第9話 叶わぬ恋

「こちらはクレーム・ド・カシスでございます」

 リキュールの瓶を女性に見せ、洗い物をしている俺に見えるよう、さり気なくラベルを向けた。

 クレーム・ド・カシス。何語だろうかという疑問と、出来上がるカクテルが頭に浮かぶ。恐らく、アレだ。市販でも売られ、居酒屋でも提供されている定番中の定番のカクテル。

「『クレーム・ド』がついたリキュールは、普通のリキュールより糖分が多く含まれ、アルコール度数が十五度以上ある」

 よそ行きの声から対俺用の声になり、女性は驚いている。どちらも本当のルイだ。

 タンブラーに氷とリキュールを入れ、オレンジジュースを注ぐ。そして撹拌かくはん。撹拌は軽く混ぜることで、ステアとも言われる。

「お待たせしました。カシス・オレンジでございます」

 先ほどの花もそうだが、縁に添えるアイテムがお洒落すぎる。オレンジの切り身だけでも美味しそうだ。

「美味しいわ。さっきよりも度数が少ないわね」

 にこやかに微笑み、ルイは何も言わなかった。バーテンダーとして譲れないと意志の固さだ。強いアルコールを出すつもりはないのだろう。

「缶のカシス・オレンジは何度か飲んだことはあるけど、本格的な店ではあまり頼みたいとは思わないわね」

「日本人に愛されるカクテルでしょうが、実際に注文を頂くことは少ないです。変わったものに、視線を集めるのでしょうね」

 カクテルも人も、見慣れないものにはどうしても目を向けてしまう。ルイと初めて会ったときのことを思い出した。

「さっきの続きだけどね、あなたに聞きたいことがあるわ。もし好きな人が別の誰かを好きで、自分は好みの対象からも外れている場合、あなたはどうする?」

 難しい質問だ。

「こういう場合、気を利かせて告白するって答えるべきなんでしょうが……俺は黙ってしまうかもしれません」

「告白すべき、と安易に言う人がいるけど、なぜかしら。他人事だから? 面白い宴会芸でも見ている気分だから? 人の不幸は蜜の味だから? 反吐が出る」

 闇の中に交じる真実は、槍で貫かれるほどのダメージだ。俺も真実に振り回された経験はある。

「可能性はゼロじゃないんでしょうが、私の場合はゼロなのよ」

「好みから外れてるって意味ですか? それとも、相手に好きな人がいるから?」

「どちらも……ね。好みはまるで私ではないし、そもそも彼氏ができそうだと話していたし。相談を受けながら、心の底から上手くいかなければいいのにって願い続けてた。好きな人の幸せより、私は自分の欲求を優先したのよ。罰が当たったんだわ」

 暇を持て余したのか、ルイは洗い終わったグラスに手を伸ばした。俺がいなかったら、ひとりで洗い物もしていたに違いない。確かにこれは大変だ。

「お電話ではありませんか?」

 震える端末を指摘し、ルイは張りつめた緊張の糸を緩めてくれた。

 電話の相手は、多分、想う相手。目が悲しそうに笑っている。素直に歓喜を爆発させられないのが見ていて辛い。

 彼女が電話中、ピンクの液体について疑問を口にした。

「それなに?」

「グレナデン・シロップ。ザクロやベリー系のフルーツと砂糖を煮詰めたものだ」

「ピンク・レディの他にも使うカクテルはあるの?」

「ある」

 ちょうど電話が終わり、女性は残りの液体を飲み干した。

「とても美味しかったわ。ごちそうさま」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 ルイに合わせ、俺も頭を下げた。日本人の礼儀は、俺よりルイが馴染んでいる。

