第26話 彼女と彼女
去年よりも今年、そして来年も同じことを口にするだろう。去年より暑い気がする。エアコンのリモコンを取り、もう一度温度を下げた。
──今日会える? 話があるんだけど。
あと数週間で夏休みが終わりを迎えようとしていたときのメールだった。また大学で会えるのに、数週間を我慢できない何かがあった。その何かが、俺には身に覚えがありすぎる。
──いいよ。今は池袋にいる。どこで待ち合わせする?
十中八九、水橋有栖氏のことだろう。ルイからは極力出るなと言われたが、人混みであれば危険は少ない。田舎暮らしの俺は、都会の広さはかくれんぼにちょうど良いと学んだ。
念のためルイには奥野さんと会ってくるとメールを入れ、エレティックの控え室を後にした。
奥野さんは俺に合わせて池袋まで来てくれることになった。チェーン店のコーヒーショップで待っていると、奥野さんは颯爽と現れた。全身黒で人目を引いても、我がやってきたと言わんばかりの出で立ちだ。かっこいい。
さて、彼女は怒っているだろうか。罵られても仕方がない。水橋さんにも余計な助言をしてしまった。
「待たせたわね」
「いや、さっき来たところだよ」
奥野さんはアイスコーヒーを注文し、窓の外を眺めた。渋谷のスクランブル交差点ほどではないが、池袋駅前も似た風景が広がっている。
アイスコーヒーを飲み、奥野さんは口を開いた。
「迷惑かけて悪かったわね」
「迷惑? 特にかかってないけど」
「有栖のことよ。この前、私と争って有栖をバイト先に連れていったんだってね」
「勝手なことした?」
「別に。イケメンの店員に会ったって言ってたわ」
どう考えても俺ではないだろう。
「その、聞いたの?」
「俺が聞いたのは、ちょっと言い争いになったってだけだよ。仲直りしたいって落ち込んでたから、アドバイスしただけ。元に戻れた?」
「無理よ。戻れるわけない。もう手遅れ」
お手上げだと、随分と投げやりなコメントだ。
「聞いたんでしょ? 有栖の好きな人のこととか」
「ごめん、聞いた。平川さんのことも」
「どこまで?」
答えがたい質問だ。俺の解読した結論は、水橋さんは同じテニスサークルの平川さんのことが好きで、平川さんは目の前の奥野さんが好き。そして奥野さんは……同性の水橋さんのことが。
「その様子じゃみんな知ってるんじゃないの? 私ね、有栖のことが好きなのよ。恋愛感情として」
答え合わせは完了した。やはりそうだ。
「会おうって連絡が来て、昨日会ったのよ。話の流れで私が彼女に告白したの」
「それで?」
「ごめんって言われたわ。夜にメールが来て、ごめんの意味はお断りの意味じゃなく、親友だったのに気づけなくてごめんの意味だって訂正の内容だった。どちらにせよ、もうどうでもいいけど」
「どうでもよくないよ。奥野さんの気持ちは……」
「花岡は男性に告白されて、OKの返事は出せるの?」
「今のこころ俺の恋愛対象は女性だけど、将来のことって誰にも分からないし。相手が男性で、その人を親父に紹介したら卒倒しそうだけど」
なんせ昔ながらの頑固で意固地な男だ。孫が生まれて軟化したものの、未だに男はこうでなくてはならないと、時代錯誤の考えが根付いている。
「何よりも悲しくて腹が立ったのは、有栖から付き合おうとメールが来たこと」
「ええ? なんで?」
「もしかしたら、女の私を好きになるかもしれない、一週間だけでも付き合おうってさ。どれだけ見くびられてるのよ、私……」
それだけ、奥野さんを失いたくないともとれる。けれど今それを言うには、噴火直前の火山をつつくようなものだ。
心の中で、平川さんにごめん、と全力で謝罪した。
「奥野さんが知らない事実は……ある」
「何?」
「平川さんの好きな人って誰か知ってる?」
「さあ。それは聞いていないわ」
俺は黙って奥野さんの瞳を見つめる。言葉にしづらい思いはあるのだ。気づいて気づいてと、眼力で伝えようとした。
奥野さんは不審な目で俺を見ていたが、美しい切れ目が大きくなり、やがて悲しみを含んだ目がアイスコーヒーを映す。
「……そういうことなのね」
「…………はい」
「花岡がそんな顔をする必要はないじゃないの」
「多分、水橋さんも今は知っているんじゃないかと。親友に自分の好きな人をとられてしまいそうな状況で、逆恨みをしたっておかしくなかった。それでも水橋さんは、なんとか奥野さんと繋がりを持とうとしたんだと思う。奥野さんにとっては残酷な言葉だったとしても、どんな繋がりでも奥野さんと縁を切りたくなかった」
言葉にしなければならない思いもある。そうひしひしと感じる。
奥野さんの携帯端末にメールが届いた。苦しそうな顔に、誰なのかすぐに理解する。俺は奥野さんの言葉を待った。
「ごめん、有栖と会ってくる」
「うん、そうしなよ」
奥野さんは伝票を握りしめ、俺が何か言う前に席を立った。
窓越しの風景を見ていると、青信号になり横断歩道を渡る奥野さんの姿が見える。誰にも真似できないファッションを極める彼女は格好良い。格好良いといえば、ルイはどうしているだろうか。来てくれるならレトルト食品は止めて何か作るのに、朝に『勉強をしろ』と連絡が来た以来、何の音沙汰もない。今日は来てほしい。なんだか無性に会いたくなった。
