第22話 ハニー
一日目は特に何の不自由もなく寝泊まりし、二日目はルイから連絡が来た。これから北海道に行くらしい。明日の朝帰ってきて、すぐにここへ様子を見に来てくれるそうだ。嬉しいが、無理はしないでほしい。部屋から出るなと念押しつきだ。そんなに出てほしくないのか。四十度近い気温であれば、確かに出たくはない。残ったバームクーヘンやアイスコーヒーも飲んでいいと言われているし、数日間の食品は充分にある。今朝はロールパンと目玉焼きを作った。焼き加減はオーバーハードだ。
「暇だ……」
勉強しろというルイの言い分も分かる。けれど、頑張っても集中力というものは長くは続かなくて、休憩しても心がざわつき始めたら無理なのだ。こういうときはノートパソコンを閉じ、別のものに切り替えるに限る。
メールが届いていてルイからだと思って見てみると、待ってはいない男からだった。
──いつだって、お前を見ている。
最初の頃と比べて、先輩は言葉遣いも段々変わってきている。下手に出ていた態度は、最近では獣の皮を被った人間と化していた。俺はすべて画面を保存している。何かあったときのためだ。
気分転換に、本棚にあるカクテルの本を開いた。ルイは俺に作らせようとはしないが、見ていると俺にもできると錯覚を起こす。冷蔵庫には牛乳、棚にはインスタントコーヒー。アルコールはないが、真似事くらいはしてみようと、インスタントコーヒーを水で溶かし、牛乳を混ぜる。一応、製法はビルド。グラスの中で材料をすべて入れて混ぜる方法だ。ルイが撹拌させるとほとんど音が鳴らないが、俺が回すと氷も入っていないのにガツガツと醜い音が鳴る。
飲料の名前は『コーヒー牛乳』。撹拌させて作ったと得意気に写真を送ると、ルイは「Très bien」とくれた。どんな状況でも使える、便利な褒め言葉だ。コーヒー牛乳よりも、ルイの言葉が気分を変えてくれた。
きっかけがあれば、空気もやる気も変わる。勉強に集中し、気づいたらまた数時間経っていた。フランス語でのレポートはこれで終わりだ。出来の良し悪しについては何とも言えないが、努力賞は頂きたい。
翌日、有言実行の男は帰ってきた。キャリーケースと紙袋を持ち、相変わらず水色のリボンを揺らしている。行きよりも帰りは疲労の色が垣間見える。
「ちょっと休んだ方がいいよ。風呂は? 先に寝る?」
「……シャワーを浴びる」
「今日も仕事? 俺としてはゆっくり休んでほしいんだけど」
「休みだ。ほとんど寝ていない」
ルイは俺に紙袋を渡すと、スーツの上着をハンガーにかけた。
「なんか、新婚みたいだな」
「……………………」
「いつも家に誰もいないからさ、あったかくてほわほわする。お、俺の好きなお菓子だ」
「ハニーとでも呼べばいいのか?」
「え」
真顔は冗談なのか本気なのか。
「うーん……悩む」
ポーカーフェイスから気持ちを知り得るにはまだ修行が足りない。今はどんな気持ちでいるのか、判断に悩む。
ルイは驚き、口を噤んだ。そしてシャワールームへ行ってしまった。
「どうしたんだよ、ルイ」
俺へのお土産だろうと紙袋の中身を並べると、北海道お馴染みのホワイトチョコレートを使ったお菓子と、初めて見るものが入っている。
「北海道……蜂蜜?」
北海道で採蜜された蜂蜜のみを瓶に詰めましたと、ご丁寧に書かれている。蜂蜜、それはフランス語ではミエルと呼び、英語ではハニーという。
「ハニー……まさか」
蜂蜜の瓶を眺めていると、バスローブ姿のルイが来た。濡れた髪は色濃くなり、返照して眩しいくらいだ。
「ルイ! これ! ハニー!」
「…………何だ」
「ハニーだよ、フレンチジョークってことだな! 理解できなくてごめん」
「……………………」
洗い立ての身体はまだしっとりと濡れているのに、ルイは踵を返してしまった。
「どうしたんだ?」
「…………水を浴びてくる」
「止めておけって。風邪を引くぞ……なんか怒ってる?」
「別に」
昔、姉も機嫌が悪くなることが度々あった。きっと俺としては何かへまをやらかしてしまったのだろうが、姉は理由を言わなかった。何か飲もうとキッチンに行くと、俺が食べ終わった後の食器がそのまま置いてある。面倒だったが片づけた。きっと、ご飯を作ってくれた姉はもっと面倒だったのだと思う。風呂から上がった姉は「やればできるじゃん」と言い残して、デザートのアイスを二人で食べた。後腐れなく、姉はそれ以上、話題に触れなかった。
無意識に女が家事をやるべきだと押しつけていたのかもしれない。俺の育った環境では、男は料理を一切しない家だったので、それが当たり前になってしまっていた。それから、俺はせめて自分の分は自分でやろうと誓った。
ルイの怒りに触れてしまったことは、きっと俺が何かしらやらかしてしまったからだ。けれども特に思いつかない。言われたことは全部行った。
「……もしかして、」
朝食がなかったために怒っているのか? 空腹だと無性にイライラが溜まってしまう。俺と同じ朝食を作ることにした。目玉焼きの焼き方はオーバーハードで、両面をしっかり焼いていく。フランスで半熟卵を食べるか分からないため、争いの種は取り除くに限る。
水を浴びたルイは先ほどよりもすっきりしているように見える。テーブルの上の朝食を見て、立ち止まった。
「……食べる? 作ったんだけど……」
