第21話 ベルナデット・ドロレーヌ
ベルナデット・ドロレーヌ。ルイの口から出た女性は、モデルの聖地を歩いてもおかしくないほど、とても美しい女性だった。ルイと同じ赤みがかった目を持ち、ブロードヘアーを巻いて長い髪が揺れている。日本に強い想いを抱いていて、フランスに怨みがある。
そして、俺の上司の名はルイ・H・ドルヴィエ。魔法を唱えるように連呼していたら、ルイは微かに笑って「今まで通りルイと呼べ」と言った。
──ルイは本名?
──ああ。嘘はない。ベルのファミリーネームはドロレーヌで、私はドルヴィエだ。
ベルと呼ぶ様子からして、親しい仲なのだと思う。彼女のことを思うルイは、楽しげに語る様子ではない。窃盗罪に問われる彼女を思うと、簡単に思い出話をできる立場でもないのだろう。
八月に入り、本格的な暑さが日本を襲ってきた。夏休みだからといってだらだらしていられない。だがだらけてしまう理由ができたのだ。決してさぼりたいわけではない。
押せども押せどもリモコンに反応しないエアコンは、プラグを抜き差ししても、掃除をしても、まったく動いてくれないのだ。ご機嫌が斜めどころか、眠いので起こさないで下さい状態だ。
「暑い……死ぬ…………」
扇風機を稼動するが、つけないよりはまし程度だ。ネットで集めた情報を頼りに、凍らせたペットボトルをテーブルに置き、風を起こすとだいぶ生きた心地が戻ってくる。暑さの中、俺は生きているんだと実感できた。暑さもまともに感じられなくなったら本当の地獄の始まりだと知った。
──宿題は終えたのか?
俺の上司は勤務中の俺の様子だけでなく、普段の私生活の心配までしてくれる。鬱陶しいと思うか有り難いと思うかは人それぞれだが、俺は間違いなく後者だ。親か、と突っ込みを入れたい。
──大変なことが起こりました。
──なんだ、その気持ちの悪い敬語は。気色が悪い。
──ゴキブリ扱いは止めてくれ。エアコンが壊れたんだ。
一分と経たずにコール音が鳴る。
『お前はどうやって今まで生きてきたんだ』
「今朝つけたらつかなかったんだよ。もう本当に最悪だ。今日は熱帯夜になるらしいし、明日はミイラになって発見されるかもしれない」
『ミイラになるにはまだ早い。あれは数か月かけて徐々に……』
「ごめん、聞きたくないわそれ。エアコンの修理業者に連絡したら、他にもたくさん依頼があったみたいで数日かかるって言われちゃって」
『…………そうか』
ルイはしばらく俺の愚痴に付き合ってくれた後、思いも寄らない提案をしてくれた。
エアコンが直るまで、エレティックの控え室を使ってもいいという提案だ。嬉しいは嬉しいが、俺にとっては破格すぎて何かあるとしか思えない。
「それ、俺にとっては良すぎるくらいの案なんだけど……」
『ただであればお前も気が引けるだろう。頼みがある。エレティックと控え室の掃除と、食材の買い足しだ』
「そんなんでいいの? 他には?」
『レポートをやれ。まだ終わっていないとはどういうことだ』
「これでもけっこう頑張ってんの! それにまだ夏休みはあるって。英語とフランス語で書かないといけなくてさ」
『フランス語?』
「成り行きっていうか……ちょっと興味持ってさ、二つの言語を学んでんの」
ルイの影響が占めているが、恥ずかしくてしどろもどろになってしまった。
『では控え室で寝泊まりをする間、フランス語バージョンのレポートを終わらせるように。特別に私が見てやろう』
「うげえ……まじで?」
『なんだその声は』
「本場の人に見てもらうのって恥ずかしいんだよ」
『語学を学べるいい経験となる。ついでにたまには会話もしてみるか 』
最後に、勉学を怠るなと言われ、アヴィヤントと耳に残り、電話を切った。日本語で『またね』に該当する。学校の講義で聞くより、やる気が上昇する。
ノートパソコンや着替え、最低限の荷物を持って家を後にした。想定外のルイの考えには毎度驚かされっぱなしだ。今回も本当に助かった。俺なりの事情があり、エアコンの問題にかかわらず、できれば家に居たくなかったのだ。
帰るたびに家具の位置がほんの少しずれていたり、俺の体臭ではない生臭いものがこもっている気がして、気がおかしくなりそうだった。何か盗られたわけでもないし、勘違いで終わるほど微々たるもので。警察含め、誰にも相談できずにいた。
念のため、何枚か写真を撮った。枕の角度や干してある洗濯物の枚数も数え、カメラに収める。
アパートを一周回ってみたが、怪しい人物はいない。池袋駅に向かい、ビルの地下に降りた。
──今日は店を開けない日だ。誰か来ても、私以外は入れないように。
──了解。
金庫もあるし、当然と言えば当然だ。ルイならば鍵を開けて入ってくるだろうし、俺は黙って勉強をしていればいい。買ってきた食材を冷蔵庫に入れ、俺はノートパソコンを開いた。控え室にあるものは何でも使っていいことになっているので、俺は遠慮なしにエアコンをつけた。
「生き返る……なんだこれ……天国って本当にあるんだな……」
ほんの少しだけ、ちょっとだけだ。目を瞑ると、かき氷にスイカ、なぜかバームクーヘンが見えた。長いこと縁のない食べ物たちだ。池袋の地下には、美味しそうなバームクーヘンが並んでいる。
少しだけうたた寝をするつもりだったが、意識は完全に途絶えてしまった。
