14.本能

 我ながら世間を知らない子供だったのだろうとは思う。

 しかし家庭と学校という居場所しかない子供が、唯一のものに依存してしまうのは仕方のないことだと理解はしている。頭で理解をしていても、十年近く経とうとしている今も身体は理解をしてくれない。


『好きです。付き合ってください』

 真正面からの告白はこれが初めてだった。高校二年生の夏。樹は自分の性別をひた隠しにするため、目立つこともせず、挨拶を交わす知人以外は作っていなかった。

 だから彼女の名前はすぐに出てこなかった。女子生徒に告白をしてくるくらいなのだろうから、彼女はアルファなのだろう。

『私、話したこともないし』

 その通り。同じクラスであったけれど、挨拶以外したこともない。

『私たち、去年も同じクラスだったの覚えてる?』

『覚えてるけど……』

 それですら話したことがない。

『入学式でひと目見た時から市川さんのこと気になってて』

 フェロモンは薬で抑えていたはず。病弱という体にして、怪しい時期は休みをもらっていたはずだし、他人との距離が近くなる行事も欠席をしている。

『あの、すぐ付き合うじゃなくてもいいから……まず友達になって私のこと知ってほしいな』

 自分を押し殺して生きてきたこともあり、温かな言葉を無下にはできず、樹は一度まっさらにした電話帳に彼女を登録した。

『私のどこを好きになったの?』

『顔かな』

 正直に答える彼女を見て思わず呆れて笑ってしまう。

『笑った顔初めて見たかも』

『それなのに好きになったなんて』

――本当バカみたい。


 彼女の策略なのか、表向きは根暗なクラスメートと一緒にいるところを見られたくなかったのか、馴れ馴れしく彼女が樹のもとへ寄ってこなかった。

 話しかけてくるのは放課後と、週に一度一緒に食べるお昼の時間くらい。

『毎週抜け出してきて平気なの?』

『平気平気。私って成績いいじゃん? 週に一度は勉強しながら食べるってことにしてる』

『さすが学年トップ』

『私より理数系の成績いいくせにー』

 そんなことないと謙遜はするものの、当たり前だとも思う。

『悔しいならちゃんと昼休み勉強すれば?』

 樹の手元にあるのは生物の一問一答問題集だ。

『今は市川さんについて勉強しているから』

 母親お手製の卵焼きを頬張りながら、

『成績は理数系科目を筆頭に優秀。体育の授業はあまり出てこないけど、スポーツテストの成績はこれまた上位。甘いものが好き。わりと眠たそうにしているけどコーヒーは苦手で飲めない』

『そんなもんでしょ』

『だって市川さんが教えてくれないんだもの』

『……一人で勉強するのが好き、も加えといて』

『えー私が邪魔ってこと?』

 お弁当箱を一度窓の縁に置き、樹の隣に座り込む。

『そうそう。最近もう一つ学んだよ』

『なに?』

 横を向くと照れてしまうため、問題集から顔は上げない。

『市川さんっていい匂いがする』

『!?』

『あはは。顔真っ赤だよ』

『変なこと言うからだよ!』

『だって事実だし』

 彼女の手が伸びてきて、樹の熱い頬に触れる。

『熱いね』

『そっちだって手熱いよ』

『……だって市川さんのこと好きなんだもの』

 彼女の姿が少しだけ赤みを帯びた栗色の瞳に映った。

『私と付き合って?』


 彼女の誘いを受けてからもあまり関係は変わらなかった、と思う。女子同士は距離が近いのは、アルファとかオメガとか関係なく当たり前の光景だ。そして彼女は絶妙に距離を詰めてくるおかげで、周りとの関わりを持たないようにしてきた樹の感覚も狂わせていく。

