第24話 血の臭いは過去を振り向かせる

「本当にすみません……あなたの仰る通りです。私は見た目がこんなだから、子供の頃から普通の人より下だと思い込んでいて……」

 男性は、今度は先ほどよりも度数の少なめのものを注文した。クレーム・ド・カシスと白ワインを合わせたカクテルだ。

「キールでございます」

「はあ……真っ赤なんですね。名前は聞いたことがありますが、透明なイメージがありました」

 横目で見ていたが、ルイは白ワインの量を変えていた。顔色を見て変えたのだろう。

「結婚相談所に行っても、顔や背の低さで条件から外されるんです。だいたいの女性は、一七〇センチは目安にされます。こういう話を知人をしますと、大体は黙るか見た目以外で勝負しろと言われます。まず見た目の合格ラインに届かないと、中身も見てもらえないんです」

「それは男性の方が厳しいんじゃないんですか? 女性を見た目で判断してしまうのは、男性だって同じだし」

「確かに……好みはあります。けれど、身長はどうしたって変えられません。身長が高くて顔立ちも整っていて、女性に振られたことはありますか?」

 なぜ俺を見るんだ。背中に汗が滲んでくる。

「俺ですか……。小学生の頃、好きだった女の子がいたんですが、片親は可哀想な子だから嫌だなんて言われたこともあります。痛い話で、あんまり思い出したくないんですけど」

 乾いた笑いしか出てこない。男性は俺を一瞥すると、今度はイケメンバーテンダーを向いた。

「あなたは? ありますか?」

「……ええ、ございます」

 俺も男性も、似た反応をしさらに驚いた。

「心が悲鳴を上げますので、あまり口にしたくはございません。彼も私も、見た目の合格ラインを超えないまま判断されてしまった経験があります。統計を取ったわけではございませんが、風貌はあまり関係ないかと」

 ルイは男性が飲む暇もないまま、言葉を立て続けに並べた。

「私は見た目より、清潔感や言葉の力というものを信じてみてもいいかと思います。棘のある言葉を並べるより、花を咲かせるような笑顔とトーク力です。そのためには知識を増やすこと。読書がいいかもしれません。そうだな、花岡?」

「仰る通りでございます……」

 そういうことかと、膝を叩きたくなる。要は読書まで話を持っていきたかったのだ。

 男性が持っている鞄の中から見えた何かの本は、好きでなければ読まないだろう。洋書が二冊入っている。好きなことを後押しされたり褒められると、それが自信へと繋がる。

 案の定、男性は本の話になると二割増しに笑顔が増えた。少々口調が早くなり、オタク気質とも呼べる。俺も好きな話は早くなる。ルイは黙って耳を傾け、時折頷いては器用に質問を繰り返す。話しているのは専ら男性だが、話術に優れているのはルイだ。

 気持ち良くなった男性はお金を払い、また来ますと述べて店を出た。あと数人の女性客がやってきて、ルイを見るなりこっそりと端末を向けようとする二人組をやんわり阻止し、あとはいつものエレティックとして営業した。

 掃除をしようとするが、ルイは先にシャワーを浴びてこいと言って聞かなかった。有り難く受け取ろう。なんだか今日は、いつもより疲労が溜まっている。

 意識が遠退いていく。途切れる前に、前のアルバイトの先輩の顔が浮かんだ。部屋に染み付いた血の臭いは、俺の鼻がいかれたからなのか過去のトラウマがそうさせているのか判断がつかない。けれど、部屋に違和感があった事実は信じたい。誰かが、俺のアパートの部屋に入った形跡がある。ずっとここに居られたらいいのに。

 目が覚めると、俺はベッドに寝かされていた。起きようとしても指先に力が入らず、首だけを傾げる。

 ここはどこだ。俺は何をしている。記憶が途切れ途切れで、なぜベッドにいるのか曖昧になっている。

「おい、急に動くな」

「俺に……触るなっ……」

 夢なのか現実なのか分からなくなっていた。死人の臭いを漂わせるあいつだったら? ついに部屋で居合わせて、俺に薬か何か飲ませたのではないのか? 身体が重く、動かない。

