1.オメガ
昔は期待をされていた。しかし、ある時を境にそんなものはなくなった。どんなに努力をしようとも、結果を出そうとも、生まれながらのものは変えられない。
だから彼女は全てを隠してきた。努力で全てを。
市川樹は大学を卒業後、よくある民間企業に就職し、たった三年で社内至上最年少最速の主任という肩書を手に入れた。多くの時間を仕事に割いてきた。今でもその努力は継続されている。
今日も樹は最後まで残っていた。去年までは上に立つ人がいたが、人事異動に伴いなくなってしまったため、チーム長は樹が引き継ぐこととなった。
外見は年相応、もしくは少し下に見える華奢だけどスタイルのいい身体、綺麗な栗色の髪は毎日遅くまで残業している女性にはなかなかないものだ。
毎日の激務による疲れかストレスか。
「う……」
もう切り上げようかと考えていたところで、それはいきなりきた。
――あれ……。
髪が乱れるのも気にせずに頭を抱える。
――まだ、時期じゃ……。
手に持っていたボールペンが床に落ち、静かなフロアに音が響いた。
――ストレスのせいかな……。とりあえず薬を……って、予定日じゃないからロッカーに行かないとないんだよ……。
震えが起き始めている指でパソコンの電源を落とし、机に手を添えながらよれよれと立ち上がる。身体がとても熱くて重い。責任感だけが樹を動かし、なんとか戸締まりは終えた。
――もうみんなが帰っている時でよかった。
壁を伝いながらロッカー室まで身体を引きずる。
荒くなった呼吸を隠すことなく、荷物の中から注射器を取り出した。一応カモフラージュ目的の飲み薬もあるが、おそらく現状それだと効かない。
震える手で腕をまくったところで、
「あれ? 樹さん?」
突然誰もいないはずの空間に声がした。
「佐倉さんか……。何でここに?」
平静を装い、必死に目を反らす。忘れずに注射器も身体の裏側に回して隠す。
「もう! 仕事終わっているなら下の名前で呼んでくださいよね。本当は樹さんに会いに来たんです、って言いたいところですけど、実はスマホ忘れちゃって」
日本人離れした金髪の長身女性は樹の後輩――佐倉シャーロット。見た目と名前通り、彼女には外国人の血が半分流れている。
「そう」
足に力を入れて立ち上がり、とりあえず早急にお手洗いまで避難しようとする。このまま対面はまずい。
「樹さん?」
樹のふらついたところを慌ててシャーロットが支え、
「身体熱いですけど、大丈夫ですか……?」
徐々に彼女の声に不信感が募っていくのが分かる。
「ごめん!」
拒否するように、真っ白な腕を突き返した。
「あの、樹さん」
しかし腕は掴まれ、そのまま小休憩にも使えない硬いソファの上に押し倒された。条件反射で逃れようとするが、もう力が入らない。
――まずい。よくない。
バレたなと直感する。
「嘘でしょ……。樹さんが、オメガだなんて」
あり得ないと言いたいようだ。
「……違う」
間近にある青い瞳から必死に視線を逸らす。
「嘘ですよ。わたし、年の近い人にオメガいなかったけど、こんなにフェロモン出ていたら分かりますよ」
さらにシャーロットの手に力が込められる。
「離して」
「無理です」
ちょうど影になっているせいか、心なしかシャーロットも辛そうに見えた。
「いいから離しなさい。すぐに薬射つから……」
一瞬、見た目だけは大人びた後輩は迷いを見せた後、直属の上司の口を自分の口で塞いだ。
「そんな身体を傷つける薬より、ヤった方が楽になりますよ」
言い返されるより先に、再度シャーロットが樹の唇を奪う。
「んんっ!?」
樹の抵抗も一瞬だけ弱まったが、すぐに押し返そうとした。
しかしキスされたことが幸いしたのか、少しだけ発作が治まり、金髪美女に頭突きを食らわすことができた。
「強姦未遂だよ、これ」
額を押さえている後輩を尻目に、樹は急いで自分の腕に薬を流し込んだ。少し乱暴に針を刺したせいで腕がじんわりと痛む。
「……オメガの人のフェロモンが原因だったら、罪にはならないんですよ」
「それ以上言ったら、明日から佐倉さんの席はないから」
「パワハラだ」
速効性の薬のおかげで落ち着いてきた。フェロモンも抑制されてきたようで、シャーロットももう襲ってこようとはしない。
「樹さん」
「なに?」
「ごめんなさい」
すんなりと謝られ、毒気を抜かれた気分になる。
「でもわたし、前から言っている通り、樹さんのこと好きだから……。まぁ欲望には負けたけど……」
「前から言っている通り、私には好きな人がいるから」
「でも! 番はいないんでしょ? だったらいいじゃないですか~」
「……」
「発作が出たら困るんじゃないですか? このこと誰にも言いませんから、わたしとヤりましょうよ」
「ヤらないわ」
手早く荷物をまとめ、樹はロッカー室を後にしようとしたが、戸締まりの関係でシャーロットが先に出ないといけないことに気づく。
「じゃあ付き合ってください」
忘れ物を手の中で弄びながら、鍵を締める樹に話しかける。いつもと変わらない真偽の読み取りづらい口調で、何と返せばいいのか樹は少し悩む。
「話聞いてた? 無理だから」
「冷たいですねー」
鍵を閉め終えるまでシャーロットは後ろで待っている。駅まで一緒に帰るのは気まずく、樹は早足で帰ろうとするが腕を掴まれる。
「しつこい」
二十センチ近く自分より背の高い後輩をキッと睨む。
「もう遅いんですから、駅までくらい一緒に帰りましょうよ」
「いつも遅いからこのくらい、」
「ほら、わたしが危ないですし? こう見えて年頃の女子なんで」
「女子って……」
いくつだよと言いたくなるが、年下にそんなこと言われたら断れない。仕方なく樹はシャーロットの申し出を受け入れることにした。
「わたし、言わないですよ」
「……」
「言ったところでみんな信じないですよ。かんぺきちょーじんの樹はさんがオメガだなんて」
「……どうかな」
「樹さん、仕事できるし。それにオメガとか関係なく可愛くてモテますし」
「私が人を惹き付けるのは体質だよ。佐倉さんが私のことを気にかけるのも、この体質に惑わされているだけだから勘違いしちゃダメ」
「そんなことないです!」
シャーロットが食い下がろうとしたところで、
「駅着いたね。じゃあまた明日」
逃げるように樹は改札の中へ走って行った。
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