「…………え?」
心臓と心は一緒ではないのに、連動したように高揚した。机に手をついて立ち上がると、グラスの中の氷がからんと音を立てる。いくらか冷静になれた気がした。
急いで階段を下りてブロンドヘアーの女性を追った。間違いかもしれない。けれど写真で見た女性と似ていた。ルイの隣で微笑む女性。もしかしたら、もしかすると。
「すみません! あの、」
理性がきかないほど大きな声が出た。女性だけではなく、回りにいた学生やサラリーマンも振り返る。が、自分が呼ばれたわけではないとすぐに踵を返した。
「……ご、ごめんなさい」
「あの、何か?」
「本当にすみません、知り合いにとても似ていて、捜している人に髪型が似ていたもので」
後ろ姿だけでは分からなかったが、顔は完全にアジア人だ。女性は訝しみながらも横断歩道を渡り、池袋駅へ吸い込まれていった。
そう簡単に会えたら苦労はしない。ルイだって俺以上に捜しているはずなのに未だにベルナデットに会えていないのだ。
誰かが俺の肩を掴んだ。大きさと肩にかかる負担から男性の手だ。反射的に払いのけ、脇を締める。
「こんにちは」
「……お久しぶりです」
一瞬にして記憶が遡る。新宿のビルで出会った大柄な男たちだ。こんな暑いのにスーツを着て、サングラスをかけている。
「誰かお捜しでしたか」
質問の答えを探るというより、すべてお見通しだという言い方だ。
「よろしければ、お茶をご馳走しましょう」
「いえ、さっき飲んできたんで」
「遠慮は必要ありません。ご馳走します」
日本人のような日本語の使い方である。お前には選択権はないと、権力の押し売りだ。
逃げるチャンスはいくらでもあったが、この分だとエレティックの場所も割れているに違いない。ルイの居場所だって筒抜けの可能性がある。おとなしくするに越したことはない。
こじんまりとした個人営業のコーヒー店に入り、一番奥の席に座る。ソファー席で、出入り口に近い席に座った彼らに先にやられたと悔しくもなる。特殊部隊に所属していたという彼らは、犯人の拘束もしていたように見えた。
「最近の調子はいかがですか?」
「暑いですね」
「確かに。日本の気候は湿気もあり、我々には厳しい」
スーツを脱げばいいのに。助言しても、彼らは従わないだろう。
「助言は聞いて頂けないようですね」
さて、いきなり本題だ。
「貧乏学生なんで。ルイがくれるお給料って多いし、やりがいのあるバイトだし、辞められないんですよね」
「今、あなたに百万円を差し上げると言ったら辞めて下さいますか?」
「はあ、無理ですね」
お金の関係は脆い。ルイに教えてもらった人生の格言だ。
「ルイから聞きましたけど、ベルナデットさんを捜すことがルイの使命の一つなんでしょう? 俺も一緒に捜したら一石二鳥じゃないですか」
「ルイ様に近しい関係者がいては困ります」
おそらく、今のが本音だろう。
「なぜです? 後輩とか、部下とかいたっておかしくないでしょう」
「確かに、仕事上では先輩も後輩も自然とできます。ですが、あなたが邪魔なのです」
「邪魔って……」
「部下や友達というには、いささか度を超えているお付き合いをしているようです。あなたに会うために飛行機を数本早めに乗ったり、地方に出向いてもホテルへ泊まらず、あなたの元へすぐに駆けつける」
「それは……単に俺が危なっかしいからですよ」
「いずれ彼はバーテンダーもお辞めになり、国に帰ります。今はベルナデット様を捜すために日本に滞在しているだけです」
「…………それはルイが言ったんですか?」
「彼の意思は関係ありません。
また
「月並みな言葉ですが、ルイの人生はルイのもので、バーテンダーをしているのはルイの意思です。俺は彼が嫌々バーテンダーをしているようにも見えないし、むしろ楽しそうに俺に教えてくれる。店にも誇りを持っている。ルイのやりたいことを尊重しようとは思わないんですか」
「……家の問題ですので」
「なんだか、価値観が全然違いますね。どっちが正しいとか間違っているとか分からないですけど、俺の考えは譲れないですし」
「あなたとルイ様は違います。あなたがルイ様から離れて頂ければ、これ以上何も言うことはありません」
「それ、本人の前でも言えます?」
窓の外を指差した。先ほどからの殺気は男性たちには届いていないらしい。俺が先に気づくなんて、陸軍特殊部隊で経験を積んだ彼らよりも勝っている部分があるのではないか。意味のない自信がついた。
美しい人は怒っても美しい。大きなキャリーケースに仕立ての良いスーツを着て、どれもこれもどこかのブランドで包まれている。水色のリボンこそが異質に見える。
窓越しに俺を見て独り言を言い続けている。読心術の心得は全くないが、おそらくフランス語だ。少しも隠そうとしない怒りがだだ漏れである。
「俺そろそろ行きますね。お茶ありがとうございました」
ほとんど口をつけていないお茶は俺が立ち上がると波を立てた。
外に出ると熱風が俺を襲う。外にいたルイはさらに暑いと感じているだろう。
彼の説教を楽しみに、できるだけ俺は笑顔で声をかけた。
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