「落ち着け。私の顔を見ろ。ゆっくり息を吸って、吐け」

 訳が分からなくなり、目の端から涙が流れていく。怖い。動かない。目が霞む。

 口の端に何か筒状のものを入れられた。

「吸え」

 口の中に甘みが広がり、後から塩味が支配する。ちょっとしょっぱい。

「なに……これ……」

「私が作った」

「俺……どうして……」

「風呂場で倒れていた。引っ張り上げてとりあえず布団に寝かせた。俺が誰か分かるか?」

「ルイ…………」

 ルイは満足そうに頷き、もう一度ストローを俺の口の中に入れた。喉を通るたび、生きてるって感じがする。

 布団を持ち上げると、バスローブを着ていた。ルイが着せてくれたのだろう。

「ストレスになっていたのだろうな」

「うん……まあ」

「もう少しで家に戻れる。エアコンの調子もすぐによくなるだろう」

 水色のリボンを外したルイの髪は、エアコンの風に揺れてふわりと舞う。太陽のようにきれいだ。触ってみると指通りもよく、ずっと撫でていたくなる。

「ルイと……お別れか……」

「毎週会っているだろう」

「寂しいよ……」

「子供みたいだな」

 ルイは喉の奥で笑った。珍しい。

「ストレス……俺さ、ここにいて……ストレスを感じたことなんてないよ……。ルイに勉強見てもらえて、楽しかった……。兄ちゃんができたみたいで、嬉しかった……」

「今生の別れみたいなことを言うな」

「弱ってると……何言い出すか分かんないもんだな……」

「弱ったついでに零してほしい。アパートで何があった?」

「………………え?」

 ルイは俺の手首を掴んだ。痛くはないが、真剣さが伝わる強さだった。

「アパートの話をするたび、お前はいつも目を逸らす。帰り際、池袋駅で寂しそうな顔をする。帰りたくない何かがあるのか?」

「…………ないよ?」

「まっすぐに俺の目を言え」

 なんて卑怯な。ルイは目を見られるのが苦手なくせに、こういうときだけ強気で言う。

 でも、そんなルイを見ていたら、本当のことを話してもいいのではと思えてきた。

「俺の勘違いかもしれない。それでもいい?」

「構わん」

「誰かが、俺の部屋に侵入した形跡があるんだ……。位置がずれているような感覚。でも俺はそこまで几帳面な性格じゃないからさ、はっきりしたことは分かんないけど。違和感があるのは、臭いもなんだよ」

「臭い?」

「血の臭いがするんだ。あと誰かの体臭。多分、男」

「心当たりは?」

「………………さあ?」

「……………………」

 この目は言うまで手首は離さないという目だ。

「ごめん、言うよ。前のアルバイト先の先輩」

「お前に告白をしたという、あの?」

「ああ……よく覚えていたな」

「不愉快だったからな。名前は?」

「……重野カズアキ」

 ルイは腕を組み、目を伏せた。掴まれていた手首がじんわりと熱い。

「ひとまず、お前の体調が良くなるまではここにいろ。それからのことは、ここから考えよう」

 ルイはどこかへ行ってしまい、帰ってきたときにはビニール袋を下げていた。インスタントの野菜スープにご飯を入れたものを作り、食べろと言う。ルイの国では、体調が優れないときには野菜スープを作るらしい。それとハーブティーに蜂蜜を垂らしたり。ハニーを思い出し、笑ってしまった。真顔で俺をハニーと呼ぶルイを想像したら、面白くて肩が揺れる。

 てっきりルイは帰るものだと思ったら、泊まっていくと言い出した。いそいそとソファーで寝床を作っている。ベッドにもなると初めて知った。

 翌日、長引くかと思っていた体調はすっかり回復し、まだ寝ているルイのためにフレンチトーストを作った。あとは昨日のインスタントの野菜スープを作り、テーブルに並べる。

「フレンチトーストってフランスじゃないの? 懐かしいって言われるの期待してたんだけど」

「起源はアメリカ。人の名前だ」

 ルイは美味いと漏らし、全部平らげた。俺は甘みが足りなくて蜂蜜を垂らしたが、ルイにはちょうど良かったようだ。

 支度を終えて一度家に戻ろうとしていたら、ルイも準備をしている。

「これから仕事?」

「ああ、お前の家に」

「ちょっと待て。昨日の話か? あれなら気にしなくていいって。俺一人でなんとかするから」

「お前にストーカーをする輩に興味がある。随分と良い男なんだな」

「へへー、まあね。女性にモテた試しはないけどな!」

 ありがとう、ありがとう、本当はひとりで戻るのが恐怖だったんですと、何度も心の中で感謝と謝罪を繰り返した。

 仮宿を出て池袋駅に向かい、十条に向かった。

「本当に古いぞ? いいのか?」

「何を今さら」

「ルイの住んでる場所と比べるなよ?」

「私の住む家を見たことがあるのか?」

「ないけどさ、絶対良いとこに住んでそう」

 返事がない。

「もしかして、片づけが苦手でゴミ屋敷状態とか?」

「エレティックを見てそう思うか?」

「だよなあ。綺麗好きだし」

 たわいもない話をしながらアパートに着いた。階段を上がり、緊張からか足取りが重くなる。ルイは俺の部屋の前で腕を組んだ。

「なんで俺の部屋番号が分かるんだよ」

「愚かなことを。履歴書にしっかり住所が記載されていただろう」

「……ごもっともです」

 手が震えてしまい、鍵がなかなか入らない。開けた瞬間、男が飛び出してきたらどうしよう。俺はともかく、横にいる男を守りきれるのか? 銀行強盗相手に華麗なる回し蹴りを食らわした姿を思い出し、心配無用だとドアノブを回した。

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