15.想い

 眩しい青い空と立体的な雲。制服をまとっていた頃の淡い記憶だというのに、なんて悪夢なんだろう。

 目を覚ましたのはいつもの寝室で、隣りには誰もいない。

 昨晩シャーロットを早めに追い返し、シャワーも浴びずに眠ってしまった。そのせいもあって寝汗が気持ち悪い。


『そんなんだから樹さんもわたしも、……松戸さんも辛いんですよ』


――シャロがあんなこと言うからこんな夢見るはめに……。

 シャーロットが泣きそうな顔をするのを初めて見た。

――何でこんな面倒くさい先輩のこと好きなんだ。って私のせいか……。

 出勤までには十分時間がある。仮眠レベルの二度寝も許される時間だ。

「あーもう。シャワー浴びておけばよかった!」

 朝に浴びるのはあまり好きではない。できる限りベッドかソファの上でごろごろして惰眠を貪りたい。

 元々ポジティブとは無縁のところにいる人間なのに、夢のせいで思考がいつも以上にネガティブになる。

 大人になったと、もう子供でないと思ってから何度人と身体を重ねてきたか。本気という幻想に踊らされて、何度裏切ってきたんだろう。

 初めて瑠衣に会った時は別の人と付き合っていた。付き合っていたと言っても、交際と言うよりは買い物に付き合う、そんな意味の方が近かったと思う。

 相手は何度も言った。「愛してる」「番になって樹に楽させてあげる」なんて何度も。

 その度に思う。嘘つきって。


 初めて樹に会ったのは彼女が新入社員として、瑠衣の部署に配属された日だ。就職活動にも使っていたであろうリクルートスーツ姿は、年齢のわりに似合っていたのをよく覚えている。第一印象は、卒なくこなすタイプで手がかからなさそうだった。実際に要領がよく、そこら辺の社員よりも仕事をこなしていたので当初から彼女への評価は高い。

 最初はただできる子なのだろうと思っていたが、毎朝誰よりも早く会社に来ているし、日中の業務もいつの間にか誰かがやればいいことを全て樹が担うようになっていた。帰りも、