 新しいお客さんがドアを鳴らした。切らした息より、カウンター席にいる女性に目が釘付けだ。

「絵津子! 良かった……家からいなくなったから心配してた」

「飲みに行くだけって連絡したでしょ」

「そうだけど……荷物をまとめているし、ルームシェアの解消はまだ先でしょ?」

「今から片づけを始めてるだけ」

 女性は俺の視線に気づき、カウンター越しに腰を曲げた。

「絵津子がお世話になりました。すみません、そろそろ営業終了ですよね」

「まだ大丈夫です。あの、絵津子さんの話を聞いてあげて下さい」

「花岡」

「ちょっと」

 絵津子さんとルイはほぼ同時に声を上げた。

「絵津子の話?」

「いろいろ悩んでるみたいです。少しでも、心に寄り添ってあげて下さい。おせっかいなのは百も承知です」

 女性は何度か俺と絵津子さんを交互に見ては、彼女の二の腕にそっと触れた。

「アルバイトさんの言うことは気にしなくていいわ」

「ねえ、どうしていきなりルームシェアを解消しようって言い出したの? ちゃんと聞かせて。一方的で、どうして私の気持ちを分かってくれないの?」

 引き金を引いてしまったのは、悪気があってのことではない。絵津子さんの頬を濡らす涙に、女性は戸惑いを隠せないでいる。

「あなたは男性と結婚するじゃない」

「結婚? 何の話?」

「彼氏ができるとかなんとか」

「うん……どうしようか悩んでる」

「悩む理由なんてないわ。結婚したらいい」

「結婚も何も、付き合ってもないのに……。最近の絵津子おかしいよ」

「バーテンダーさん、ごめんなさいね。お代を支払いたいのだけれど」

 女性が女性を好きになるはずがない。彼女にとってはそれが普通で、きっと絵津子さんの気持ちには辿り着けない謎だ。歯痒くて、けれども何もできない。

 絵津子さんは帰り際にこちらを振り返り、一揖してドアを閉めた。相手はルイに対しててで、俺に対しての挨拶じゃない。それが彼女の答えだ。

「お疲れ。店を閉める」

「うん……お疲れ様」

 鍵を閉め、ソファー席の掃除も終えた。ふたりで控え室に戻ると、ルイは冷蔵庫から牛乳瓶を出し、差し出した。

「家で飲め」

「いいの?」

「ああ。賞味期限が切れそうで、店の冷蔵庫から移動してきたものだ。今日までだから早めに消化するように」

「……ありがとうございます」

 敬語はいらないと言われても、使いたい気分だった。

 有り難く頂戴した牛乳瓶をしまい、池袋駅で別れた。彼はどこに向かうのだろう。

 数時間のアルバイトでどっと疲労が押し寄せてくる。早めに消化と言われた牛乳は、良い活用方法があるので今は冷蔵庫に寝かせておく。すでに日付が変わった今は何もする気が起きない。端末を見ようにも、疲れた今は手にするべきではない。見るのが怖い。

 同性愛について考えさせられる機会が増えた気がする。世間一般の常識とは何か、答えようにも浮かばない。それぞれ生活があり、大学に入り、一人暮らしをしている。大学に入ったら自然と彼女ができるものだと思っていたが、人生はそう甘くない。いろんな意味で気になる子はいる。奥野七海さん。恋愛かどうかはおいて、彼女ともっと仲良くなりたいと思う。

 やっぱり寂しくなり、端末を見ることにした。息もさせないほどのメール攻撃は今日はない。その代わり、姉からメールが届いていた。

──実家にいつ帰ってくる? 五月の連休は?

──バイトするよ。家にも迷惑かけらんないし。

 暖かい言葉にほろりとするが、賑やかな実家を思うと胸が痛む。こういうときは、寝るに限る。


 日曜日も元気にエレティックに向かうと、ルイはすでに来ていた。いつも何時に来ているのだろう。

「牛乳は処分したのか?」

「ふふふ……慌てるなって。冷凍庫で寝かせてるんだ」

「どういうことだ?」

「そのままを飲むんじゃなく、俺が好きなものに変化させようと思って」

 実は午前中に買い物を済ませ、足りない材料を買い足したのだ。

「ここでクイズです。牛乳、卵、生クリーム、砂糖でできるものはなあんだ?」

「……プロテイン」

 真顔でお答えになった。突っ込むべきか、スルーすべきか。

「惜しい! 正解は、アイスクリームでした」

 ルイは固まっている。俺に対する究極の選択だった。

「ネットでアイスクリームメーカーが安く売っててさ、二千円以内で買えたんだ」

「……作るより買った方が効率がいいだろう」

「そうかもしんないけどさ、せっかく牛乳をもらったんだし、そのまま飲むのもいいけど何かに使いたいじゃん」

 ルイは後ろを向き、何やら独り言を呟きだした。英語ではない、母国語だろうが、早すぎてどこの言語か理解不能。ゆっくり話されても分かる自信はない。

 開店の時間になり解錠すると、遠慮がちに扉が開いた。

「あれ?」

「こんにちは……今、大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。店長なら中に……」

「外で話せませんか? 他のお客さんがいるとちょっと……ほんの少しでいいんです」

 絵津子さんと一緒にいた女性だ。

「どうかなさいましたか?」

「あの……」

 バーテンダーモードのルイは、優しく問いかける。

「ちょっと……この方と話したくて」

「申し訳ございませんが、仕事の最中でございますので。よろしければ、中でお話を伺いましょう」

「はい…………」

 やり手というか、ここは助かった。十中八九、絵津子さんのことだろうし、ふたりで聞くべきだろう。

「お好きなカクテルはございますか?」

「すみません、できれば度数が少なくて、甘めのものはありますか?」

「かしこまりました」

 新しいリキュールが登場した。真っ白な瓶に南の島をイメージさせるイラスト。ヤシの木だ。ルイからの説明はないが、パッケージをこちらに向けてくれた。どう見てもココナッツ・リキュール。

 最近、縁があるミルクが登場した。そして新しいグラス。タンブラーとも違う。

「ロックグラスを使用したカクテルになります」

 ウィスキーを入れて飲むグラスだ。氷を入れ、リキュール、牛乳の順に投入する。そして撹拌。俺でもできそうなんて思ってはいけない。これを作るのに、どれだけの年月をかかっているのか俺は知らない。

