第5話 誘拐犯
もしかしたらモバイルネットワークが壊れているんじゃないかと適当なホームページを開いてみると、すんなり画面に表示された。卑猥な広告がおよそ八十パーセントを占め、隣にいたサラリーマンが二度見している。恥ずかしくなって右上のバツボタンをタップするが、さらに別の広告が重なってしまい、目を逸らしたくなるページに飛ばされてしまった。慌ててホームボタンを何度も押し、息苦しさから解放された。
池袋駅で下車した。道に迷わない法則は、近道はするな、だ。ただでさえ行きづらい小道を通るので、遠回りでも到着できる道を選ぶべきだ。
案の定、いやそれよりも、俺が思っている以上にろくなことなっていない。二台のパトカーに向かって吠える犬や、アパートの窓から覗く男性。端末を向けていることから、俺は裏口から突入を謀る。正々堂々と勝負しろと教えられてきたが、ときには避ける勇気も必要だ。
番号が変わっていませんようにと祈り、四つの数字をタップした。災害時でも被害に合いそうにない扉が開く。身を滑らせてすぐに閉めた。
エレベーターで降りると、今朝会った警察官と出くわし、居心地が悪い。
「なぜここに?」
「いやあ、なんというか、野暮用です、はい。強いて言えば、忘れ物です」
「忘れ物?」
部屋に入ろうとしたが、止められてしまった。
「うちの店長に! いるかなー! てんちょー!」
「こら、静かにしなさい」
大学の校歌でも一発歌ってやろうかと思っていたとき、フロアから探し人が顔を出した。短い付き合いなのに、見ると安心する顔だ。相変わらず長い前髪に片目が隠されているが、あの目は機嫌が悪いと言っている。なぜか頭を抱えてしまった。俺のせいか?
「その者を通して下さい。部外者ではないので」
プライベートモードでも店長モードでもない、また違ったルイがいる。中に入ってしまえば、しばらく束縛されるだろう。俺は迷わなかった。
「……来週、履歴書を持ってくると送ってこなかったか?」
「あれ見てくれたの? 返事がないから心配しました」
既読がついている。もし早くについていれば、俺は家でじっとしていた……それはないな。
「失礼、部外者ではないと言いましたが、部外者です」
「なんで? 俺、部外者なの?」
「少し黙っていろ」
ルイは俺の袖を掴むと、後ろに引っ張った。
「防犯カメラをご覧頂いた通り、少女は自らここへやって来ました。動かぬ証拠です」
「そうだねえ……」
「誘拐犯だと決めつければ、あなた方は面倒な仕事を回りくどい道を通ることなく、手柄にできるでしょう。私は、日本の警察官はそれほど無能で浅薄で鈍腕だとは思っておりません」
無能。浅薄。鈍腕。どれも似た意味を持つが、よくもまあそんな言葉を知っていると、開いた口が塞がらない。どこで日本語を習得したのか、ますます彼が気になった。
「ルイ、どういうことなの? 俺にも説明してよ」
ため息を吐かれてしまった。けれど俺はめげない。
簡単にルイは説明してくれた。今朝、あかりちゃんが地下の扉の前にいて、ルイを見るなり抱きついてきたらしい。モテモテだな、と口を開いたが止めておいた。賢明な判断だろう。目で牽制されたし。
放っておくこともできず、中に入れて母親と警察に連絡をする間、フロアで待っていたらしい。
「でもなんで母親の連絡先を知ってたんですか?」
「鞄に迷子の札がついている。私が誘拐をしたと言うならば、日本列島における家出少女の助け方をレクチャー願いたいものだ」
前回も母親をすぐに呼べた理由も合点がいった。焦らず対応したルイを見るに、もしかしたら少女が家出をしたのは初めてではないのかもしれない。
「あかりちゃんは?」
「警察が保護をしている」
「変な人に攫われなくて良かったな!」
「……………………」
「あっ」
警察に睨まれた。
「ルイさん、あなたに任意同行を求めます。そもそも、あなたは本名を……」
「任意同行はお断りします。が、別室で話を聞く分には構いませんよ 」
お巡りさんはなんて言ったのだろう。ルイの声が重なり、よく聞こえなかった。
「花岡、この後の予定は?」
「特にないよ。ないからここに来た」
「……………………」
何か言いたげに口を開き、視線を下げた。持っていた鍵を放り投げ、宙に浮く鍵をキャッチした。
「給料は出す。店にいてくれ」