「こんな遅くまで付き合わないで帰っていいのよ」

 仕事はいくらでもあるとは言え、過重労働を新入社員にさせるわけにはいかない。倒れられても困るし、辞められると本当に困る。

「帰っても寝るだけなんで大丈夫ですよ」

 整った顔はパソコンのモニターに向かったままで、表情を作り変えることもない。進んで仕事はしてくれるものの、彼女はあまり周りとコミュニケーションを取ろうとしない。

「趣味とかないの?」

「ないですね」

 会話をしようにもこんな対応だ。

「恋人は?」

「そんなものはこの世にないんで気にしないでください」

「そう言ったって、新人に倒れられても困るのよ」

「こう見えて体力あるんですよ?」

 目だけがこちらを向いた。捲くった袖の下から生える腕に説得力はない。

「家遠いんでしょ」

 特段突出した内容もなかった樹の履歴書を思い出す。ここから一時間程かかる郊外に一人暮らしだったはず。

「まぁぼちぼち……。でも終電まだあるんで」

「そうゆうことじゃないから」

「じゃあ、ほら。あれです」

 椅子をくるっと瑠衣の方に向け、

「松戸さんと少しでも一緒にいたいからです」

 きっと対人向けの作った笑顔だったのだろうけど、息を飲むには十分過ぎるくらい可愛くて思わず目を伏せた。

 アルファである瑠衣にとっては恋愛対象となる人が多い。同性である樹もそうだ。

「それなら今度一緒にご飯でも行く?」

 決して不純な気持ちではない。可愛くて努力家な後輩を労いたいと思うのは普通だ。

「いいんですか? ぜひ行きましょう」

 彼女なりの営業トークであると分かってはいたが、それを無視して瑠衣は話を進める。

「なにか好きなものとかある? お酒は?」

「あー……お酒はちょっと」

「苦手?」

「得意ではないです。松戸さんは飲める人なんですよね?」

「誰から聞いたの?」

「結構いろんな人から聞きましたよ。松戸さんは強いから飲み会で気をつけなさいって」

 そういえば忙しくて新入社員の歓迎会もしていなかった。でも、部署で開催するよりも二人で行きたい。決して不純な気持ちはないけれど。

「私は飲まないですけど、松戸さんは気にせず飲んでくださいね」


 土曜日に出勤すればスケジュール的には大丈夫だろうと判断した金曜日の夜に、初めて樹と二人で食事に行った。

「急だったけど大丈夫だった?」

 店に来てから聞いても卑怯だなと思う。正直断られると思っていたから大人しくついてきたのは意外だった。

「大丈夫です」

 しかし樹は疲れているのか、あまり元気がない。微熱でもあるのか少しぼーっとしているようにさえ見えた。

「もしかして体調悪い? そうなら無理しないで、駅まで送るから。なんならタクシー代も出すから遠慮しないで、」

「や、全然。本当大丈夫なんで」

 頑固なところがあるのか、気づかっているだけなのか、樹は引く気配を見せなかったのでひとまず注文をする運びとなってしまった。顔色を伺いつつ、ダメそうであれば無理矢理にでも帰そう。

「どう? 仕事は。慣れてきた?」

「慣れたと言いますか……慣れさせられたと言いますか……。業務には慣れましたよ」

「忙しい時にごめんね」

「別に……。むしろ忙しい時にこんなぺーぺーが来て迷惑でしょう」

 否定できないことをためらいなく言われると返しに困る。結果的に樹だったから助かったものの、例年の新入社員がきていたら部署異動をさせるか、される前に辞められるかされていただろう。

「唐揚げにレモンかけます? 嫌なタイプですか?」

「どっちでもいいよ」

「じゃあかけますね」

 汁が飛ばないように片手で壁を作ってからくし切りのレモンを絞り、ふきんで手を拭いて、

「レモンくさい……」

 自分の指を嗅いで少し眉をひそめていた。

「嫌なら絞らなければいいのに」

「レモンかけた唐揚げの方が好きなんです」

 細くて長い指に絡まった箸につままれて、唐揚げが樹の小さな口の中に消えていく。

「あづっ!?」

「そりゃー熱いでしょ」

 慌ててジンジャーエールを飲む姿が、業務中の姿とあまりに似つかなくて思わず笑ってしまった。

「何で笑うんですか」

「可愛いなぁって思って。あたしも食べようっと」

「熱いですよ」

「あたしは一口で食べたりなんてしないから」

 嫌味っぽく言うと不服そうな顔でこちらを見てくる。

 初めての食事ということもあり、極力プライベートなことは聞かないようにと心がけた。本当に恋人はいないのかとか、どんな人が好きだとか、聞きたいことはたくさんあったけど。

「すみません、そろそろ終電間に合わなくなっちゃうんで帰りますね」

「ぁ、ごめんね! 家遠いんだよね」

 席から立ち上がった樹の身体の重心が少しぶれた。

「具合悪いなら無理して終電なんて乗らないでうちにおいで」

「ありがとうございます。でも平気です。お酒も飲んでないし、帰れます」

「ふらふらしているでしょ。あたしのことは気にしなくていいから」

 支えようとして彼女の手を取ると、びっくりするくらい熱くて、そして、

――あれ……。この感じ……。

 先程までは好きな人が目の前にいるからかと思っていたが、これは違う。子宮あたりからぞわぞわするような感覚と誘惑するようなこの匂いは――

「ごめんなさい」

 手を振り払われ、顔を赤くした樹は「ごめんなさい」とまた謝った。

「あの……お金は今度払いますから……。すみません。体調悪くなってきたんで帰ります」

「ちょっ!?」

 早足で店を出ていく彼女を追いかけたいが、会計が済んでいない。アルバイトであろう大学生を無理矢理呼びつけて、まるでドラマのように「お釣りいらないから!」と万札を渡して店を出た。

 金曜日の夜で駅前に行けばかなり人が多い。駅に着くまでに追いつかなければと焦燥感にかられる。

 パンプスで猛ダッシュをしようと決めていたが、その決意はすぐに消え去ることとなった。長い距離走る余裕もなかった彼女は、すぐそこの自販機の横で小さくなっている。通行人の視線が度々彼女に向けられており、このままではあと三分も待たない内に誰かが声をかけるに違いない。

