第23話 水橋有栖
残念だと思うべきか、部屋のエアコンの修理が延びてしまうと連絡が入り、もう少しお世話になることになった。頼まれた買い付けを駅ナカで済ませ、地上への階段を上ると見覚えのある後ろ姿が目に入る。
癖のないロングヘアーを揺らし、俺が来た道を下りていく。声はきられなかった。会話をできる雰囲気ではない。少しつついたら、溜めていたものが溢れ出そうな表情をしていた。
「うう…………っ」
唸り声を揚げてしゃがみ込んだ女性は、大学内で何度か見かけたことのある人だった。今着ている私服より、どちらかというとテニスウェア姿の方が馴染みがある。
「大丈夫ですか?」
女性は泣いていた。具合より、気持ちが涙として溢れている。
「あの、さっき一緒にいた奥野さんって俺の友達なんです。一緒に学食でも食事したことがあって、それで」
奥野さんの名前を出した瞬間、彼女は涙だけでなく、悲しみを声に乗せてしまった。こういうときの対処法は、優しく抱きしめて頭や背中を撫でたりしなさいと姉情報だ。だが初対面の女性にしたら、俺は確実に捕まる。手錠はかけられたくない。幼少期に泣き喚く姉の頭を撫でようとしたら、今じゃないと怒鳴られた。納得できない。
「奥野さん絡みですか?」
警察官はいないが、腫れ物に触れまいと、距離を置いて人だかりができ始めていた。携帯端末をかざそうとする人もいて、社会のひんやりしたものが身に襲う。
「仲……良いんですか……?」
「ど、どうだろ……奥野さんもそう思ってくれていたら嬉しいけどさ、うん。話を聞くくらいならできるよ。俺、花岡志樹っていいます」
「知っています。七海とよく一緒にいますよね。私は水橋有栖です」
奥野さんのことを名前で呼ぶ間柄のようだ。間近で見ると、人形のように可憐な人だ。涙を止めて笑ったら、ますます可愛らしい人なんだと思う。
ルイにメールを送った。友人の友人が困っているので連れていってもいいかと送ると「どうぞ」と一言。頼もしい。
「俺がアルバイトをしている店なんだけどさ、店長がとびきり素敵で優しい人なんだ。目がぶっ飛ぶくらいの美しい人で」
「…………へえ」
「ああいう立ち振る舞いや優しさを振りまける人って魅力的に感じる分、ちょっと寂しくも思える」
「人にばかり気を使って優しい人っているんですよね。私からすると、七海がそのタイプです」
通い慣れた道を通り、エレティックに着いた。怪しげな地下への通路に戸惑いを見せていたがら俺かドアを開けると彼女はゆっくりと下りてくる。
「ひっ」
「ようこそ、エレティックへ」
スーツからバーテンダーの姿になっていた。店を開けるにはまだ早い。
「男の人だったんですね……」
「女性に見えましたか?」
「いえ、そうではなく……。花岡さんが、目がぶっ飛ぶほど美しいと言っていたんで、勝手に女性だと思い込んでいました」
「どうぞ! カウンター席へ!」
ルイの目が見られない。怖い。ルイは褒められることを良しとしていないのだ。こそばゆいとかそういうレベルではなく、皮膚を抉られるような痛みを目に宿す。それでも、小さな友情を伝わってほしいとも身勝手に思う。嫌いな相手を褒められるほど、俺はできた男ではない。
「あの……私、お酒飲めなくて」
「ならば別のものをお出ししましょう」
鍋でミルクを温め、蜂蜜を垂らした。沸騰する直前に止め、マグカップに注ぐ。
「少しだけ、蜂蜜の量を多めにしました」
「……美味しい。バーテンダーさんは、ホットミルクを作るのもお上手なんですか? 私も作った経験がありますが、こんなに美味しくできなかった」
「風味が落ちますので、沸騰しすぎに注意することです。あとは蜂蜜とミルクを全体に混じるよう、しっかりとかき混ぜる」
「今度やってみます」
ルイはもう一つマグカップに入れ、水橋さんの隣に置いた。
「さっき言い忘れてましたけど、助けて下さりありがとうございます。七海と喧嘩してしまって」
「何があったんですか?」
「友達でいるのが辛い、もう会いたくないと言われました」
「あー……」
ルイは俺を見やる。理由は分かっているだろうが状況判断をしっかりやれと諭された。
「事情は聞いてみたんですか?」
「はい……。だんまりしちゃって、無理の一点張りで」
それはそうだろう。恋愛感情としてあなたが好きですなんて、奥野さんの立場からすると言えるわけがない。けれど、彼女はこのまま隠し通すつもりなのだろうか。
「奥野さんは今、頭に血が上ってる状態なんだよ。自然と冷えるまで待った方が……」
「その間に七海が私から離れていったら……」
「そっそれはないかと……」