「掃除とか、何かすることある?」
「任せる」
任せると言ったか、今。まだ一回しか働いていないアルバイト相手だぞ。
警察官に挟まれ外に向かう彼は、任意同行というより、付き人を従える貴族様に見えた。浮き世離れした風貌と指先まで品格のある動きは、真似をしたくなっても俺がやったら変人扱いだと思う。
掃除をしようにも、一滴の水滴すら落ちていないテーブルは掃除のしようがない。
することがないとなると、控え室という名の秘密基地に戻り、本棚を漁ることにした。
几帳面な性格だ。上下巻、高さまで綺麗に揃え、並べられている。俺みたいな大雑把な性格だと、高さなんて気にならない。山脈の中に、いきなり谷があったとしてもまったく気にせず踊ってしまう。
ファイルが挟まっていた。中は、この前の銀行強盗の記事だ。新聞の切り抜きが貼っている。自分が巻き込まれた事件なので、興味深いのかもしれない。
日本語で書かれている本を一冊選び、フロアのカウンターに座った。
「確か、アイ・オープナーだったよな」
強烈な味を思い出して、口の中に唾液が溜まった。
度数は三十度ほどで、日本酒とは比べものにならない。ショート・カクテルに分類される。ベースはラム。
「……カクテル言葉?」
初めて聞いた言葉だ。アイ・オープナーのカクテル言葉は『運命の出会い』。
「あー、あー、あー」
ここにルイがいなくて心底良かった。いや早く帰ってきてほしいけれど。
ルイは「知っていて言ったのか」と言った。分かっていてこれを出してくれたのなら、こんなに嬉しいことはない。立ち上がって、大型犬のようにうろうろとさまよう。何かしていないと落ち着かないが、防犯カメラで見たら俺が不審者だろう。
およそ二時間ほどで、ルイは帰ってきた。疲労の色がはっきりとしていて、カウンターに座ると眉間を揉みほぐした。
「おかえり」
「……………………」
ルイは固まり、顔を上げて俺をじっと見つめた。
「あ、勝手に借りてます。分かりやすくていいな、これ。カクテル言葉も分かったし」
「………………何の」
「アイ・オープナー」
二度目、ルイは固まった。余計に美術館の彫刻だ。肩から流れる髪がきれい。
「私のいない間、変わりなかったか?」
「え? 特に何も。そうだ」
ポケットには良いものが入っていた。サイコロ状のものを片方ずつ握り拳に収め、ルイの前に差し出す。
「どっちがいいですか?」
「なんだ、これは」
「ふふふー」
選べとさらに突き出すと、左側を指差した。何の味なのか俺にもよく分からない。ルイが選んだものは、黄みがかったキャラメルだ。右手に残っているのは、薄紫のキャラメル。俺は後で食べよう。
「北海道のキャラメルらしいんだけど、大学の子からもらったんです。昼食のお礼にって」
小さな四角を見つめ、紙を取り外して口に入れた。
コロコロと口の中で動かしているが、ルイは普段、甘いものを食べるのか。
「どう? 美味しい?」
「……疲れが取れる」
「良かった。何味ですか?」
「…………甘い」
感想は、甘い。奥野さんは、片方は外れだと言っていた。もしかして、外れを引いてしまったのだろうか。色的に残った紫のキャラメルが外れだと思ったのに。
「美味いよ。ありがとう」
「ど、どういたしまして」
美味いのか。安堵の息が漏れた。
微笑むルイは爆弾みたいだ。俺の心臓が、残り時間が少ない時限装置状態になる。
「……みっちりと聴取を受けてきた」
「う、うん……ルイなら聴取のしがいがありそうだけど、随分長かったですね」
「あかり嬢が、攫われたと虚言を並べたらしい」
「ええ? なんだそれ。自分でここにやってきたのに?」
「入れたのは私だがな。どこからどこまでが拉致監禁の判断材料になるのか、理解をしていなかった。日本の法律を理解していない、私の過失でもある」
「防犯カメラがちゃんとあって良かった……」
「最新式のものだ。音声もしっかりと残っている。おそらく問題はないだろう」
いくらか、ルイの目がいつもの目に戻った。キャラメルが利いたと思いたい。疲労には、甘いものに限る。
「そういえば、アイ・オープナーってホワイト・ラムを使うって書いてあったんだけど、ブラックとかあるんですか?」
「ホワイト・ラム、ゴールド・ラム、ダーク・ラム」
白と金と黒。三種類が出た。