目が覚めたとき、何度か瞬きをして天井から降り注ぐ明かりを受け止めた。身体には毛布がかかり、季節外れの寒さで凍えることはない。
テーブルに置いたはずのパソコンは無くなっていたが、すぐに判明した。横に座るきれいな男が、俺のパソコンを盗み見……ではなく、堂々と見ている。
「いやーっ! なんで見てんだ!」
「寝不足だろう? 幾分か目の下の隈はましになったが、先ほどまでは酷かった」
「まだ手直しが終わってないんだって!」
「バームクーヘンがあるが、食べるか?」
「バームクーヘン……!」
質問の投げ飛ばしを繰り返し、終着点はバームクーヘンだ。
「俺の夢を覗いたのか?」
「パソコンは覗いているがな」
「スイカとかバームクーヘンの夢を見たんだ。池袋のデパ地下で売ってるけど、いつかちゃんと稼げるようになったら買おうってずっと思ってた」
「そこまでバームクーヘンに夢を抱いているとは、ドイツ人も大喜びだな」
まさしく樹木のように、歪に見えて綺麗に形どった縦長の菓子だ。
さっそく切れ目に包丁を入れて輪切りにし、皿に並べた。冷蔵庫にはアイスコーヒーも入っていたので、グラスに氷を入れてテーブルに置く。ルイには飲むかと聞いていないが、多分飲むだろう。バームクーヘンにはコーヒーが合う。
「寝起きでよくすぐに食べられるな、お前は」
「育ち盛りなんだよ。もっと食べていい?」
「構わん」
もう一枚切り崩し、皿に盛った。
「俺のパソコンを見てるけどさ、何かコメントくれよ」
「習い立てにしては上出来だ」
「……ダメなところってどこ?」
「細かく言えば、きりがない。食事を取りながら会話でもしてみるか」
「いきなり? 難易度高くない?」
「別に味付けはどうのと話すつもりではない。美味しい、これは魚です、揚げました、煮ましたなど、簡単なものでいい。発音が悪ければその都度指摘しよう」
有り難い、有り難いけれど。これはお金を払って教えてもらうべきことだ。いいのだろうか。けれどルイのことだから、金銭は受け取らないだろう。
「他に何か、してほしいことってある?」
「黙って勉強しろ」
「言うと思った……頑張るよ」
「何も学年でトップを取れとは言っていない。できる範囲でやっていけば、必ず身につく」
アイスコーヒーとバームクーヘンのおかげで腹は満たされた。
「家に人がいるってだけで、安心するよなあ」
「何かあったのか?」
「え? いやいや、一人暮らしだからさ、ご飯作っても誰も食べてくれないし。ルイは帰る? 夕飯は?」
「ここで取る。何か弁当でも買ってこよう」
ルイは財布だけを持って、外に出た。時刻は十六時。けっこう寝てしまったらしい。
ソファーから起きて身体を動かしていると、ルイが座っていた場所に置きっぱなしのノートがある。
「うっわ……」
びっしりと書かれた文字はフランス語であり、何が間違っていたのかは簡単な英語で説明を入れている。日本語は一切ない。ここまでしてくれる上司の期待は裏切りたくない。
ルイは俺の知る人間の中で世界一優しい男で、この人が困ったときには俺も何かしてあげたいと思う。けれど、俺が悩みの種を蒔いている気がする。汚れた芽を根こそぎもぎ取るのではなく、ときにはどうしたら綺麗な花を咲かせられるのかと考えてくれる優しさだ。
テーブルに置いたままである端末が鳴った。ルイのものだ。勝手に出るわけにはいかないのだが、一度は止まったものの二度目が鳴り、ルイ本人か緊急の用かもしれない。
画面には『YURI』。心臓が大きく跳ね上がった。ルイの師匠だ。弟子の教え子だと挨拶すべきかどうか、俺はルイの端末をタップした。
『……ハロー?』
「あ、あの……ハロー。俺、志樹といいます。花岡志樹です」
『…………しき』
日本語が通じるはずがないのに、出てくるのは日本語だ。いろいろと泣きたい。国際に通ずる男には程遠い。
廊下では足音がした。ルイが帰ってきたのだ。ドアを開けるとルイは驚いてぽかんとした顔をしている。珍しいものを見られた。
「ルイ、ごめん! ユーリさんから電話で、緊急だと思って出ちゃったんだ」
「フランス語で話せたか?」
「いや……なんかハローって言ってた。それは聞き取れたぞ!」
「そうか、偉いな」
心のこもっていない褒め言葉を頂いた。電話の奥で、笑い声が聞こえる。まさか日本語が聞き取れるのか? いい加減、どこの国の人なのか知りたくてむずむずする。
ルイはフランス語で話し始めた。理解できたのは最初のボンジュールだけで、あとはさっぱり分からない。時々、「志樹」と俺の名前が出ていたので、俺の話もしているのだろう。
「ユーリから伝言だ」
ルイは電話を切り、ご飯を冷蔵室に入れた。
「フランス語、せめて英語の会話を難なくできるように、だそうだ。いずれ必要になるときがくると」
「俺の英語力はどんなもんかなー……」
「笑っていた。素晴らしい、だそうだ。それと、数日間はここで勉強に励め。あまり外をうろうろしないように」
「レポートが全然終わってないからな。分かったよ、頑張る」
ルイは何か言いたげに俺を見ては後ろを向き、部屋を出ていってまった。
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