困った。手助けをしたものの、俺には彼女を慰める技量も話術もない。そこまで人生経験を積んでいない。お節介な自分が腹立たしいが、奥野さんのためにも良い方向へ持っていきたい。
「お節介かと存じますが……」
一瞬、自分が言われたのかと思った。
「根本は水橋様が何かきっかけとなったように存じますね」
「わ、私ですか?」
「理由を伺い、『無理』とはなかなか返さないかと。あなたに知られたくない秘密を持ってしまい、それを必死で隠そうとしている。話さなくなったきっかけがどこかにあるはずです」
「きっかけ……」
水橋さんがマグカップに視線を落としたタイミングで、俺はルイに視線を向ける。何か、口の形が四つの文字を表している。分からない。顔をしかめると、ルイはもう一度口を開いた。こういうときは母音となる音を拾うのがいい。ああえお。三文字目の口の開き方から、「合わせろ」だと察した。
「何も知らない第三者の者が理由を聞いても、日本人は『ちょっといろいろあって』とごまかすように感じます」
「……合っているか分かりませんが、私がテニスサークルの先輩と仲良くなってから、様子がおかしくなった気がします」
「テニスサークルだったのですね」
「はい。ずっと続けていたので、大学でも入ろうと思ってたんです。その……とある先輩とご飯を一緒に食べたり、テニスを教えてもらったりしているうちに好きになって。振られちゃったんですけどね」
「心中察します」
振られた経験がなさそうだが、ルイの目は憂いを帯びている。聞いてはいけない、まずは水橋さんだ。
「これはあくまで、私の勘なんですけど……」
「構いませんよ」
勘です、と水橋さんは二度呟いた。
「七海は……平川先輩のことが好きだったんじゃないかなって思うんです。校舎からよくコートを眺めてるし、決まって平川先輩がいるし」
違う、違うんだ。そうじゃないんだ。開きかけた口を噤み、鼻で大きく深呼吸をした。落ち着かないと、言葉がどんどん飛び出していってしまう。
「勘であっても、心当たりがおありなのですね。いきなり話題には触れず、メールで間を取ってみてもいいかと」
「メールですか……でも、やっぱり会って話したいです」
「心に決めたのなら、それも方法の一つでしょう。ですが、奥野様の気持ちを優先して差し上げることも大事だと思います。片方が会いたくても、片方は嫌がっては言い合える関係性は築けないかもしれません」
「ありがとうございます。聞いて頂けて、ちょっと楽になりました。花岡君も、どうもありがとうございます」
「…………いえ、良かった」
水橋さんは立ち上がり、俺も地上まで見送るが、ここでいいとやんわりと断られた。来たときと違い涙は晴れたが、果たしてこれで良かったのだろうか。
カウンターのマグカップは綺麗に片づけられていた。何食わぬ顔でカップを拭くルイは、何を思うのだろう。
エプロンを身につけてフロアに戻り、ひと通りの掃除をした。ルイは綺麗好きだ。何度掃除してもいいらしい。
「ごめんな、いきなりお客さんを連れてきて」
「真逆だな」
「何が?」
「水橋様は帰り際、幾分かすっきりした顔立ちになってた。連れてきたお前がなぜそんな顔になっている」
「あー、うー、難しい質問だ」
「事情を知っているが、それを言える立場にないので頭を抱えているのか」
「なんで分かるんだよう……」
「カウンターから見ているお前の顔は百面相で面白かった。話してみろ」
奥野さんの気持ちは言えない。いくらルイであっても、そこは奥野さんの気持ちをばらしてはいけないのだ。
「……個人的に気になったから聞くんだぞ? そこは誤解しないで聞いてほしい。もし、一番の同性の友達に恋心が芽生えたらどうする? 気持ちを伝える?」
なぜ今度はルイが頭を抱えているのだ。そのため息はなんだ。
「誤解はしないが、ある意味別の誤解はするがな。答えよう。時と場合による」
「ん? 誤解?」
「相手が同性愛に抵抗がなければ言う」
「こればっかりはどうにもならないもんなあ。中には偏見がある人だっているだろうし」
「そういうことだ」
「なんで異性同士が惹かれ合うんだと思う? 誰が最初に決めて、なんで偏見のある世の中になっちゃったのか」
「遺伝子を後世に残す点を踏まえれば、異性愛が自然だろう」
淡々と言うが、ルイの顔は不満の色が滲み出ていた。感情と理論は別だと、目がそう言っている。
「フランスって同性婚できるんだよな? 日本より偏見なさそうに感じるけど」
