13.拒絶
「おはようございます」
いつも以上に早い出勤。もちろん執務室には誰もおらず、挨拶は返ってこない。電気をつけ、空調を入れ、パソコンを起動させている間に諸々の鍵を開ける。
念のために薬を多めに摂取したせいか調子がいい。
しかし二日も休んでしまったパソコンは調子が悪いようで、メールの読み込みに時間がかかっている。システムも起動しながら本日分の件数と滞留分の件数を確認しようとしたら、
「あれ?」
システム上表示されているのは全て当日分だけで、昨日までのものはなにもない。
――瑠衣さん……。
彼女が何時まで業務をしていたのかは分からないが、さすが樹が尊敬する上司だ。今日は日付が変わるくらいまで仕事をする気でいたが、肩の荷が少し下りた。
――でもつまり私がいなくても世の中は回る的なあれだわ。
「おはようございます!!」
始業まで時間がある中、まるで小学生のような元気さで出勤してきたのは名前をわざわざ出さなくとも分かる彼女だ。
「元気になったんですね! よかったよかった。あ、それともわたしのために来てくれたとかそんな感じですか?」
「おはよう。昨日一昨日の引き継ぎあるなら教えてくれる?」
「冷たい! 樹さん、冷たい!」
馴れ馴れしく伸ばされた手を叩き、身体をパソコンに戻す。
「樹さんの手あったかいですね」
「仕事する気がないなら、九時になるまで休憩室にいなさいよ」
「しますします。まだ樹さんに無理させられないですからね」
シャーロットは上機嫌で席に戻っていく。
「ねー樹さん」
立ち上げ途中のパソコンの前で椅子をぐるぐるさせながら、
「今日早く終えられたら、わたしとご飯行きませんか?」
「病み上がりの人を誘う?」
「樹さんの家でいいですよ」
「普通に嫌」
「昨日の松戸さんの話聞きたくないですか?」
「……早く終わったらね」
「はい♪」
明日はどうせ休日出勤だ。そこまで早く出社しなくても問題ないだろう。満足そうな金髪が視界の片隅でまだ動いている。
――むかつく。
年下に翻弄されるのも、身体が熱を持つのも、好きな人のことを他人から聞くのも、全てに苛立ちを覚える。
目の前にある仕事が全てなくなればいい。いつもより強くデリートキーを押して溜まっていたメールを削除した。
終わりを明確にするのであれば、きっとそれがくることはない。だから当日中にしておけば問題ないラインで切り上げる。今日も明日できることは明日にして、まるで仕事終わりには見えない元気な後輩を家に連れて帰った。
どこか適当な店に入ろうと思ったが、樹の身体が人混みを避けた。
「ここが樹さんの家かー!」
玄関を上がるなり、友達の家に来るよりも図々しくうろつこうとするシャーロットをリビングのソファに座らせる。
途中スーパーで買ってきた夕飯をテーブルに並べ、お湯を沸かすためにキッチンに立つ。
「寝室見てもいいですか?」
「よくない。あなたがいていいのはソファの上だけ」
「ソファで寝たら風邪ひきますよ?」
「寝る前に帰りなさい」
何も期待なんてしていない。楽にはなりたいけど、甘えたくない。
「緑茶飲めるの?」
「飲めますよ。日本人ですからね」
「別に見た目で聞いたわけじゃないけど」
日本人だって苦い飲み物がダメな人はいる。
「これあっためた方がいいですよね」
「だからソファにいていいってば」
冷えかけた唐揚げを持ってキッチンにやってくる。
「ふふ、樹さんと一緒に台所立てた♪」
「じゃあ後はよろしく」
逃げるようにして樹がリビングに戻る。ごまかすようにテレビをつけ、興味もないバラエティーを流す。
「まぁ好きな人のために台所に立つってのも悪くないですけど」
「……」
好意を示される度に眉間にしわが寄る。
「昨日は何時まで仕事していたの?」
「うーんと、わたしは九時半くらいです。松戸さんはもっといたみたいですね」
「やっぱり瑠衣さんが片付けてくれたんだ……」
「そんな落ち込まなくても。樹さんが有給取っただけで、仕事が回らなくなるくらい人員不足にしたままにする会社がいけないんですよ」
「それはそうだけど。瑠衣さんに頼るのはなんか違う」
「わたしを頼ってくださっていいんですよ!」
「やー」
「なんですか、それ」
唐揚げを温め、お茶まで淹れてくれたシャーロットがソファに戻ってくる。隣りに座る気分でもないので、樹はカーペットの上だ。
「樹さんって松戸さんのこと好きですよね」
サラダに乗っていたミニトマトを長い指でつまみながら、他人の心に土足で上がり込んでくる。今更隠すようなことでもないので、
「好きだよ。悪い?」
「わたしにとってはいいことじゃないですよー。けど、わたしじゃダメですか?」
「シャロがダメとかじゃないよ。瑠衣さんがいいの」
「エッチしないのに?」
「……」
唐揚げの衣が床に落ちる。
「樹さんも松戸さんもわたしとはヤるのに」
「……は? 瑠衣さんとヤったの?」
「? 聞いてなかったんですか?」
「……」
自分も同じことをしている身なので瑠衣を責めるつもりはないが、理由とか考えるとモヤモヤとする。
――やっぱり私がこんなんだから……。
「正直わたしは樹さんと一緒にいられればいいんですけど」
シャーロットにしては珍しく一呼吸置いてから、
「でもやっぱお二人が微妙な関係のままいられると嫌なんですよね」
「あなたには関係ないでしょ?」
「関係なくはないですよ。樹さんのこと好きなんですから」
「……」
「ヒートの時だって、わたしを呼んでくれれば楽にしてあげられたのに。わたしならできるのに」
「そんなの薬と一緒じゃない」
「服用しているうちに番になれるかもしれないじゃないですか」
「それでシャロはいいわけ?」
「いいですよ。いつかわたしになびいてくれるなら」
後ろから長くて真っ白な腕が、樹の肩と首に巻きついてくる。
「楽になりましょうよ」
耳元に落ちてきた声と共に、瑠衣の顔が浮かぶ。
「……ごめん。私はシャロのこと好きになれないよ」
「今は好きにならなくていいですよ。時間をかければ番になれ、」
「ならないよ。私は。誰とも」
「……」
巻かれていた腕が熱と共に離れていく。
「何でそんなこと言うんですか?」
「事実だからだよ」
揺れるお茶の表面に視線を向けながら、
「私は誰とも番になれない」
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