「マリブミルクでございます」

 濁りがなく真っ白で、表情の冴えない女性に願いを込めたものに見えた。

 一度口にし、再度グラスを手に取るまで時間がかからなかった。口に合っていたのだろう。

「それで、うちのアルバイトにご用件とは?」

 落ち着いたところで、ルイは声をかける。

「絵津子に、好きだって言われました」

 息を呑んだのは俺で、ルイは冷静で至って変わらない。

「だから一緒にいたくないし、顔も見たくない。ルームシェアはもう無理だと一方的に言われました。どうして顔も見たくないになるのか、私には理解できません」

 傾いたグラスから、氷の崩れる音がした。

「偏見はないつもりでした。でも自分の身に起こると、頭が真っ白になってしまいました。将来が見えないし、そういう意味では……どうしても……」

「差別と好みは違うんじゃないかと思います」

「……その言葉で、少しは楽になれました」

 この人は絵津子さんのことを考えながらも、自分自身が差別主義者ではないと、救われたかったのではないか。名前も分からない相手でもすがりたくて聞いてほしくて、細い藁でもひっつかみたくてここにやってきた。

「絵津子は……あなたに何か言っていましたか?」

「いえ……特に……」

「あなたは嘘が下手な人」

 嘘は良くないと、幼少期から教わった。けれど、ときには嘘は必要不可欠だと大人になるにつれて学んだ。今は必要なときだが、俺には難しい。

「男女の恋愛ですらすれ違いばかりでうまくいきません。地球の反対側にいてもうまくいく人もいれば、近くにいるはずなのにすれ違いばかりの人もいる。本当に……」

 長い睫毛が揺れ、ルイは目を伏せた。閉じる前の瞳が見ていられなくて、俺は新しく登場したリキュールのことばかり考えていた。カロリーが高そうだとか、余計なことで気を紛らわせた。

「あの、そうですね……もし自分の大切な人が目の前からきれいさっぱりいなくなったら、俺だったら追いかけます。それこそ、地球のどこにいようとも。いても立ってもいられなくなると思います」

「アルバイトさんに、そういう大切な人はいるんですか?」

「正確には、いた、ですね。はは……。もうどうせ会えないんで。うまく言えないけど、絵津子さんは恋愛対象かそうじゃないかの、白黒二択しか考えられない状況に陥ってるのかもしれません。そうじゃない選択もあるんだと、あなたが教えたらどうでしょう?」

「……………………」

「すみません、生意気言って」

「……いいえ。私は、後押しが欲しかっただけかもね。心の奥にはあったのに、誰かに引き出してもらいたくて仕方なかった」

 マリブミルクを飲み終えた頃には、少しすっきりした顔になっていた。さっぱりしているカクテルには見えないが、どんな味なんだろう。

「恋愛対象であれそうでないにしろ、大切な人ができたら自分の気持ちを守り続けてほしい。おふたりに聞いて頂けて、負担が軽くなりました」

 戦場に出向くかのような、強い眼差しだ。エレティックの扉が閉まると、まだ一人目のお客さんなのにどっと疲労がのしかかった。

「差別と好みは違う、か……」

「俺って日本人でここから出た経験がないからさ、世界中で起こっている人種差別とかいまいちピンとこないんだよ。肌の色で差別するとか。例えば、なんで日本人ってそういう肌の色で目の細い人が多いのって質問されても、いろんな人がいるよって普通に答えられるし。差別の土台にすら立ってなないんだと思う。だから、無意識のうちに傷つけてしまっている場合があるのかもしれない。何が差別になるのか、分からないんだ」

「私は外国人だが、確かに日本人から見つめられることは多い。子供は私に指を差し、親にたしなめられる場面は何度もある。それは差別とは思っていない。見慣れておらず、物珍しいのだなと感じてはいる」

 ここまで話す外国人は、実はルイが初めてだったりする。人によっては『外国人』という言葉も差別だと言う人もいるが、ルイは自ら外国人だと言った。ルイにとっては差別ではないようだが、人によりけりだと言われてしまうとどうしたらいいのか。

「あのさ……ルイがじろじろ見られるのは、めちゃくちゃきれいだからだと思うぞ」

「……………………」

「もしかして、ルイにとっては褒め言葉にならない?」

 けっこうルイに言ってきたが、そのたびに彼は口を閉ざしてしまう。

「……私に対し、面と向かってきれいだと言ったのはお前が初めてだ」

「嘘だろ……さすがに冗談としか取れないって。プロテイン以来の外国人ジョークか? っていうかどこの国出身だよ」

「出身国は今まで散々ヒントを出してきたつもりだが」

「は? え?」

「それと、私がジョークを言ったのはマリファナの件だけだ」

「そういや、なんでマリファナは白くないって知ってたんだ? まさか使ったことが……」

「私はないが、別に珍しいものでもない。これもヒントだな」

「ええーどこだよ」

 話はそこで途切れた。新しいお客さんが来たからだ。バーテンダーとはいかないが、俺もアルバイトとしての自覚を持ち、出迎えの声掛けをした。

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