「市川さん」

 駆け寄って視線を合わせるために膝をつく。ストッキングが伝染したように感じられたが無視。

「……」

 荒い息遣いと涙がうっすらと浮かんだ目で思わず肩にかけた手に力が入る。

「あたしの家近いから。とりあえず行くよ」

「でも……」

「ここで知らない人に襲われるくらいなら、あたしの方がマシでしょ」

 自分でも最低なことを言っているなと思いながら、彼女の手を強く握って立ち上がった。


「少しは落ち着いた?」

 タクシーで家に連れて帰り、とりあえず携帯していた薬を飲ませた。落ち着いていないのは、瑠衣の鼓動の速さが証明してくれている。

「……襲わないんですか」

「本当襲いそうになるからそうゆうこと聞くのやめてちょうだい」

 身体の準備はできてしまっているのだ。

「……市川さんがオメガだとは思わなかった」

 精神を落ち着かせるために氷をいっぱいに入れたグラスで水を飲む。

「毎度みんなそう言うんですよ」

 それもそうだろう。新入社員でこれだけ仕事をこなす子がオメガなんて考えたこともなかった。

「言わないから、誰にも」

「すみません……」

――もう可愛くてどうにかなりそう。

「寝室そっちにあるからベッド使って。あたしはここで寝るから」

「……」

「なにその顔は」

「いや……その……」

 どうやら本当に襲われると思っているらしい。それとなく彼女の過去を察してしまい憐れみを感じてしまう。

――そうだよね。オメガなら平和に日常生活送るなんて、この世界じゃ無理か。

「松戸さんってアルファなんですよね?」

「そうだけど……。……好きな子だからって無理矢理するのは違うから」

「好き……?」

「うん。好きよ、市川さんのこと」

 勢いと雰囲気で伝えてしまったが、樹はいたって冷静な表情を向けてきた。

「それは嘘ですよ」

「嘘じゃないわ」

「私がオメガで松戸さんがアルファだから。……だから惹かれるだけなんですよ。オメガ少ないし。たまたま私がいただけです」

 そんなことないと言っても、きっと同じようなことを返されるだけだろう。

「そんなこと言わないで」

――冷静に。冷静に。落ち着いて……。

 熱い彼女の手を取る。

「じゃあ私と寝ますか?」

「えっ!?」

 樹の視線は瑠衣の目でも手でもないところを向いている。

「市川さん、もう少し自分を大切にしなさい」

「ヤりたくないんですか?」

「……正直言えば今すぐ襲いたい」

「準備万端ですもんね」

「デリカシーない! 見ないの!」

「すみません」

「とにかく襲わないから。市川さんが認めてくれるまで絶対ヤらない」

「なんですか、その宣言」

「好きなんだもの。好きな子には信じてもらいたいでしょ」

 一瞬だけ目が合った。

「私のどこが好きなんですか」

「可愛いところ」

 コンマ一秒で答えた自分が少し気持ち悪かった。

「つまり見た目ですか」

「ちが、いや違わないけど。見た目も可愛くて好みなんたけど、行動というか、ちょっとひねくれた性格が可愛いというか」

「今後誰かを落としたいのであれば、口説き文句は考え直した方がいいかと思います」

 こういうところは可愛くないけれど、この状況だと一周回って可愛く思えてしまう。

「市川さんはあたしのこと好きじゃない?」

「嫌いじゃないですよ。尊敬もしています」

「好き?」

「惹かれてはいます」

「好きってことでしょう?」

「アルファに惹かれてしまうのはオメガの性なんですよ」

「会社の中であたしより好きな人いる?」

「それはいないですけど」

「ならいいわ」

 卑屈になり下がっている頭を撫でる。

「……」

――髪さらさらしてる……。

「ねぇ」

「なんですか?」

「キスしちゃダメ?」

「……」

 少し目から発せられる温度が下がった気がする。

「ヤらないけど、でも我慢が辛くて……」

 部下に一体何を強要しているんだろうと自分を嫌悪した。

「……すみません」

「そうだよね。ごめ、んん、!?」

 熱くて薄い唇が触れてきて完全に思考が止まる。崩壊しそうな理性を抑えることだけに専念して目を閉じた。

 力の籠もった目蓋を開いた時、

「柔らかいですね」

と、はにかんだ彼女の顔が目の前にあって本当に辛かった。

――幸せにしてあげたい。

 そう思えるんだから、この想いはきっと嘘じゃない。

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