6.代理

 金曜日のことなど忘れて、いつも通り始業の一時間前に出社をする。平常心だ。

「うわっ」

 思わず誰もいない空間で言葉が出てしまうくらい驚いた。いつも始業ギリギリに出社するシャーロットがロッカー室の前で寝ていた。基本的に鍵を開けるのは樹の役目なので、彼女より早く来ても中には入れない。

 大きな身体で小学生のように体育座りをしている大人を起こそうと肩を揺する。

「みっともないからこんなところで寝ないで」

「んん……? ぁ、樹さん。おはようございます」

 堂々とあくびをしてから立ち上がる。一気に身長を抜かれ、通常通り上から見下ろされる。

「何でいるの?」

「何でって、今日は月曜日ですよ?」

「知っているわ。何であなたがこんなにも早く出社しているのか疑問なの」

 ロッカー室の鍵を開ける。

「樹さんいるかなーって」

「そりゃいるわよ」

 自身のロッカーに上着と荷物をしまう。電子機器の類いも執務室内には持ち込めないため、メッセージの有無だけ確認してスマホは機内モードにした。

「で? なんか用があったの?」

「金曜日、わたしのために早く帰ってくれたみたいですし、お手伝いしようかなぁって思いまして」

 なぜか細い腕で力こぶアピールをしてくる。

「力仕事ないし。それに金曜の分は土曜に終わらせたから」

「えぇ!?」

「ということだからもう少し寝てたら? 早朝手当てはつかないしね」

「でも樹さん出るんでしょう?」

「私は準備があるから」

 樹がロッカー室を出ようとしても、まだシャーロットは食い下がろうとする。まるでおもちゃの前で駄々をこねる子供のようでどうにも扱いづらい。

「権限の問題もあるし、あなたにはできることとできないことがあるでしょ。だから今来てもらってもやることはないの」

「お茶出し……」

「残念ながら、うちは蓋つきカップ以外持ち込み禁止なんでいりません」

 これ以上やり取りをしても時間の無駄だと判断し、樹は執務室へと逃げるようにして向かう。途中後ろをちらりと振り返ったが後輩は追いかけて来なかった。

 いつもの通り誰もいない薄暗い部屋。電気のスイッチを一つ一つ入れる動作も日常化したものだ。

「しまった……」

 やっと自分の席に到着したところで、土曜の帰りにモニターをオフにするのを忘れていたことに気がついた。これで始末書を書かなければならないなんてことはなくとも、いつも部下たちに消してと言っている反面ショックは大きい。

――絶対気ぃ緩んでいたよね……。しっかりしなきゃ。

 瑠衣のいたずらっ子のような笑顔を浮かべつつ、溜め息をついた。

「樹さん!!!」

 溜め息が長くなった理由は、途中で誰かが走ってくる音が聞こえたからだ。長い足だからすぐ分かる。

「走らない」

「早歩きですよ?」

「あんた走ったらどんだけのタイム出せるのよ」

「運動得意ですよ? 短距離でも長距離でも、なんでも任せてください!」

「生憎うちには運動会はないの」

 背後霊のように――金髪美女だけど――シャーロットはぴたりと樹の椅子にしがみついている。重たい。

「何しに来たの」

「暇だったんで、せめて応援にと思いまして」

「あいにく応援団は募集していなくてね」

「そんなー」

 あまりがっかりそうな声色ではない。椅子をガタガタと揺らして、かまってくださいアピールを繰り返す。

「分かった、分かったから。とりあえず自分の席について?」

「はーい。でもわたしの席からじゃ、樹さんのこと見えないですよ」

「見える必要ないでしょ」

「ある!」

 『ようこそ』のメッセージがモニターから消え、慣れ親しんだデスクトップが表示される。壁紙は無地であるのに、その上にはアイコンがほとんど置かれていない。机上とは大違いだ。

