第五章 自由猫たちの楽園

第32話 命を喰うということ

 コジロウは泥のように眠った。


 慣れない土地で過ごす緊張は、思いのほか体力や気力を消耗させていたらしい。知らない場所を散策するのは楽しいが、それは帰る場所があってこそだと思い知った。

 そういったここ数日の中で、唯一落ち着ける場所が廃車の座席の下だった。ひとたび潜り込めば、音も光も遠くなる。今日は鳩の鳴き声も聞こえず、辺りはいっそう静かだ。


「起きてるか?」

 廃車の外からクロの声が聞こえて、目を覚ました。

 大きなあくびをひとつして、座席の下からのそのそと這い出す。


「おは…………」

 窓から顔をのぞかせてそう言いかけ、コジロウは言葉を失った。

 眼下に広がる草むらの海に、灰色と白が散らばっていた。


「冷たくならないうちに喰え」

 そう言ってクロは草の上に灰色の塊を投げ出す。

 どさりという音がして、それに呼応するかのように、辺りにばらまかれていた白と灰色がふわりと舞った。


「は、はい……」

 コジロウは廃車の窓からそっと草むらへ降りた。

 おずおずと近寄ってみると、クロが投げ出したものは変わり果てた姿の鳩だった。たしか昨日の朝は元気よく鳴いていたはずだったのに――、とコジロウは物言わぬその灰色の塊を見つめた。


「食べるといい」

 再びクロが言う。

「えっ……あ、ありがとう……ございます…………」


 コジロウはたじろぎながらも、鳩だったものに口をつけた。

 牙を立てると、筋肉がひきつれて塊がピクリと動いた。まだ生きているのかと驚いて後ずさるが、クロの視線を感じて再び向かう。


 小さな羽の一枚一枚をかき分けるようにしっかりとあごで抑え込み、全身を強く後ろに引き、ようやく少しの肉を喰い千切ることができた。その方法でうまくいかない場合は、何度も丁寧に噛んで柔らかくした。


 血管を切ると血が溢れ出たが、それも残さずに飲み込んだ。口の中に血のにおいが広がり、鼻から抜けてゆく時、生命のにおいがした。温かい血が体の中に入り込む感覚は、鳩の命がコジロウの中に入り込んでくるようだった。淡い桃色の肉も、味の濃い内臓も、すべて丁寧に咀嚼し、飲み込んだ。赤く膨れた心臓を飲み込んだ時、コジロウの中で最後の鼓動を打った気がした。


 たっぷり時間をかけて、コジロウは鳩の生命を自身の中に取り込んで行った。その作業が終わった時、鳩が生きていた痕跡は散らばった羽とわずかな残骸だけだった。


「おはようでやんす~。あれ、今日はコジロウも起きてるでやんすねえ」

 空き地の入り口から陽気な声がした。

 コジロウはぎくりとしたが、クロはいつもと変わらない表情のままだった。

「ハチか」

 彼は定位置である廃車の屋根にひらりと飛び乗ると、何事もなかったかのように身を丸めた。春先の風が吹き、鳩の羽をふわりと舞い上げる。


「んん?」

 ハチはうなるような声を出し、それからコジロウの顔をじいっと見つめた。

 なんだかひどく緊張して、コジロウはふいと顔をそらす。


「今日もこいつの面倒を頼む」

 廃車の上からクロがそう言うのが聞こえ、

「わかったでやんす」

 とハチが返事をしているのが聞こえた。


 今日は面倒くさそうに「へいへい」じゃないんだな、と心のどこかでコジロウは思った。

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