っていた人も、友達も、全部いなくなってしまった。

 つまるところ思い返せば、幸せと思える時なんてなかった。

「樹さん」

「なによ。明日も早いんだから寝なさい」

「好きな人が悲しそうな顔していたらほっとけないですから」

「真っ暗なのに見えるわけないでしょ」

 細くて長くて温かい手が背中に回り込んでくる。いやらしさはなくて、子供をあやすような優しさ。それはそれで嫌なんだけど。

「スマホ光っていますよ」

 瑠衣からだろうか。甘えるようなメッセージを送ったわりには浮足立つような感じにはならない。身体の向きを変えるのも億劫だ。

「樹さんってば」

 サイドテーブルに置きっぱなしにした樹のスマホをシャーロットが長い手で取る。

「ほら、松戸さんからですよ」

「勝手に見ないでよ」

「ロック画面なんだから誰でも見られますって。カモフラージュしたいなら登録名を変えておくといいですよ」

 そっぽを向いたままの樹を抱き抱えるように腕を伸ばしてスマホをチラつかせてくる。

「樹さんが見ないんなら、わたしが代わりに返しちゃいますよ」

「暗証番号知らないでしょ」

「まぁ知らないですけどー」

 タッチ音はオフにしているから聞こえないが、背後で指が動く気配は感じ取れた。

「樹さんも意外と乙女なところあるんですね~。好きな人の誕生日を暗証番号にするとかベタ過ぎません?」

「はぁ!?」

 動揺を隠せなくて、とりあえず上半身を起こしながら不正アクセスをしている後輩に向き直る。

「返事も代わりにしといたんで」

「何を勝手に、」

「もどかしいんですよね。さっさと素直になってくれればわたしも少しは楽になるのにって思っちゃったり」

 スマホを取り返そうとした腕に針を刺したような痛みを感じた。視線を痛みの方向に向けると、確かに針が刺されている。見間違いじゃない。スマホの光を反射しているそれは、

「こんなもの持ち歩かないといけないなんて嫌じゃないですか」

 シャーロットの手に握られているのは、樹が護身用に持ち歩いている麻酔針だ。刺された瞬間に眠くなるほど強力ではないが、疲れ切っている身体にはすぐ染み渡っていく。

「好きな人が幸せじゃないなんて辛いんです。わたしにとっても幸せじゃないんです。分かってもらえますかね、このまどろっこしい感じ」

 まぶたが強制的に下がってくる。気だるさに引きずられるように一度起こした上半身もベッドの上に落ちきった。

「明日の仕事は理由こじつけて休みって言っておきますから。ゆっくり休んでください」

 最後に頭を撫でられた気がして、樹の意識が途切れた。


「おやすみなさい」

 かけた挨拶は聞こえていないようだった。無防備な姿が目の前に落ちているのに触れることも許されないなんて、切ない関係だ。それでも多少のお触りはするのがシャーロットだ。

――本当にパスワード、松戸さんの誕生日なんだ。

 ロック解除したのも、返信をしたのも嘘だ。まず瑠衣の誕生日なんて知らない。普段余裕こいているわりには、こういったジャブには弱い。

「可愛い……」

 寝息を立てている上司兼先輩の寝顔を永久保存するためにカメラにおさめておく。待受に設定するのは後回しにして、先に連絡するべきところにしてしまおう。

――わたしも損な性格だなー、もう。本当いい子に育ったよ、パパ。ママ。

「樹さん」

 寝ている間のキスくらいは許してほしい。

――こんなにも好きなのに。いつになったら分かってくれるのかなぁ。

 シャーロットは樹の辿ってきた人生を知らない。ただ極度の人間不信を見るに、生易しいものではなかったんだろう。シャーロットの母親も男性のオメガで、父親と結婚するまでは大変だったと言っていた。しかも樹は腕力もない女性のオメガ。その上見た目がすごく可愛くて、いい匂いがする。申し訳ないけど襲いたくなる……襲ったのは事実だ。あの日苦しんでいた姿は今も忘れられない。華奢な身体で苦しんでいて優しく介抱していればよかったものの、本能が勝ってしまった。

 でもシャーロットと樹の関係は変わらず。樹の言う通り、やはり自分の愛情はニセモノなのかもしれないと考えさせられてしまうことも多々あった。

 後ろめたさがあるかもしれない。自分の手でなくとも、誰かが彼女を幸せにしてほしいと願うのは。

「幸せになってくださいよ。おやすみなさい」

 シャーロットも狭いスペースで横になる。好きな人の匂い。いっそのこと寝込みを襲うのも手かもしれない。ただそれで手に入れた関係は破綻する。

――どうか、樹さんが安心して眠れる日がきますように。

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