4.好きな人
コンビニで替えの下着とストッキングを購入し、平日とは違い人気のまったくないトイレで着替えてから出社をした。
――また替えの服をロッカーに用意しとこ。
悔しいくらいに身体のだるさはなく、休日出勤だと言うのに清々しい。
昨晩は多過ぎて終わるのかと思っていた仕事の山も、今ではとても低く見える。
「さっさと終わらせて、買い物して帰ろ」
誰もいない社内で一度伸びをしてからパソコンと向かい合う。
樹の動かすマウスとキーボードの音だけが部屋に響く。誰からも話しかけられず、ただひたすら自分の案件にだけ向き合えるのは気楽だ。
「ここの資料足りない……」
ただ土日だとどうしてもできないこともあり、平日やったものに抜けがあると先に進めないものもある。それに当たると一気に樹のモチベーションは削がれ、乱暴にチョコレートを口の中に放り込んだ。
「さっきもなかったじゃん……。何を見ているの」
愚痴が自然と口からこぼれる。
思わぬところで何度も足止めをくらっていると、土曜日には鳴らないはずの固定電話がいきなり鳴り響いた。
「!? 誰?」
電話番号を見ると本社からだ。向こうでも休日に出勤している働き者がいるらしい。
「……はい、市川です」
『お、いたいた。お疲れさま』
「瑠衣さん? お疲れ様です、どうしたんですか」
声を聞いてすぐ分かった。樹よりも高いはずなのに、可愛らしさがあまり伝わってこないこの声は、少し前までこの職場で樹の上司をしていた松戸瑠衣だ。
『ちょっと用事があったから出社していたんだけど、あなたも出ているって聞いたから。もし時間が合いそうなら、どう?』
願ってもない誘いだった。
思わず席から立ち上がりながら、
「行きます! 時間も合わせます! 何時にどこへ行けばいいですか?」
『そうねぇ。迎えに行くから、また連絡する。目安二時間後で』
会社の固定電話で完全プライベートな会話を終え、樹は先程の怒りなどなかったかのように一人笑顔で軽快にキーボードを叩く。
――いつぶりかなー。
お互い忙しい身であまり会えなかったため、嬉しさは倍増している。
作業効率も一気にアップし、樹は瑠衣からの連絡がくる前に仕事を全て片付けた。
夕飯には少し早いくらいの時間。少し肌寒い。
ビルの一階ホールにあるソファでスマホを握り締めていると、
「イチ」
懐かしい声が樹を迎えに来た。
シャーロットほどではないが長身、色白でモデルのように綺麗な女性。明るく染めた髪色だけが社会人からかけ離れている。
「あれ? 土曜日なのにその格好って、まさか泊まったの?」
「……昨日ちょっと疲れていて、近くのホテルに泊まったんですよ」
「そしたら今日じゃない方がよかった?」
読み取りづらい表情で瑠衣は聞く。
「まさか。瑠衣さんに会えるならいつでもウェルカムです」
遠慮なく、でもシャーロットが樹にするよりは謙虚に、瑠衣の腕にいつものように自分の腕を絡めた。瑠衣はそれを除け者にすることなく、自分の腕をそのまま預けて、
「夕飯の前に買い物行きたいんだけどいい?」
「いいですよ、何買うんですか?」
「服」
見るからに仲のいい二人の左耳には、おそろいのピアスがついていた。
「これとかどう?」
「瑠衣さんには少し小さくないですか? ワンサイズ大きいものの方が……」
駅前のビルに入っている店ではなく、初見では少し入りづらい人の少ないブティック店で物色をする瑠衣は楽しそうだ。
「イチってそんな成長してなくない?」
「え?」
「せっかくなのに、昨日のままってのも嫌でしょ? 仕事じゃないのに」
薄手の服を何着か持ったまま、樹の背中を押す。
「ほら、試着は無料なんだから」
「ま、待って。私べつに」
「あたしが見たいんだからいいでしょう。着替えられないなら手伝うけど」
――コンビニで買った下着とか見せられるわけないじゃん。
「自分で着替えられます!!」
服を奪い取って、試着室の鍵を閉める。
――このお店も瑠衣さんが昔紹介してくれたんだよね。
オメガにとっては好みの服があるかどうかより、人が少ない、店員がむやみに近づいてこない、試着スペースが完全に独立していることがポイントとなる。もちろんそんなに都合のいい店がいくつもあるわけではなく、買い物のほとんどはネット通販になる。
――これウエスト緩いし、ゴムかな。ベルト通しついてない……。
痩せ型の樹は服のサイズが合わないことも多いので、こうして試着ができるのはありがたい。
「イチー。どう?」
「ウエストが緩いですね。ぶかぶか」
「本当。パンツ見えちゃうわね」
「!? え、見えてます!?」
――コンビニで買ったやつ!