「熟成する樽にも違いがある。ホワイト・ラムは、内側の焼いていない樽で熟成し、さらに活性炭を用いてろ過して無色透明に仕上げたものだ。風味も少なく、カクテルに向いている」
「ゴールド・ラムは?」
「樽で熟成させて、淡く色づいたもの」
「ダーク・ラムは?」
「内側を焦がした樽で三年以上熟成したものだ。こちらは製菓などで使われる。色も香りも強い」
「分かりやすい。ありがとうございます」
「何かご馳走をしてやろう。どんなものがいい?」
「いいんですか? やった。じゃあ甘めのやつで」
一瞬で、ルイはバーテンダーの顔になる。あんまり見ると失礼に当たると分かっていても、仕事人の顔は格好良くて好きだ。
「今から作るカクテルは、メニューには載っていないカクテルだ」
「いいの? そんなすごそうなカクテルなのに」
「作るのに手間がかかるだけだ。忙しいときに注文されては、時間が取られてしまい店が回らない」
ルイはドリップポットにミネラルウォーターを入れ、コンロで温め始めた。その間に並べていくのが、またもや意外なものだ。そうは言いつつも、見るのは二度目となる。
「え、アイ・オープナーじゃないよな?」
「……今の言葉であれがお前のトラウマになったと理解した」
「そこまでじゃないですって。ちょっと強烈だっただけで」
物体Wすなわち砂糖と、鶏卵。先ほど説明してくれたダーク・ラムと、ブランデーだ。
「せっかくラム酒の話が出たので、ちょうどいいだろう。トム・アンド・ジェリーというカクテルだ」
「どこかで聞いたことのある名前……」
「歴史が古すぎて、いつに作られたかはっきりしない。今の形になったのは、十九世紀末だとは言われている。ちなみにレシピはごまんと存在している」
鶏卵を割り、卵黄と卵白を分ける。卵白の入ったボウルを渡された。お客さんとアルバイトの掛け持ちだ。卵白を作れってことか。
俺が一生懸命泡立てている間、ルイも卵黄を混ぜ、砂糖を入れる。沸いたお湯はマグカップを温めるのに使い、残りはコンロに戻した。
卵黄を卵白を混ぜ、マグカップのお湯を捨てる。
「アルコールは少なめにする」
ふわふわした努力の結晶に二種類の酒を入れて、マグカップに入れた。お湯も注ぎ、バー・スプーンでかき混ぜる。
「製法はビルド?」
トレビアン、と賞賛の言葉を頂いた。照れる。落ち着かなくなって、背中を掻いた。
「覚えが早い。さすがだ」
「へへ、どうも。それはなに?」
「ナツメグだ。苦手であれば入れない」
「ルイが普段作っているレシピで飲みたい」
上にナツメグをふりかけた。ナツメグは、ハンバーグに入れるイメージしかない。そういえば、カクテルにもハンバーグにも、なぜ入れるのだろうか。
「ありがとうございます。めちゃくちゃ良い香りがする。甘そう」
「砂糖は気持ち多めに入れた」
いただきます、と手を合わせ、マグカップに口をつけた。卵の甘さとラムの香りがたまらない。
「人から作ってもらうものって、なんでこんなに美味しいんだろうな。落ち着く。ラムそのものはほとんど飲まないけど、アイスだとラムレーズンが好きだったりするんで、けっこう馴染み深いってイメージのお酒です」
作り手の暖かさが存分に発揮されたカクテルだ。あまりのペースの早さに、ルイに目でたしなめられた。ジュースのようにごくごくと飲んでしまうが、れっきとしたお酒だ。少し落とそう。
「不味いものは不味いとはっきり言ってほしい。助かる」
初めて見るルイの顔だ。と言っても、半分は長い前髪に隠れているが。過去を思い出し、懐かしむような、俺の知らない顔。見ていたいのに、ちょっと寂しくなった。自分以外に目を向け、見てくれない辛さは、目を逸らしたい案件だ。
もう一度目を向けると、ルイはいつもの顔に戻っていた。ならば、俺は目を逸らしたままで知らないふりをしよう。自分の感情にも、ルイの顔にも。
ルイにお礼を伝え、エレティックを後にした。
二つのルートで行ける道のりは、慣れてしまえばほぼ曲がり角のない道で行ける。池袋駅に差し掛かろうとしたとき、肩に大きな手が乗せられ、俺は意識や脳の命令よりも早く、エレティックからボクシングのリングに立った。
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