第8話 情人の憂鬱

 昨日の今日で、携帯端末を鞄に入れたまま開くことはしなかった。業務連絡でも入っているかと勇気を出して開くと、残念ながら上司からの連絡はない。その代わり、二十件を超える怒濤のメールが入ってた。最初はまだ緩やかな波だったが、後半になるにつれてビルを呑み込むほどの津波と変化している。

──ごめん。

──本当にごめん。

──俺が悪かった。許してほしい。

──でも俺の気持ちは嘘じゃないからな。

──悩んで悩んで、真剣に伝えたつもりだ。

──お前に殴られて、酔いが覚めた。

──やりすぎた。もう一度会いたい。

──お前がバイトを辞めても付き合いが途切れるのは嫌だ。

──なあ、未読無視か?

──読んでくれ。

──おい。

──お前今、どこにいる?

──上司にお前の住所聞いたが、教えてくれなかった。

──しばらく池袋駅で待ってたんだ。お前に会えるかと思って。

──もう家に戻ったのか?

──明日会える?

──どこの大学に通ってるんだ?

──お前のためにバニラアイス買ってきたぞ。明日来いよ。

──俺は仕事が休みだし、待ってるからな。

──必ず来いよ。

──約束だからな。

 空っぽのはずの胃がざわめき、俺はトイレに駆け込んだ。苦みが口に広がり、飲み込んでしまいたくなるが、吐いてしまった方が楽だ。喉奥に指を突っ込み、無理やり液体を吐いた。昨日食べたものは消化されている。肉野菜炒めが出てこなくて安堵した。ウォシュレットで洗いたくなるほど切羽詰まっている。

 こういう場合、未読と既読のどちらを無視したらいいのか分からない。見てしまった。相手には既読と伝わっているだろう。とりあえず画面をすべて保存して、冷蔵庫にある水で口の中を洗った。

 今日は講義とアルバイトがある。昨日のうちに書いておいた履歴書を鞄にしまい、飲みかけのペットボトルも持ってドアを開けた。

 家の場所は知らなくても、どういうルートで知るのか分からない。回りを見渡し、鍵を閉め、階段を下りた。

 駅は通勤ラッシュで賑わい、これなら紛れることができるだろう。数駅先の新宿駅で下車した。駅から少し歩き、俺の通う大学が見える。ほとんど一本道だが、坂はあるし距離もあるので着くまでが長く感じる。

