第25話 少しの違和感

 後ろに下がりたくなるような熱風が襲ってきて、ルイに当たらないよう一歩前に出た。

「……何か、薬草のような匂いに血が混じっている」

  ルイは俺の耳元で囁いた。薬草に血。過去がフラッシュバックし、くらりと壁に手をついた。白い花に残った血痕。俺はあのときのことを、今でも夢に見る。あれから心の中で何度も復讐と殺戮を夢見てきた。

「ルイ…………」

 腕を引かれ、なんとか足で踏ん張ることができた。

 ルイは人差し指を口元に置き、絵になるなんて思っていると、頭を振った。喋るな、の合図だ。

 鞄からボールペンを取り出すと、靴箱からかざし始めた。風呂とトイレ、リビングに行ったところで、上についたランプが赤く光る。ベッドで隠れているコンセントは普段使わないもので、二つあるコンセントのうち一つに何かが差し込まれている。ぞくりと背中に悪寒が走った。

 さらにもう一つ。壁に掛かっている時計の裏にも見覚えのない機具があった。時計を取り付けるとき、こんなものはなかった。テレビの裏からも、同じタイプの機具を発見した。

 ルイは携帯端末を弄ると、画面を見せた。

──盗聴器が三つ。警察に連絡をする。

──待ってくれ。ルイだって犯人に見られている可能性がある。余計なことをして、逆上されたら嫌だ。

 渋い顔をするルイの額には、すでに汗が滲んで頬を流れる。部屋の温度は三十度を超えている。冷凍庫から凍らせたペットボトルを出してテーブルに置き、扇風機のスイッチを入れた。多少は楽になるだろう。

──涼しい。

──おう、良かったよ。午後には修理の人が来るからもう少しの辛抱だ。

──日本人は辛抱が好きなのか? 命に関わることであるならば、なおさら通報すべきだ。

──ストーカーでも厳重注意で終わるよ。そういう国だから。

──一応確認だが、盗聴器をつけた人物は重野カズアキ氏で間違いないか?

──以外に心当たりはない。実は俺のことが好きな女子がいて、こっそりってパターンもないわけじゃないと思う。

──ないな。

 つれない一言を送りつけたルイは端末で写真を撮る。証拠として残しておくらしい。

──密封できるような袋はあるか?

 キッチンにチャック付きの袋があったはずだ。ルイは受け取ると、盗聴器をすべて入れしっかりと密封する。さらにタオルで包み、厳重に音を拾わないようにした。

「どくだみ茶飲んでみる?」

「飲む。氷を入れてくれ。暑い」

「オッケー」

 グラスに氷を入れ、作り置きしたお茶を注ぐ。氷の崩れる音がまた涼しげで暑さを吹っ飛ばしてくれる。ついでにアイスクリームも皿に乗せた。シンプルにバニラ味だ。

 こうしてお客さんが訪ねてきてくれるなんて、初めてのことだ。こんな状況であっても、密かに遠足の前の日のような気分になる。

「志樹特製どくだみ茶とアイスクリームでございます」

 ルイはいただきます、と手を合わせた。仏教の挨拶をフランス人がするのは珍しいが、そう思ってしまう俺は偏見というものが少なからずあるからだろうか。

 ルイはどくだみ茶を飲むと固まり、もう一度手が伸びる。

「…………ルイ?」

 目がうっすらと膜を張っている。見てはいけないものを見てしまった。

「ど、どうした? 美味しくないか?」

「そんなことは……ない。これは……どのような効能なんだ?」

「効能? えーと……、美容とか、カリウムが豊富だからむくみとかかな。老化防止の効果があるとも言われてるけど」

 ルイは口元を押さえ、大きく息を吐いた。味が合わなかったのか? どくだみ茶を飲んでそんな反応をする人はルイが初めてだ。そもそも、万人受けするお茶ではない。

「……ありがとう」

「おう……別にそこまで感謝されるほどでもないけとな」

 ルイはアイスクリームを食べ、似たような反応をした。きちんと正座をしながら身悶えている。

「……美味しい」

「だろ? 前に父さんに男が料理を出来過ぎると嫁さんもらえねえぞなんて言われたなあ」

「料理が得意なことは長所であり、デメリットにはなり得ない特技だと思うが」

「古い考えの人だからさ。男は外で稼いできて女は家を守るっていう、戦争時代の古い風習が今も根付いてるんだよ。田舎だと特に。家のこと何もできないなんて、今時有り得ないんだけどな。もっと食べるか?」

