第10話 弾けるワイン

──お前の一番大好きなバニラのアイスを買っておいたぞ。いつでも来ていいからな。

──大切な誰かを亡くしたのか?

 まずは前者からだ。俺は一言もバニラアイスが一番好きとは言っていない。もちろん好きだが、頂点に君臨するアイスではない。バニラの棒アイスが冷凍庫に突き刺さっている。ご丁寧に画像つきだ。

 そして後者だ。あれだけ長時間一緒にいてジョークを言ってプロテインについて語ったのに、こんな大事なことは通話アプリを通して送ってくるあたり、俺と店長の距離そのままでちょっと悲しくなった。

 なんて送ろうか指がさまよい、ありのままをタップした。別に隠しているつもりもない。地元では、ちょっとした有名人だった。

──俺のおばあちゃん。元気だったのに、学校から帰ったら死んでた。

 事実そのままだ。ただ、真実は語っていない。口にできるほど、俺はそれほど強くない。

──そうか。大変だったな。

 バニラアイスよりも心に突き刺さる言葉だ。比べてはならない。どれほど重みがあったかというと、ルイからのメッセージを見た途端、一筋の涙が頬に落ちるくらいには。




 憂鬱そうに窓の外を眺める彼女の先は、テニスサークルの生徒が楽しげに笑い合っている。俺たちくらいの年齢は鉛筆が転がり落ちても笑える年齢だと誰かが言っていたが、少なくとも俺や奥野さんには当てはまらなそうだ。

「もしかして、あの中に好きな人がいるの?」

 細い肩が揺れると、長い黒髪も落ちる。

「花岡には関係ないって言いたいけど、ある意味当事者だわね」

 去年、彼女から渡された弁当は、誰かにあげるつもりだったものだ。

「どうしてあのとき、俺にくれたんだ?」

「たまたま近くにいたってだけ」

「あ……そう」

 分かりきっていた事柄でも、はっきり言われるとやはりショックだ。

 テニスサークルは男女混合で試合でもするつもりなのか、くじ引きで決めている。

「同い年?」

「ええ」

「あのさ……また挑戦してみたら?」

「……お弁当を作って渡せって? 無理よ」

「なんで?」

「だって……」

 クールビューティーだと思っていたのに。

 誰かを想う奥野さんは、白い肌がほんのり桜色に染まっている。ギャップがとても可愛らしい。髪が黒い分、余計に目立ってしまっている。

「別にいらないって振られたわけじゃないんでしょ?」

「まあ、そうだけど。お弁当を渡そうとしたら、自分で作ってきていて、先輩と食べようって誘っていたのよ。頼まれて作ったわけじゃなく、私が勝手に作ったのよ」

 弁当へのトラウマは違えど、痛いほど伝わる。

「五月の連休は、花岡は予定あるの?」

「金土日はバイトがあるよ」

「何の?」

「バーテンダー」

「え…………」

 好きな人より俺を向いてくれたことは嬉しいけど、なんでそんなに驚いているんだ。

「俺が作るわけじゃないけど。グラス洗ったりとか、フロアの掃除したりとか」

「うまくいってるの?」

「それはもう。店長がすごい美人なんだ。見てると元気をもらえるし、目の保養。妖精みたい」

「ふうん」

 奥野さんは、興味なさそうに窓を閉めた。

「一日だけ、ちょっと買い物に付き合ってくれない?」

「俺と?」

「ええ、バーで働く腕前を見せてほしくて」

 こういうニヒルな笑みは、奥野さんはとても似合う。陰りのある面貌は、ルイも共通している。もっとはっきり言うと、美人はどんな顔も似合う。

「けっこうお酒を飲むのよ。一緒に選んで」

 二つ返事しかない。女の子とデートなんていつぶりだろう。おかしい。思い当たらない。記憶の中で、姉が邪魔をしてくる。

 けっこうお酒を飲むと言っていたが、どの程度なのかは人による。実家が造り酒屋なだけあって、日本酒を一升飲むといえば、普通より少し多い程度の感覚だ。もちろん、他人が飲んでいたら気にするが、身内は水を煽るように淡々と開ける。ワインをフルボトルで飲むと聞くと、飲み過ぎなんじゃないかと思う。我ながらおかしい。