 講義室には、長い髪を揺らして本をめくる奥野さんがいた。勇気を出して隣に座ると、俺に気づいて本を閉じた。

「お、おはよう。何の本読んでるの?」

「経済の本。顔色悪いわよ」

「あー、疲れが溜まってんのかも」

「私のあげたキャラメルのせいで具合が悪くなったと思ったわ」

 そういえば、残り一個はまだ食べていない。

「あれってどっちが外れなの? 片方は知り合いにあげたんだけど」

「紫の方が美味しいはず。もう片方は、肉の味がするし」

「え」

 ということは、俺が持っている方が当たりで……。

 ルイは食べた後、甘いと言った。勝手なルイへのイメージで、不味いものは不味いとはっきり言うタイプなのかと思っていた。意外な一面だ。

「まさか外れをあげたわけ?」

「う、うん……。でも美味しいって言ってた。多分、気を使ってくれたんだろうけど」

「だろうね。あれ食べて美味しいって人、見たことがないし」

 後で謝ろう。いちいち気にするようなタイプにも見えないけれど、俺の気が済まない。売店で何か買って行こう。

 講義をすべて終え、少し早めに池袋に移動した。自然と早歩きになり、慣れてきた道を地図を見ずに辿っていく。

 回りを見て、裏口から中に入った。まさか後をつけてはいないだろうが、新しいアルバイト先はばれるわけにはいかない。

 十七時から店がオープンするが、三十分前には掃除がある。それを踏まえても、時間が余っていた。

 休憩室でゆっくりさせてもらおうと中に入ると、テーブルには新聞が置かれている。取っているとは思えないし、どこかで買ってきたものだ。

 一面には、例の銀行強盗事件だ。出くわした三人の顔写真もしっかり載っている。

「そんなに気になるのか……」

 仲間たちが報復しに来る可能性だってある。ルイは目立つし、気にもなるだろう。ひと通り読み、元に戻しておいた。

 あとは紙袋がソファーにあった。きっと見てはいけないものだろうし、着替えようと立ち上がったとき、金髪が目尻に入った。

「びっくりした……ルイか」

「本日もお願い致します。驚かせたな」

「こちらこそ、お願いします。いやいや、いろいろあってさ。これなに?」

「……中の封筒はお前宛だ」

「俺に?」

 大きな箱と白い封筒が入っていた。平仮名で『しきへ』。ぼんやりと浮かぶ少女と裏側の名前が一致し、中を開けた。ルイは後ろから覗き込んでくる。

──あかりは、ママのところにいきます。ありがとう。しきはこいびとになってあげてもいいよ。るいは、あいじんにします。あかり。

「……………………」

「……………………」

「なんか、ごめん」

「……余計に惨めになるだろう」

 愛人から恋人に上がった。まさか妖精のような男に勝てるとは、夢にも思わなかった。

「男として自信がついたよ、うん」

「どんな卑劣な手を使ったんだ」

「ちょっと話しただけだって」

「こちらはふたりで使えと、月野様から頂き物だ」

 開けてみろ、と目が言っている。引き出物みたいな箱を開けると、中にはカップアンドソーサーが二客ある。白を基調とし、縁にはオレンジの線、青いチェックが引かれていて、緑の葉がなびいている。

「めちゃくちゃきれいだなあ……有名なカップなのか?」

「読んでみろ」

 裏側の丸い印には『HERMES』と横文字だ。元気よく、自信満々で声に出した。

「ハーメス!」

「……日本でも有名なブランドだと思っていたが、まだまだのようだ」

「え、待ってよ。ハルメス?」

「Hは音に出さない。元々は人の名前なので、Sは発音する」

「……あ、エルメス?」

 ようやく出た、トレビアン。実は、ちょっと待ってた。

「フランス語はHの音は発音しない。英語の癖も、Hを音に出さないんだ。日本人からすればヨーロッパ人は皆似たような顔だろうが、聞き分けられるようになれば、どこの国の人なのか分かるかもな」

「へー……逆にヨーロッパ人からすれば、アジア人は同じ顔してるみたいなもんか」

「日本人は分かる」

「なんで?」

「礼儀を重んじる心と仕草」

「照れるなあ」

 褒め言葉として受け取っておこう。案の定、ルイはもう一度病院へ行ってこいって目をしているが、気にしたら負けだ。前向きに捉えるべき。

「月野様は、お前に説教されて本来一番大切にすべきものを考えたらしい。あかり嬢を生みの母親へ、現妻とお腹の子を育てていくと言ってた。まだ前妻とは話し合いの途中だが、あかり嬢は前妻と会えると小躍りしている」

「人ん家のことで、それはもうお節介だろうけど、それがいいんじゃないのかって思ってた」

「お節介の自覚はあったのか」

「ここでバイトするようになって、ちょっと思ったよ」

 お節介でも、心配はかけたくない。メールの内容は相談すべきではないと思う。ルイに聞いてほしかったが、ただのアルバイトと店長の関係で、話したところで何か変わるわけではない。ただでさえ謎と悩みが多そうな顔をしているのに、ルイの負担が増えるだけだ。

 頂き物のカップは食器棚にしまい、エプロンを身につけた。今日はお客さんが来るといい。そんな心配は無用で、開店と同時になだれ込んできた。

 ソファー席は一か所埋まり、カウンター席には女性が一人。慣れない中、注文を取ってルイに伝えると、いつものかっこいいバーテンダー・ルイへと変貌した。

 ソファー席のお客さんは長居をするつもりはなかったらしく、それぞれ一杯ずつ飲むと美味しかったよ、と声をかけ店を後にした。俺が作ったわけではないが、鼻が高かった。

「焦らなくていい」

 酒の名前を間違えて伝えても、ルイは怒るでもなく冷静に読み取り、的確に作っていく。はあ、かっこいい。美しいとかっこいいしか、言葉が出ない。

「あの」

「はい」

 ソファー席を片づけていると、カウンター席の女性が声をかけてきた。先ほど飲んだカクテルはミモザ。これは知っているカクテルで、自信満々に店長に伝えたら、口元が少し笑っていた。

