第65話 ただいま!

 雑踏を遠くに聞きながら、コジロウはまばたきをした。


 商店街の一角に暖簾のかかる建物が見えた。

 建物からはトンカツのにおいが溢れ、引き寄せられた人間たちが今日も並んでいる。

 電線の上を見たがカラスたちの姿はなかった。バケツは以前と変わり、大きくて重そうなものになっていた。

 商店街を抜け、住宅地に差し掛かる。


 もっと早くこうしていればよかったとコジロウは思った。

 いくらあの時に「しっぽを喰い千切ってやる」と言われたとしても、よく知りもしない相手をむやみに恐れるのはやめて、例の三毛猫を――自分が迷子になった発端の猫を、探し出せばよかったのだ。


 途中、顔見知りの猫とすれ違ったので、この辺りで三毛猫を知らないかと聞いてみる。相手は知らないと答えた。

 礼を言って別れると、向こうから人間と犬がやって来た。

 素早く身を隠そうとしたが、コジロウはその犬に見覚えがあった。少しためらったが、思い切って声をかけることにする。


「ラルさん、こんにちは」

「あれっ、コジロウだ~。お久しぶりだね!」

 相変わらずの陽気な口調に、コジロウはほっとした。

「おや、どこかで見たような虎猫君だね」

 ラルの飼い主が首をかしげる。

「はい、先日ラルさんにお世話になりまして」

 そう言ってみたものの、相手は「ひょっとして迷子ポスターの子かな」などと別のことを呟いているようだった。


「コジロウ、家は見つかった?」

 ラルに尋ねられ、コジロウは「まだなんです」と答える。

「そっかあ……早く見つかるといいね。僕のうちはこの近くだから、いつでも遊びに来てね。きっとナナコも喜ぶよ」

「ありがとうございます」


 去り際、ラルは思い出したように振り返った。

「あ、そうそう、ナナコって猫なんだよ。気が強いけど、悪い子じゃないんだ。きっと君といい友達になれると思う」

 コジロウは嬉しくなった。

 この土地へ来たばかりの頃、犬に吠えられて恐い思いをしたこともあったが、中には猫が好きな犬もいる。そのことは猫にとってもコジロウにとっても、きっと幸せなことだ。


 そういえば三毛猫のことを聞きそびれたな、と思いながら、コジロウはふと考えた。気が強い猫といえば、あの三毛猫もやたら気が強かったっけ。


「……あ!」

 叫ぶと同時にコジロウは駆け出していた。

 進めば進むほど、記憶が鮮やかによみがえる。

 逃げる時に飛び乗った塀、通り抜けた柵、蹴散らした花壇……。

 見覚えのある小さな庭、プランターに並んだ花、コニファーの生垣。

 間違いない。この家だ。


 コジロウは力の限り叫んだ。

「ヒアキ! ヨウジ! お父さん、お母さん!」

 少しして家の扉がそっと開き、一人の少年が顔を出した。

 コジロウの姿を見つけると、彼は大粒の涙をこぼした。


「お兄ちゃん! コジロウが、コジロウが帰ってきた!」

 ヒアキも駆け出してきた。

 コジロウは兄弟たちの足元に駆け寄り、かわるがわる頭をこすりつけて情愛を示した。


「すごい! どうやって帰って来たんだろう」

「きっと自分で迷い猫のポスターを見たんだ」

 お母さんが家から出てきて、コジロウを抱きしめた。

「……本当に、無事でよかったわ」

「よく帰って来てくれたね。おかえり」

 お父さんもやってきて、コジロウの頭をぽんぽんとなでる。


 久々に名前を呼ばれ、抱き上げられて、コジロウは心の底から思った。

 やっぱり、自分の居場所はここなのだ、と。

 少し痩せた体の奥から声を絞り出すように、コジロウは精一杯の声で鳴いた。


「ただいま!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る