「日本人とフランス人の気質が違うだけだ。私から見た日本人は愛想がよく、内輪を大切にするあまり自分の意見を大きく言わない。フランス人はとにかく個を大切にする。感情を表に出すか出さないかだけで、偏見があるのはどちらも変わらなく思う」
ドアベルが鳴り、本日のお客さんが来店だ。疲れた顔のサラリーマンで、男性は迷わずカウンター席に座る。強いものを、それが彼の注文内容だ。ブランデーとホワイト・ペパーミント・リキュールをシェイカーに入れ、振る。カクテルグラスに注ぐと、琥珀色の液体が揺れた。
「スティンガーでございます」
男性はルイの顔を穴が空くほど見ていて、目が合うと口元に不機嫌だと歪ませた。
「……美味い」
不機嫌だと思っていたが、こういう顔のようで、口元に皺が刻まれている。眉間も皺を溜める癖があると、溝になってしまう。
「あの……」
ルイではなく、男性は俺に遠慮がちに会釈した。
「イケメンが側にいるって、どんな感じですか?」
どんな質問だ、と言いたくなるが、難解パズルを見つめるほどの真剣な眼差しに、何も言えなくなる。
質問の底に埋まっているものが見えずに躊躇していると、男性は身振り手振りで否定した。
「いきなりの質問ですみません。どうしても羨ましくなってしまって……これだけ素敵な方だと、何の苦労もせずに育った気がして……」
そんなわけがないだろう、と口を開くが、ルイの顔を見て何も言えなくなってしまった。
菩薩のような微笑みの中に、一瞬だけ背筋がひやりとする笑みが交じる。
最近思うが、苦労しないのではなく、顔面の社会的不利がない分、別の箇所へ攻撃が耐えないように感じる。バーには男女の客人が多いが、女性がルイに見惚れると男性は決まって不機嫌になる。そうすると、男性からルイへの不躾な攻撃が始まる。立場上、ルイは曖昧に笑って見過ごすだけだ。一度、ルイが控え室で盛大なため息を吐くのを見たことがある。何度も顔に手をやり、顔に怨みでもあるのかというほど苛立ちを隠せない。
今のように攻撃的な言葉ではなくても、答え方によってはルイは罵倒される可能性もある。不謹慎でえげつない言葉を浴びせられ、微笑んで耐えなければならないのだ。
「あー、あの、別に顔だけが世の中の恩恵を受けるわけではありませんからね。有利はものもあるかと思いますが、不利なものもありますよ」
「……そういうあなたも、恩恵を受ける一人では?」
「え? 俺は有り得ないですよ。モテた試しなんてないですし」
男性は不服そうな顔をした。
「不利なものってなんですか?」
「そ、そうですね……」
ルイは黙ってグラスを拭いている。変顔の一つでもしてくれればいいが、生憎そんなキャラクターでもない。
「今、まさにこの瞬間かと」
ルイは伏せていた目を開き、驚いた顔で呆然としている。
言うぞ、いいのか、言っちゃうぞと目を合わせても、ルイは止めていいのか分からないでいる。まだそこまで、彼とは意志の疎通は取れていない。
「店長にとっては、美味しいカクテルを提供する側を飲みにきて下さったお客様でしかない。枠を越えるということは、それ相応の返答も覚悟すべきことかと思います。すみません、アルバイトの分際で生意気言って。何度も店長が言葉の刃で刺されているところを見てきているもので」
褒め言葉であれば、慣れてほしいと思っていた。けれど俺の考えが間違っているのではとも最近思うようになった。慣れてほしい、もっと前向きになってほしいなんていうのも押し付けでしかなくて、そもそもルイは良かれと思っていない。ならば、例外なく俺もルイからしたら不本意な行動をする輩でしかない。
俺は失望し嘆息を漏らすと、ルイは語り始めた。
「幼少時の記憶が、私をそうさせているのかもしれません。日の当たらない場所での生活、遊んだり勉強をしたり……友人を作ったり。そのように、私は自由に生活できる方が羨ましい。怨んでも嘆いても、子は親を選べないし、親も子を選べない。自由でバーテンダーを選択しているように見えても、実際は手足に枷をはめられている。成人を迎えて外へ飛び立ち、いきなりお褒めの言葉を頂いても、素直に受け取れないのです。嫌みなくまっすぐに言葉を下さる方が隣におりますが、最近では不愉快な気持ちも薄れてきました。それは私が絆されているのか、慣れてきたのか存じませんが。素直になるには、まだまだ長い月日がかかりそうです」
目の奥にじんわりと熱がこもった。ゆっくりと広がり、やがて目が潤い、流れる前に後ろを振り返った。頭を傾けたおかげで頬を伝うことはなかったが、靴に数滴染み込んでいった。
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