「強くて、酔えるようなお酒を」

 メニュー表から選んだというより、何でもいいという投げやりな言い草だ。酔ってはいないが、女性の顔色もあまり良くない。とりあえず困ったときの微笑みを向け、頼れる店長に視線を送った。

「甘口、辛口など、テイストはいかがなさいますか?」

「お任せします」

 お任せ。俺は姉さんから夕飯は何が食べたいか聞かれ、任せたらこっぴどく叱られたことがある。それが一番困るんだと。じゃあ魚と答えたら、材料がないとさらに叱られた。腑に落ちない。いつか好きな人から何が食べたいか聞かれたら、何でもいいは止めなさい、喧嘩の原因にもなるからと、相手への配慮をしろと言われた。でも姉さんは、父さんに何でもいいと言っていた。腑に落ちない。

「かしこまりました」

 慣れているのか、ルイは困惑な顔一つしない。

 並べられた材料は、ジン、ピンクの液体、レモン果汁、そしていろんな思い出のつまった鶏卵。卵を使うカクテルは多く存在しているようだ。

 メジャーカップでジンを量り、続いてピンクの液体、レモン果汁、卵は卵黄は使わず、卵白のみをシェイカーに投入した。卵白は卵一個分だ。

 シェイカーを振る姿は、洗い物をしながらもどうしても気になってしまい、尻目で何度も見てしまう。ルイは俺を見ていない。

 カクテルグラスに注がれた液体は、綺麗なピンクだ。縁に小さなハイビスカスのようなピンクの花を添えて、ルイ自ら差し出した。

「ピンク・レディでございます」

「……ありがとう」

 女性は大きく息を吐いた。

 大抵の女性客はルイを二度三度見て何か秘密の会話を交わすか、あなたの顔なんて気にも留めていませんと無表情で固めるかが多い。この女性はどちらでもない。ルイというより、人間に興味を示していない。かといってお酒を楽しんでいる様子でもない。何が目的で、駅から離れたこのバーにやってきたのだろうか。

「……美味しいです。本当は、もっと強いお酒が欲しかったのだけれど」

「憚りながら、体調が優れないように見えましたので。ジンの量を調整致しました」

 そういう作り方もあるのか。決められた量を混ぜるのではなく、相手の体調を踏まえて作る。俺にアイ・オープナーを作ってくれたときは、遠慮のない力強さが表れていた。

「私の悩み、なんだか分かりますか?」

「恋の悩みですね」

 ルイは迷わず口にした。

「見て分かるものなんですか?」

「ええ、なんとなくですが。私は人と違った容姿をしております。目立つ故、じろじろ見られることが多いのです。特に女性のお客様には。あなたは私にも、見習いアルバイトにも興味を示さなかった。お酒を自ら選択せず、バーへ行き慣れている様子もない。導き出される答えは、心に想う方がいらっしゃるから」

「ふふ……当たりです。お酒を選ばなかったのは、メニューを見ずに言えるカクテルがほとんどなかったからお任せしたの」

「左様でございましたか」

「それと、バーテンダーさんに興味がないのよ」

「……ありがとうございます」

 ばっさりした答えに、ルイは息を呑み、お礼を述べた。それは客人に対する愛想というより、どこかほっとした感謝の意だった。

「ねえ、あなたは恋してる? 見たところ大学生くらいに見えるけど」

「恋というか、そうですね、えー……」

「可愛い」

 手の上で転がされてしまった。俺に聞いたのに、答えも聞かず女性はグラスを傾けた。

「私の恋は、叶わないのよ」

「でも、絶対とは言い切れないんじゃ」

「絶対なのよ」

 清々しいほど断言し、女性は新しいカクテルを注文した。

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