「ああ」
「なんか、ごめん。俺って人をピリピリさせる天才かも」
「お前は何も悪くない。それと、蜂蜜はカクテルに使う。新しいものを開発するために買ってきた」
「蜂蜜にカクテルかあ。あんまり聞いたことがないかも」
ロールパンと目玉焼きという質素な食事にも文句をつけず、ルイはフォークを動かした。目玉焼きには何もつけないで、そのまま食べている。一応、醤油や塩胡椒も用意したのに。
「フランス人ってさ、生卵や半熟卵って食べたりするのか?」
「お前のよく知るものに、生卵が入っているだろう」
「え?」
「アイ・オープナー」
「ああっ」
あれがあった。カクテル言葉と味が一致しないカクテルだ。アプサントだったりアブサンなど、いろいろな読み方をする薬草の入ったリキュールを使用する。とにかく強烈で、目が覚める。
「ゴールデン・フィズというカクテルもある」
「どんなやつ?」
「フィズというのは、レモンジュース、砂糖、炭酸水などを混ぜたものだ。ゴールデンとつくだけに、色は黄色」
「エレティックでも出してたっけ?」
「いや……注文があれば作る。それにカクテルだけではない。タルタルステーキも、フランスで食べる」
ふたりでフランス料理に花を咲かせた後、ルイはベッドで眠りについた。ルイの寝顔は貴重だと思っていたら、丸々布団を被って寝てしまった。悪戯にはみ出た金髪を引っ張ってみると、無言の重圧感が空気を通して伝わってきた。黙って勉強しよう。
目を空けると、勉強の最中に昼寝をしてしまったらしく、またもや身体に毛布が掛かっていた。
部屋を出てフロアに行くと、ルイはカクテルを作っていた。買ってきた蜂蜜の瓶も空き、何種類かの瓶も並べている。
「寝起きの目がしっかり開いたら、アルバイトをしてみる気はないか? 非常に困っている」
「今日は店開ける日じゃないだろ?」
「上から目線の試飲を頼みたい」
「新しい試作品かあ。俺でよければ喜んで。タダでお酒飲めるなんて申し訳ないくらいだから、他にも何か仕事頼んでよ」
「無料ではなく、アルバイトだと言っただろう」
「お金は出すってこと? そこまで俺の舌を信用されても困る」
「……お前を信じる」
「すごい資格持ってるんだからさ、ド素人の俺よりいいと思うけど」
何を言ってもルイは大丈夫の一点張りで、聞き入れようとはしなかった。
「蜂蜜って、味が独特だよな。お酒に合うとなると限られてきそうな気がする。無味のウォッカにしてみるとか」
「よく覚えていたな」
ウォッカは無味無臭だと、ルイに教えてもらった。度数が強いので注意が必要だと。
「蜂蜜を全面に出したいのならウォッカでもいいが、それだと味に個性が出ない。邪魔をせず、それぞれの持ち味が出せるカクテルを作りたい」
カウンターに並んでいるアルコールは、注文が多く何度も使ったものもあれば、初めて見るものもある。気づいたこと、というほどではないが、疑問を口走っていた。
「ルイって日本酒は嫌いなの? 日本にいていっぱい手に入るんだから、使ってみるのもいいかもよ」
「……日本酒」
ルイは独り言を呟くがさっぱり分からない。
「なんて? そんな早いと全然分かんないよ。ただでさえフランス語は意味不明なのに」
「早いと言いつつ、フランス語だとなぜ分かった?」
「えー、なんとなく……? 発音とか、要所要所で聞こえる単語とか」
「耳が鍛えられている証だ。話は代わるが、日本酒は頭になかったな」
「日本酒っていっても、けっこう種類があるんだよ。純米酒や本醸造酒なんかに分けられる。純米ってついてると米と米こうじのみのお酒で、米の甘みがしっかり感じる。本醸造酒は、米や米こうじに加えて醸造アルコールが入っているもの」
「吟醸酒というのは?」
「精米歩合によって、大吟醸だったり吟醸だったりつけられるんだ」
「精米歩合?」
「米の表面を何パーセント削ったかってやつ。大吟醸になると、めっちゃ削ってる。確か半分は削るはず」
俺の説明で分かるのかと疑問に思うも、ルイは質問を何度か繰り返し、理解したと締めた。造り酒屋の息子として、答えられないとさすがにまずい。眉間に皺を寄せた、懐かしの親父の顔が浮かんだ。
「理解はしたが、あくまで最低限の知識だけだ。私には日本酒の勉強が必要だな」
「それいいな。俺には外国語、ルイは日本酒の勉強が必要ってことで。……そういや、蜂蜜の酒ってなかったっけ?」
「ミードと呼ばれているものだな」
フランス語でもルイは発音する。カタカナ語にすると、イドゥローメルが近い。
「ハニー酒と聞くと甘みのある酒に思われがちだが、辛口もあるし幅が広い」
「ハニー」
「……もう忘れろ」
「嫌だよそんなの。忘れない。ルイにハニーって呼ばれるのって貴重だし」
「その話は分かった。もういい。試飲を頼む」
ルイは頭を抱えた。ルイから言い出したことなのに。
そういえば、ルイには愛称ってものがない。海外でもマイケルのことをマイクと、ロバートをロブと呼んだり、法則に基づいたニックネームがある。ルイという名前の愛称は聞いたことがない。上司をあだ名で呼ぶのもどうかと思うが、ハニーと呼ばれ心乱され、何かあだ名があるのなら可愛い子供の悪戯程度で呼んでみたくなった。
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