10.ヒート

 あれは、予定日通りにきた。

「はぁ……無理……薬効かないじゃん」

 息を荒らしながら、樹は空になった注射器を睨む。おそらく薬は薬で仕事をしているはずだ。症状がそれを上回っているだけで、発情期――ヒート時期のいつものこと。

 学生の頃は生理と同じくヒートの時期も大分疎らであったが、今となってはほぼ三ヶ月でくるようになった。ただ症状の重たさは変わらないばかりか、最近はひどくなっているようにも見受けられる。どうやら本能的に相手を求めるようで、二十代から三十過ぎはフェロモンの放出が活発になる、と本に書いてあった。

 顔を洗って鏡を見るとひどいものが映っている。ボサボサの髪や青い顔はもちろんだけど、栗色の瞳は真紅に変色している。仕事先ではカラーコンタクトをつけているし、この色は久しぶりに見たかもしれない。

 ルビーのような色と言えば聞こえはいいかもしれないが、この色を化物呼ばわりする人も多い。

「ほんとふざけんな」

 この時くらいしか使わない有給を使ったものの、仕事も気がかりでイライラが募る。投げやりにベッドに顔を埋めるが蒸し暑いだけだ。

 心臓の動きが活発になっているのか息が乱れて、嫌な汗が出てくる。行儀はよくないだろうなと思いつつも自分の家だからと割りきって、パンツ以外のものは脱ぎ捨てた。

 暑い。熱い。身体が火照る。

 バスタオルを用意することも忘れ、ただ夢中でシャワーを頭から浴びせていく。冷たすぎる温度に耐えかねて、やっと浴室を出た時も表面だけが冷たくて、内側の熱さは変わらなかった。

「タオル……」

 バスタオルを濡れた身体で取りに行くのも嫌で、へたりと空気の悪い脱衣所で座り込んでしまう。

――明日もこの調子だとダメそうだし、連休にしといてよかった……。

 少しだけ落ち着いた時、やっと樹は家の中で何かが動いている気配を感じた。

――誰かいる?

 床をスリッパで歩く音がする。お隣さんの音ではない。

「だ、」

 誰と一人言を溢そうとしたところで扉が開き、予期せぬ出来事のあまりに歳に合わない悲鳴が出てしまった。

「もうびっくりした、ここにいたの」

 来客は唯一合鍵を持っている瑠衣だった。

「ってびしょ濡れじゃない。タオル持ってくるから浴室にいなさい」

 柔軟剤を入れ忘れて少しゴワゴワするバスタオルで温くなった水気を拭き取る。拭き取ってもじわじわ汗が出てくるので、このままタオルにくるまりながらここにいたい。

「休み取ったって聞いたからまさかと思ったけど、やっぱりヒート?」

「……そうゆうわけなので、申し訳ないのですがお引き取りいただいてもいいですか?」

「えー。明日イチの代わりにそっちへ出社しなきゃならないから、泊めてよ」

 磨りガラスの向こうから一息置いて「それに」と続く。

「大丈夫。なんもしないから」

「……」

「キスはするかもしれないけどね」

 自分のことしか考えられておらず、今になっていつもクールな上司が顔を赤らめて、目を背けていることに気づいた。これもきっと、ただアルファがオメガのフェロモンに当てられているだけなのだと思うと胸が痛む。

「薬は?」

 来る途中に買ってきた水をグラスに注ぎ、ローテーブルに置く。

「飲んだし、打ちました」

 あとは心を慰めるために、葉巻タイプの薬に火をつける。

 一度ゆっくり吸って吐いてから、

「それでもこんな有り様ですけどね」

 バスタオル一枚でソファの隅に座る自分を自虐的に笑うしかできない。惨めで仕方ない。

「イチは悪くないんだから、そんなに思い詰めなくていいでしょ」

「……」

 しかし目の前で我慢をしている意中の相手を思うと申し訳なくなる。自分がこんな体質で生まれなければ、辛い思いをさせることなかったはずなのだ。

「もう休みなよ。あたしはソファ借りるから、ベッドで横に……」

 気を使った瑠衣の手が樹に差し出されようとして止まる。

――手を掴んだら、終わっちゃうのかな。

「私はベッドじゃなくて大丈夫なので、瑠衣さんが使ってください」

 熱くて息が詰まりそうだ。

「このまま一緒にいるのも、お互い辛いですし」

「……ごめんね」

「何で瑠衣さんが謝るんですか。悪いのは全部私ですから」

「そうゆうことじゃなくて」

 一度止まったはずの手が勢いよく伸びてくる。

 バスタオル越しに樹と同じくらい熱を持った肌を感じる。

「瑠衣さん」

 思ったより冷たい声が出た。

「……しないよ。しないけど」

 瑠衣の息が荒い。首元にかかる吐息が熱い。

「近くにいたい」

「……私も、瑠衣さんといたいです」

 安心するけど心を乱してくる匂いと体温。

 しばらくの間心臓の高鳴りも我慢しながら、服の袖を掴んだままでいた。限界がきそうなタイミングで、一回だけ、でもいつもよりちょっと長いキスをした。

「お言葉に甘えてベッド借りるわね」

 名残惜しそうに立ち上がって瑠衣は部屋を出て行く。

 ドアを閉める直前に、

「あまりにも辛かったら佐倉さんを呼んでも構わないから」

と言葉だけを残して。

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