 連休当日、先に待っていたのは奥野さんだ。待ち合わせ時間まであと十分。

「待った?」

「待ってないわ」

 池袋から離れた新宿駅。若者に人気の店が並ぶデパートの前で待ち合わせで、奥野さんの黒一色という出で立ちは、店には少しも興味がないという、ばっさりとした意思表示だ。

「ここで待ち合わせて悪いけど、駅のデパ地下に行きたいのよ」

 奥野さんはどこで服を購入しているのだろう。個性的で、横を通る人は二度見する人も少なくない。

「お酒を選んでほしいって言ってたけど、何がいいの?」

「いろいろ飲むけど、最近はワインにはまっていて」

「へえ! 大人の女性って感じ」

「赤でも白でもこだわりはないわ」

「……詳しい人にメールしてみる」

 バーで働いていますとは言ったものの、それほど知識があるわけじゃない。一番印象に残っているのはアイ・オープナーだ。日本酒なら同じ年代からすると詳しいと思うが、ワインはまったくの専門外だ。

──店長様、少し話せますでしょうか?

──日本にいる。なんだ?

 日本にいないときもあるのか。であれば、連絡を取れないときもあるのだろう。

──ワインって詳しい?

──程々だ。

──友達と一緒に買いに来てるんだ。こだわりはないらしいんだけど。赤でも白でも。何がいいかな?

──シャパーニュ。

──なにそれ? 聞いたことはあるけど。

──失礼、シャンパンと言うべきだな。

「シャンパン」

「シャンパン? 飲んだことはないわね」

 口に出してしまったせいで、おすすめとして伝わってしまった。

──舌触りがいい。

──どこの国のシャンパンがおすすめ?