 ルイは頷き、皿を差し出した。ここまで感動してもらえるとは思わなかった。もちろん嬉しいが、そこまで珍しいものでもなかろうに。二割引きの牛乳で作ったアイスだし。

 二つ目のアイスクリームを食べ終えたところで皿を片していると、チャイムが鳴った。出ようとする俺の腕を引いて、ルイは扉のドアスコープを覗いた。

「重野氏の風貌は?」

「ええと……身体はかなりでかいよ。身長はルイほどじゃない」

 問題ないと判断したのか、ルイはドアノブを回した。小柄な男性が二人ほど申し訳なさそうな顔をして立っている。

「す、すみません……遅れてしまいまして……」

「いやいや、大丈夫ですよ。忙しい中、ありがとうございます。中へどうぞ」

 こじんまりとした眼鏡をかけた男性と、坊主頭の涼しげな男性だ。エアコンの故障はすぐに判明して、中に埃が溜まりすぎたせいだとお叱りを受けてしまった。みっちりと隅々まで掃除をしてもらい、冷えた風が吹くと地面に頭が着くんじゃないかというほど頭を下げた。

 二人が出ていった後はフルにエアコンを稼動させた。ルイは座布団に腰を下ろし、胡座ではなく正座で。俺は対照的だけれど、痛くはないのか。

「提案がある」

「おう」

「引っ越さないか?」

「だと思った。ルイは優しすぎるよ」

 俺の知る限りで世界一優しい男は、不服だと口を固く結んだ。

「俺だって男だし、ボクシングだってやってるんだ。そこそこ負けない自信はある」

「一対一の戦いでは、お前はまず負けないだろう。度胸もあるし力もある。ここまでは理解したか?」

「した」

 小学生の子供に言い聞かせるように言う。

「一つ教えておいてやる。相手はどんな手を使ってくるのか分からない。現に無断で入り込み、お前の部屋中に盗聴器をつけた男だ。ドアを開けたら敵がいる、分かっていたとしてもそれに対応できるだけの経験があるのか? お前はデルタフォースにいたわけでもFBIでもない。ステージ上での正々堂々とした勝負ではないんだ」

「分かった、分かったよ。ルイが俺を心配して、人情ある人なのは理解した」

「微塵も分かっていないな」

「けど、いつまでもエレティックにお世話になるわけにはいかないよ。店の一部だし、金庫や商品だって置いてある場所だし」

「何を考えているのかあえて言わないが、そんな心配はいらん。そしてあえて言うのであれば、防犯カメラも作動しているし何の問題もない」

「…………でも、」

「迷惑、お金の心配以外に何かあるか? この二つ以外なら聞き入れよう」

「…………もし、あいつに俺のバイト先がバレたら」

「そんな心配は無用だ。いざとなったらSPの者に警護を頼む」

 新宿のバーテンダーのイベントで出会った、あの強靭な肉体を持つ男性たちだ。

「ルイの敵じゃないのか?」

「違う。味方でも敵でもない。彼らは自分の感情では動かない。花岡」

 ルイに名前を呼んでもらえた。だいたい『お前』が多い。厳密には名前ではなく名字だが。

「お金だけの関係性ほど、脆く崩れやすいものはない。名前をつける関係性は、そうであってほしいという願望でしかない」

「よく女子の言う『私たちって友達だよね?』『親友だよね?』みたいな確認とか?」

「……日本の女性のことはよく知らんが。絵に描いたような親子がわざわざ確かめ合ったりしないだろう。疑心暗鬼になるのは、心にやましさや不安を抱えているからだ」

 心のやましさは俺を名字で呼ぶ理由と直結するのか分からないが、一概に無関係とも思えなかった。

「必要な荷物は?」

「ほとんどエレティックに」

「……あと、その……」

 ルイは言いづらそうに目を逸らす。視線の先は冷蔵庫だ。

「アイス? さっき食べたので最後だよ。よければエレティックでも作ろうか?」

「……どくだみ茶」

「あれそんなに気に入ったのか? パックに分けてあるから持っていこう」

「……………………」

 棚にしまっておいたどくだみ茶や、必要な着替えも持った。

「何してるんだ?」

「秘密」

 ルイはエアコンやタンスの隙間、掛けっぱなしにしている春コートのボタンに何か小細工をしている。カメラの類だろう。

「秋葉原は便利な街だ」

「えー、行ったのかよ」

「これを何枚か渡された。私の国にはないカフェで、非常に興味深い。やる」

 ルイから折り畳まれたチラシは、何ともコメントのしにくい写真だ。メイド服を着た女性が頭の上で耳を作り、ウインクをしている。

「あー、うん。どうもありがとう」

 人気ナンバーワン、あいにゃんの笑顔も虚しく、俺はそっと二つ折りにしてテーブルに置いた。反応に困るチラシだ。どちらかというと、俺はクールビューティーな人が好きなのだ。

「ルイってこういう人が好きなのか?」

「子供にしか見えん。さっさと行くぞ」

 アジア人は子供っぽく見られるという。ルイの隣を歩く女性と聞くと、思い浮かぶのはベルナデットだ。ルイは俺を見て目が合うとすぐに逸らし、背中を叩く。

 ルイのためにも見つけてやりたいと思うし、けれどそっとしておきたい気持ちもある。それは俺のただのわがままで、醜い欲のようなものだ。会ったこともないのに、ベルナデットは苦悶の象徴に見えた。心の最奥でもやもやしたものが渦巻いてしまう。ルイと会わせるべきでないと、もうひとりの俺が何度も警告してくるのだ。気のせいだと思いたい。

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