『ねぇ、樹はプリクラとか撮ったことあるの?』

『ないよ。私に友達いないこと知っているよね』

『樹に友達たくさんいても妬いちゃうからいいけどねー。じゃあさ、これから撮りに行こ』

 ゲーセンに行ったこともないなと過ぎた過去を思い出す。

『ゲーセンって人たくさんいない?』

『うーん。樹は人混み嫌いだもんね』

 それでも彼女は樹の腕を引く。

 彼女の手から伝わる熱が直接血液に流れてきて心臓の動きを加速させる。

『ごめん。やっぱやめとく』

 笑顔ではなくとも平静で。呼吸を抑えて。

『どうしたの? 具合悪い?』

 彼女が歩を止めるから、止まらざるを得なくなって、急に冷や汗が出た。こんなところで、彼女の前で薬を出すなんてできない。

『樹……?』

 彼女は十七年の人生の中でオメガに出会ったことがあるのだろうか。

『間違っていたらごめん』

 何かとすぐ手を伸ばしてくるくせに、今樹の頬を撫でるのは湿気を多分に含んだ温かい風だ。

『樹ってさ、オメガなの?』

『……そうだよ』

 また隠せなかった。

『薬持ってる? 飲み薬? お水はある?』

――高校は知り合いのいないところ選んだのに。勉強もしていたのに。こんなことで……こんなこともできなかったんだ、私は。

『ちょっと、鞄の中身見るからね』

――何で私がオメガに……。

『とりあえず一錠でいい?』

 薬を無理矢理渡してきた指先の冷たさで我に返った。

『大丈夫。誰にも言わないよ』

 ペットボトルの水はとっくにぬるくなっていた。

『二人だけの秘密だよ』

 まるでドラマの中の台詞だなって思ったのを、大人になっても覚えている。


『樹』

 彼女との距離は変わらない。

『ちょっと抜け出しちゃおうよ』

 ただ彼女は自分の恋人を人目に晒すのを避けるようになった。

 夏の終わり。文化祭の準備で人がごった返しているからか、恋人の返事を待たずにこの時期は人の出入りがない図書室に逃げ込んだ。

『行事今まで参加してなかったのに大丈夫なの?』

『……この前ヒート終わったから。準備だけは参加しようと思って』

『でも無理しないでね』

 彼女が何を心配しているのかはよく分からなかった。お気に入りの子が誰かに取られてしまうのが嫌なのか、本当に樹の身を案じているのか。はたまた別に理由があるのか。

『私がオメガって分かって嫌じゃないの?』

 迫害されるのは慣れないけれど、立場は身に沁みていた。母の涙も忘れはしない。

『嫌とかないよ。樹だから惚れたんだよ』

『顔が好きとか言ってたくせに』

『顔って大事だよ?』

『じゃあさ、私がオメガじゃなくても私の顔を好きになった?』

『なるよ。すっごい樹は可愛いもの』

『……もし君がアルファじゃなかったら? それでも私のことを恋愛的な意味で好きになった?』

 難しいねと前置きはしつつも、

『ずっとこの身体で生きてきたから。私にとっては誰でも恋愛対象なんだよね』

 ベータで女であったなら、オメガで女の樹とは子供を作ることができない。

『けど。私は樹に会う人生ならば、絶対にその顔に惚れて告白して、それで仲良くなって恋人になってほしいと思うよ』

『やっぱり顔じゃん』

『外見はきっかけだからね。樹が可愛かったのがきっかけで、私は樹という人間に興味を持てて、それで樹の中身を知ることができたんだもの』

『確かに。ってことは私がブサイクだったら何も起きなかったんだ』

『ブサイクであっても樹のことは好きだけど、きっと好きということを知るのはできなかったねー』

 やっぱり難しいと言って彼女は笑った。

『樹は私のことを好きなの? あんまり言ってくれないけどさー』

 冷たい机に顎を置いて見つめてくる彼女のことは可愛いと思うし、愛おしいと思う。

『好き、だよ』

『なーんで声震えるのさ』

『いやだって……恥ずかしいじゃん』

『そうゆうとこも可愛いよね』

 そして私たちは初めて唇を重ねた。シャンプーの匂いがほのかに届く頃に離れた顔が珍しく赤くなる。

『生まれて初めてした』

 そんな風にドキドキする彼女に後ろめたさを感じる。

――ごめん。

 生きてきた世界も見てきた景色も彼女とは違う。今こうして同じ座標にいたって、二人の見ているものは違うのだ。


 確かに彼女のことが好きだった。いつも手を引いて前を走る彼女が眩しくて、恋しかった。気持ちに嘘がないのはお互いに承知の事実だったが、結果的に付き合いは終わりを迎えた。

 受験という言葉が飛び交い始めた頃、ヒートをきっかけにしたものであったけれど二つの身体は重なり合った。何かがあっならなんて考える余裕もないくらい愛していたんだろう。

 しかし番にはなれなかった。そして一度線を越えてしまったのが悪かったのか、顔を合わせるたびに彼女は樹を求めた。誘いを断れば冷たい言葉が返ってきた。

『やっぱり違ったみたいだね』

 彼女はそれでも優しかった。樹のことを周囲には言わなかった。

 進路は彼女と違う方向を選んだから三年時のクラスは遠くなり、以降一度も話していない。

『市川さん』

 樹の生活は大人しいものに戻るはずだったのに、周りの視線が刺さることが増えてしまい、受験生という言い訳を最大限に活用して学校は休める限り休んだ。

『市川、体調の方はどうだ?』

 なぜか既婚者である担任の声すら不快になって、薬も増えてしまった。


 この先、自分は一人で生きていくのだろうか。

 社会に出られたとしても、薬を増やし続けて順応しているふりをしなければならないのだろうか。


『やっぱり違ったみたいだね』


 その通りだ。あれは夏の暑さにやられて、生理的欲求を淡い恋心と誤認していただけ。アルファとオメガが出会ってしまっただけのこと。

――私は誰も好きになれないし、誰にも好きになってもらえない。

 樹が瑠衣のことを好きと思っているのも、瑠衣とシャーロットが樹のことを好きと思っているのも、全部性別によるまやかしだ。

 相思相愛なんて建前で、瑠衣と添い遂げたとしてもきっと――


「違うんだ。これは」

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