 メッセージの返信より、電話がかかってきた。出ても良いか聞くと、奥野さんは出ろと耳を指差した。

「もしもし? ごめん、忙しい?」

『問題ない。シャンパンについてだが、フランス以外のシャンパンはない』

「え、そうなの?」

『フランスのシャパーニュ地方で作られたものだ。細かい規定をクリアしないと名乗れない』

「ええ……知らなかった。他の炭酸の入ったワインは?」

『スパークリングワイン。値段の関係でシャンパンを購入できないのなら、スパークリングワインにしてもいいだろう』

 電話越しに、ダンケシェーンとカタカナ語で言ってみた。すると含み笑いの後、見知らぬ言葉が返ってきた。

「どういう意味? ビッテ?」

『合っている。ドイツ語では万能な言葉だ。あとで調べてみるといい』

 ドイツはある意味惜しいと言われ、ありがとうくらいは言えるようになってみようと唯一言える単語だ。ビッテも覚えた。多分、どういたしましてに当たる言葉だと思う。

「スパークリングワインがおすすめって言われた。値段も安いものがあるっぽい」

「ならそれにしようかしら」

 新宿のデパ地下は、ルイと行った以来だった。木箱のフルーツはすべて平らげ、もう家にはない。なんとなく、木箱は捨てられないでいる。

 いらっしゃいませ、とにこやかに男性が出迎えてくれた。胸には葡萄のバッジが誇らしい。ソムリエである証だ。

「スパークリングワインはありますか?」

「はい、ございます」

 試飲をさせてもらえると言われ、購入予定のない俺も頂戴することにした。

「日本製?」

「最近は日本でもワインが作られていて、スパークリングワインの売れ行きも好調なんです」

「……飲みやすい。美味しい」

 小さな紙コップでも心配になるほど、奥野さんは煽るように飲む。親戚で集まるおじさんにも似たように飲む人がいた。元気にしているだろうか。

「これにしようかな。日本製なんて聞いたことがなかったし」

「ありがとうございます」

 包んでもらっている間、疑問に思っていたことを口にした。

「何のきっかけがあって、お酒を買おうと思ったの?」

「たまには自棄酒でもしようかと思ってね。でもこれは美味しいから、少しずつ飲むわ」

 自棄酒をしたくなる気持ちは分かる。先輩兼ストーカーからのメールを見るたび、俺も自暴自棄になりそうだった。

 店を出たら、奥野さんは野暮用があると言ってお開きとなった。もう少しいたかったが、それはまたの機会に誘おう。

 店を後にすると、俺もお酒が買いたくなった。戻るのもなんだし、どこか違う店に行こうと歩き出したときだ。

 急ブレーキの音と甲高い叫び声が聞こえ、後ろを振り返った。女性が一人倒れている。手押し車が倒れ、買い物袋が散乱していた。

「大丈夫ですか?」

「車に……」

「当たりましたか?」

「え、ええ……いきなりトラックが歩行者側に乗り上げてきて……」

「手押し車が当たったんですか?」

「ええ……私も勢いで倒れてしまって……」

 肝心のトラックは先を進んでいる。どうみてもひき逃げだ。追いかけようにもすでに先を行っていて、人の足では追いつけるわけがない。回りは携帯端末を出し、撮影している者もいた。これならば捕まるのも時間の問題だろう。

 タイヤを支えているアルミ部分が折れ曲がってしまっている。重傷なのは手押し車で、女性は立つことができ、目に見える傷は腕の擦り傷だ。俺は手押し車を担ぎ上げ、近くの交番に行こうと誘った。動画を撮っていた女性もついてきてくれた。

「君は事故を見ていない?」

「叫び声が聞こえて、振り返ったらこちらの女性が倒れていたんです。トラックは走ってしまっていました」

「だろうね。倒れた人に目を向いてしまうから」

 女性は動画を再生し、一緒に見ると、走り去るトラックは充分すぎるほど見覚えがある。覚えきれなかったナンバーも、ぼんやりとだが記憶に残っている。

 目撃者証言とやらに署名をし、印鑑を持ち合わせていないので指紋で代用した。

「体調悪い?」

「いえ……いろいろ思い出して。俺も警察は得意じゃないもので」

 つい「俺も」と言ってしまったが、ルイと同様に警察は苦手だ。得意な人もいないだろうけれど、ひっくり返したくない過去までは暴きたくない。

「よければ、帰りは送って行きましょうか?」

「あら、大丈夫よ。手押し車なんて持っているけど、足腰が弱っているわけじゃないのよ」

 長い髪のせいで顔はよく見えなかったが、おばあさんと呼ぶ年齢ではない。四十代くらいだろうか。

「仕事に行く途中だったのよ」

「仕事は何を?」

 警察官の問いに、歪んだ手押し車から出てきたのは得体の知れないものばかりだ。カードや水晶玉、怪しげなその他諸々。テレビで見たことがある。

「占い師さん?」

 微笑む姿は感情が読めない。

 決められたノルマなどはなく、一人で仕事をしているものだから、いろんな場所に出没しているのだという。今日は新宿に来たが、不慮の事故に巻き込まれて俺がたまたま通りかかったらしい。

「連休についてないわね」

 占い師なら、先読みして危険を回避できなかったのか。そう言いかけたが止めた。止めるべきだ。お巡りさんも、言葉を呑み込んでいる。そもそも俺は占い師という職業について、何も知らないに等しいのだから。

「……………………」

「今、大学生?」

「まあ……はあ」

「花岡さんは、女難の相が出ているわ」

 先ほど警察官から渡された紙にフルネームを書いたので、そこで俺の名前を知ったのだろう。断じてマジックや摩訶不思議の類ではない。

「今なら無料で占い、あなたを導いてあげる」

「いえいえ、お気遣いなく……」

「任せなさい」

 彼女なりのお礼がしたいのかもしれない。お巡りさんは、後はそっちでやれと、無心を貫いている。

 交番を後にした。この分だと解決もそう長くはかからないだろう。動画を撮影していた女性は関わり合いたくないとさっさと帰ってしまったので、俺と占い師の二人きりになった。

「じゃあ、俺はこれで……」

 もう用はない。立ち去ろうと踵を返すが、そうはいかなかった。

 意外と強い圧力が肩にかかり、恐る恐る振り返ると、怪しげな笑みで小首を傾げていた。

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