「扉があるから見えてないけど、見せてくれるならぜひ」
「見せません」
「残念。それなら次これね。扉の横に置いておくから」
瑠衣が楽しそうに服を選んでくるから、いくら乗り気でなかったとはいえ、
「どう、ですか?」
「いいね。でもトップスはこっちにしましょうか」
――こんな風に買い物できるなんて思ってなかったな。
「店員さん、今着ているやつ一式ください。このまま行くんでタグ切ってもらって、あと袋もらえます?」
「えっ!?」
「支払いはカードで」
レジに行く瑠衣を追いかけようとしたが、店員がハサミを持って近づいてきたので立ち止まって、誤って切られないように胸元に手を置くことしかできない。
「私が払いますよ。お祝いでもなんでもないですし」
樹もいくら年上で職位も上とは言え、三つしか変わらない相手に貢がれるのは気が引ける。
「あたしが無理矢理買ったからいいの。デートするのに仕事着は嫌でしょう」
「それならせめてもう少し襟の詰まっているものを……」
「あたしなら大丈夫だから」
ぽんっと栗色の柔らかい髪を撫でる。瑠衣の顔が少し赤く見えたのは夕日のせいだろうか。
「帰りも送るし」
「またそうやって甘やかすんですね」
「危なっかしいからね、イチは」
二人が夕飯を食べるために訪れたのは、昨日樹がシャーロットと時間を共にしたバーだ。しかし二人が向かい合って座ったのとは違い、同じ個室でも樹と瑠衣は肩を並べてソファに腰を下ろした。
「ちょっとだけ飲む?」
「ここで飲んでもいいんですか?」
「薬があるならいいよ」
「じゃあ一杯だけ」
注文をしてから葉巻を取り出すと、「いい?」と言って瑠衣も葉巻を鞄から出した。こちらは正真正銘ニコチン入りのタバコだ。
「どうぞ」
本当は身体に悪いものを好んで摂取してほしくはない。でも、何度もやめるように言っても聞かない。
「いつものでいいの?」
「はい」
尊敬する先輩とこうして過ごすと、シャーロットをここに連れてきたのは間違いだったと思わされる。
「ケータイ鳴ってるよ」
テーブルに出していた樹のスマホが小さく震えている。ちらっと待受の通知を確認すると噂のシャーロットからのメッセージだった。ほとんどスタンプであるらしく、短い通知では内容が分からない。
この時間を邪魔されたくないため、バイブレーションを切ってカバンに投げ入れた。
「返事すればいいのに」
「多分大したことじゃないので、明日にします」
「明日に回したら忘れるでしょう」
「忘れたら困る相手ならすぐ返信するんで」
話を変えたくて、樹はグラスに口をつける。アルコールがすーっと口の中に広がる。昨日は結局お酒を飲めなかったし、身体に染み渡る。
「ねぇ、イチ」
「はい?」
まだ一口飲んだばかりだというのに、瑠衣が顔を寄せてくる。瑠衣の手が栗色の髪を耳にかけ、樹の横顔が露になる。
「どうしたんですか?」
「昨日誰と泊まったの?」
「なんの話ですか?」
薄い笑顔を浮かべて誤魔化す。
「無理矢理じゃなかった?」
「いや、だから何のことです?」
「誤魔化しても匂いで分かるよ」
わざとらしく樹の細い首の匂いを嗅ぐ。
「え!? 何で!?」
思わず狼狽すると、瑠衣は一度離れてから笑った。
「嘘だよ。でも女の勘は当たるわね」
怒る素振りも、悲しむ素振りもなく、彼女も一口グラスに口をつける。
「相手はアルファじゃなかったの?」
「……アルファでしたけど」
「けど?」
「私は瑠衣さん以外と番になる気はないんです」
「気持ちでなんとかなる問題かなぁ」
「なります」
あまりにも樹が真剣に返すので、瑠衣はまた笑った。
「何でそんなに笑うんですか」
「ムキになって子供だなって」
樹の頭を撫でる手つきは、子供をあやす時と変わらない。
細い指先から伝わる温もりが愛しくて、そして、苦しくなってくる。それは瑠衣も同じようで、
「あーやっぱりダメだね。ごめん」
と前置きをして、栗色の髪を撫でていた指先は細い顎まで下り、引かれるように唇を重ねた。樹の見た目通り薄い唇を、熱い瑠衣の舌が割って入る。
「んっ」
絡み合う舌の隙間を抜けて樹が声を漏らすと、意地悪そうに瑠衣が離れ、
「個室とは言え、お店なんだから。声を出しちゃダメでしょ」
今度は漏れる隙間を塞ぐようにして、きっちりと口と口を合わせる。
樹の腰に回した手が、そっと落ちそうになってから、瑠衣は樹を解放した。
「ごめん。これ以上はやばいから、薬打って」
「……」
返事をするのも違うなと思い、無言のまま鞄から注射器を取り出して、先程まで至近距離にいた女性に背を向ける。
立場を利用して――と考えたことならいくらでもある。今ここで打ったふりもできなくはない。
――好き……。
腕に針を刺し、慣れた手つきで中の液体を押し出していく。
「ごめんね」
後ろで瑠衣が手を伸ばすなりして途中で諦めたのを感じた。
「瑠衣さん」
今顔を見るのは辛くて、背中を向けたまま、
「私、ちゃんと瑠衣さんのことが好きですよ」
「うん。あたしもイチのこと好きだよ。だからまだイチとはシない」
「……私のせいでごめんなさい」
無理矢理笑って向き直る。少し困ったような先輩は、優しい笑顔を作って、熱くなった手を樹の小さな顔に乗せる。
「イチのせいじゃないよ」
子供をあやすようにぎゅっと抱き締めたまま、背中を軽く叩く。
好きな人の匂いだ、と思いながら今しばらくの間だけこのままでいることにした。
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