 システムを起動させている間にメールをチェックする。土曜日にも確認はしているため特に未読数は増えていない。

 システムがいくつか立ち上がったらいつものように、と操作しようとした矢先に樹の内線が鳴り響く。後ろから聞こえた大袈裟に驚いた声は無視する。

「おはようございます。市川です」

 内線番号から相手を先に判断し、無機質な声で答える。

「今日ですか? そんなこと当日の朝、しかも始業前に言われても困ります。いつ判明したんですか、それ」

 相手は自分より二周り近く年上の男性だが怯むことはない。いきなり今日本社で会議をやるから来てくれと言われてもイエスとは言えない。

「……とにかく、今日は無理です。私もこちらで会議入っていますから。……私以外でいいなら参加させますけど」

 後ろを向くときょとんとした青い瞳がこちらを向いていた。

「はい。分かりました。うちの佐倉を向かわせます。失礼します」

 気持ち乱暴に受話器を下ろす。

「わたし?」

 シャーロットがすぐに口を開いてくれたおかげで舌打ちはせずにすんだ。

「本社で会議をやるんだって。うちの現場で起きたことじゃないんだけど、早めに周知させたいらしくてね。悪いんだけど、すぐに向かってくれる?」

「わたしでいいんですか? まだ二年そこらのひよっこですよ?」

「でかいひよこね。大丈夫、向こうで資料は用意されるから、話されたことをきちんとメモ取ってくればいい」

 腕時計で現在時刻を確認してから、

「その会議は何時からなんでしょうか」

「十時。だから出る支度早くして」

「始業時間から考えたら、全然時間ないじゃですか」

「そうね。うちの会社のクズなところでしょうね」

 先程よりも慌ただしく手元の書類をめくる樹。たとえ二年目でも月曜日にいきなり抜けられるのはきつい。一日のスケジュールをある程度組み直す必要がある。

「本社行ったら案内してもらえるはずだから」

 シャーロットがパソコンをシャットダウンしたことを確認してから、追い出すようにして執務室の入口まで見送る。

「着いた時と終わった時に一応連絡してね」

 なんの会議かも分からず放り出されて不安もあったが、まぁなんとかなる!とすぐに切り替えられるところがシャーロットの強みだ。


 通勤ラッシュの遅延もあって、本社に到着したのは会議の開始二十分前だった。

 彼女が本社に訪れたのは入社当時だけなので、一年以上ぶりの訪問である。丸ノ内にある本社ビルは小綺麗で、行き交う人たちも少し輝いて見える。

「あら、佐倉さん」

 一度樹に連絡を入れてから受付に向かうと、かすかに聞き覚えのある声で呼び止められた。

「……えっと、松戸さん?」

「正解」

 シャーロットを見つけて歩み寄ってきたのは、去年少しの間だけ同じ部署にいた松戸瑠衣だった。

「相変わらず大きいわね」

 下からまじまじと見上げてくる彼女も、日本人としては長身の部類に入る。

「イチ、……カワに言われて来たんでしょ」

 彼女が樹のことをあだ名で呼んでいるのは知っていたので、別に気を使わなくていいのにと思ったが、これがきっと社会人なのだと勝手に納得をする。

「会議室はこっち。着いてきて」

「松戸さんが案内係なんですか?」

「そんなわけないでしょ。あの子に頼まれたから来ただけ」

「樹さん?」

 一瞬だけ瑠衣の動きが止まった気がした。

「そうよ」

 本社内は人が慌ただしく動き回っており、無知なシャーロットでもなにかあったのだろうことだけは分かる。会議室には瑠衣と一緒に入室をし、隣に座らされた。

 シャーロットが席に座るなり、周りの目が一斉に集まる。

――目立つかなー。

 自分の服装を気にする彼女だが、目立っているのは生まれ持った容姿だ。

「佐倉さん、だよね? 市川さんの代わりの」

「ぁ、はい。そうです」

「じゃあこれで集まったか。少し早いですが始めます」

 見たことはけど名前までは覚えていない初老の男が話を始める。とりあえず何を聞かれても大丈夫なようにと必死に細かくメモを取るシャーロットとを横目に、瑠衣は眠たそうな目を開けることだけに集中している。

 二時間近くも使った会議の内容は、まとめてしまえば数行で終わるものだった。

 とある部署が大事な書類を誤発送し、その対応と、各部署で再発が起こらないように対策(要はチェックの強化)を立てるといったものだった。そんなこと大体的に全部署で集まらなくてもいいのにと不服だったか、

「こういうのはね、ちゃんと話し合いをしたという事実だけが大事なの」

と会議後に、こっそり瑠衣が教えてくれた。

 もちろん話したこともあり、業務も何度か助けてもらったことがある瑠衣だが、同じ現場にいた期間も短く、なおかつシャーロットは新入社員研修期間中で面識はあまりないと思っている。

 そして大好きな上司に電話を掛けようと廊下に出ても、彼女も連れ添ってくるのだ。怪訝そうな顔をしていたのだろう。「どうぞ、好きに電話して」と急かされた。

「樹さん、お疲れ様です」

 挨拶をして一言目には「名字で呼びなさい」といつもの通り怒られた。それも挨拶の一環だとシャーロットは考えているので、そのまま続ける。

「今終わりました。内容は……えっと」

『そんなん後で聞くから。別にうちはあまり関係ないでしょ?』

「そうですね……」

 会議内で出てきた苦し紛れの対策も、きちんとしているところならばあたり前に取り組んでいることだった。

 樹は忙しいのか電話を切りたそうだが、シャーロットはもう少し話をしたい。電話なんて滅多にしないから。公私混同上等である。

「借りるよ」

 スッと後ろから白色のジャケット袖が現れて、気づけばシャーロットの電話は瑠衣の耳の横にあった。

「おはよう、イチ。ごめんね、急にくっだらない会議なんて入っちゃって」

 電話先の声は言葉となってまで聞こえない。ただ届く音は自分の時よりも遥かに弾んでいることが分かる。

 胸の辺りがもやもやして、ほとんど知らない目の前の人間のことを少し疎ましく思う。

「じゃあ連れて行って平気よね?」

 急に自分に関わりがありそうな台詞が聞こえてきて顔をしっかり上げる。瑠衣がこちらを見て、明らかな営業スマイルを浮かべていた。好意はあまり感じられないけれど、顔立ちがいいせいで攻撃的には見えない。

「今度ね。また連絡する」

 電話は瑠衣の方から切った。

――いつも連絡取っているのかな……。

「はい。ありがとう」

 彼女の表情はとても読みにくい。短く答えて、さっさと帰ろうとするが、

「行きましょうか」

 約束した覚えのない誘いを受けた。

「どこにですか?」

「うーん、面談的な?」

 冗談だとすぐ分からないような笑い方をされたら断りようがなく、詳しいことを何も話してくれない瑠衣に不服そうな顔でついていくしかなかった。

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