第4話 月野あかり

「ほんとのママじゃないの」

 諦めてくれたのかようやくスプーンを置いてくれた。落ち着きなく足をぶらぶらさせ、カウンター席に何度も当たる。

「いっつもきらきらしてて、あかりのことみてない」

「きらきら?」

「おっきい石」

 宝石のことかもしれない。

「パパは何のお仕事をしてるの?」

「すごいんだよ。しゃちょうなんだから! あのね、いちばんえらいの。あかりはむすめだから、みんな言うことをきかなきゃいけないの。学校でも、あかりがいちばんえらいんだから!」

 この子にとって、父親の立ち位置が人生の糧で、『父』というキーワードが彼女を知るトリガーになる。よそ様の子で偉そうには言えないけれど、あまり良い傾向とは思えない。

「じゃあ学校では、あかりちゃんは人気者なんだね」

「…………まあね」

 寂しげに目を逸らし、壁に掛けられた時計を見つめた。

「もしかして、お友達いないの?」

「……みんな、あかりとあそびたくないっていうから」

「そっかあ。遊ぼうって声をかけてみたら?」

「こどもとはあそばないわ。ねえ、しきをあいじんにしてあげる」

 とんでもないパワーワードが出た。愛人。この子の置かれている環境が垣間見える。

「きらいだったけど、あいじんならいいよ」

「俺は本命に絞るべきだと思うけどなあ」

 控え室の方から、どすんと鈍い音が聞こえた。妖精さんかもしれない。

 何か策はないかと、ない知恵を絞ってフル回転させる。回りを見渡せば、まだ見慣れない妖艶な雰囲気の空間が広がっている。椅子、カウンター、グラス、アルコール、ソファー、レジ。そう、レジだ。

 女の子にモテたい一心だった、暗黒の中学時代。今思い出しても恥ずかしい。ポケットに入っていたコインを出すと、手のひらに乗せる。一度握り、開いてまだ乗っているともう一度見せる。次に開いたときには、跡形もなく消えていた。

「え? え、なんで?」

「手品だよ。見たことある? 鳩とか出すやつ」

「ない。はとも出るの?」

「鳩は出てこないけど、コインなら出せるよ」

 笑いそうになるのを堪え、再度握って数秒後、コインは手の中だ。必死で練習した若かりし十代は無駄ではなかった。

「どうやるの? おしえて!」

「いいよ」

 小さな手には百円玉でも大きく、一円玉くらいがちょうどいい。少女の隣に座り、横から仕組みを見せた。大人であれば気づくトリックも、あどけない少女にはアニメに出てくる魔法使いに見えたのかもしれない。

「長袖じゃないとできないからね」

「なつは?」

「それは難しいかな。お父さんからおもちゃのコインをもらって、お友達の前でやってごらん」

「うん、ありがとう」

 重厚な扉がまたもや開いた。ちょうどルイも出てきて一礼する。

「お待ちしておりました、月野様」

 見たこともない高いハイヒールを履き、耳や手にはきらきらしたおっきい石。俺も立ち上がり、ルイを見習い一礼する。ヒールの高さもあってか、俺と並んでもそう大差ない。

「あかり、どうして一人で家を出たの?」

「……ルイに会いたくて」

「勝手に出たら駄目でしょう!」

 厳しい口調だ。子供を心配するあまり叱咤するというより、腹にたまった苛立ちをストレートに投げ込むという怒りだった。

「申し訳ありません。ちゃんと言って聞かせますので」

 女性は財布からお札を二枚出し、カウンターの上に置いた。

「新しい方?」

「えっと……まだ働くかどうかは、その……お試しなもので」

「…………そう。世話になったわね」

 彼女が頭を下げるたび、耳に揺れるピアスが光を放つ。大きすぎて重くないのだろうか。耳が少し引っ張られている。

 少女は自由の利く右手でばいばいをしてくれ、俺も答えた。子供は正直だ。アイスクリームとマジックの効力は偉大。

 これでいいのだろうか。少女の話から推測すると、先ほどの女性が血の繋がらない母親で、少女は寂しさを抱えている。ルイに会いたいというのは口実だろう。現状を変えたくて、脇目も振らずにここに来た。

 後ろから店長に呼ばれたが、少しだけだと申し訳無さそうに平謝りし、俺は外に飛び出した。

 車通りの多い大きな道路脇を歩いている。名前を呼ぶと、少女は嬉しそうに笑った。

「すみません、お試しアルバイトです」

「まだ何か?」

「あの……こんなこと言うべきことじゃないと思います。俺は他人だし、月野さんと血の繋がりもあるわけじゃないし。でもどうしても言いたくて……。あかりちゃんと、もう少し心を通わせてあげて下さい。すっごく、すっごく寂しがってます」

 お節介なのは百も承知だ。少女は俺と母親を何度も見比べている。

「あなた、お節介と言われない?」

「今、思いました」

「……今日は面倒を見てくれてありがとう。そのうち旦那もそちらに伺うと思います。ルイさんにもよろしくお伝え下さい」

 月明かりの中、首元にあるネックレスのダイヤモンドが煌々としている。店に入ってきたときは綺麗と思ったのに、今は頼りない光に見えた。

 店に戻ると、ルイは洗い物に集中していた。声をかけられず、目を合わせてもらえないとこんなに寂しいものなのか。入っていけばいいものを、俺は立ち尽くしてしまった。

「花岡様、どうぞこちらへ」

 わずか数秒でも長く感じたが、洗い物を終えたルイは手を拭きながら、カウンター席に来いと言う。薄暗い照明が俺に向き、小さな明かりが灯った。

「え、俺も?」

 出されたのは、少女に出したものとまったく同じアイスクリームだ。

「こちらのグラスは、クープ型シャンパングラスといいます。広口が特徴のグラスですが、炭酸を飲むのには向いておりません」

「なんでですか?」

「炭酸が抜けやすいのです。本当はこちらのアイスクリームに、コーヒー・リキュールをかけて食べます」

「これもカクテルなの? なんかすごいな」

「ええ、私は立派なカクテルだと思っております」

 リキュール・オン・アイス。女性が好きそうだと思ったら、注文する方はほぼ女性だという。

「今は仕事中ですので、このままお召し上がり下さい」

「えっ、いいの? 仕事中なのに……」

「ですので、リキュールはなしです」

「いただきます……」

 アイスクリームのみで食べてみた。バニラビーンズが入っていると、バニラアイスは美味しく見えてしまう。料理は視覚も大事だ。

「美味しい……走った身体に染みる……。これいくらするか分かんないけど、給料から引いていいので」

「くだらんことを考えているのなら、食べたら洗え」

「はーい」

 いつもの彼に戻った。百六十度くらい違う一面は、見ていてちょっと面白い。

 この日は少女以外、お客さんは来なかった。これでルイは本当に食べていけるのだろうか。


 家に戻り、ぺちゃんこになりつつある座布団に腰を下ろした。働いたと言えるほど忙しかったわけではないが、心に疲労が溜まっている。

 冷蔵庫からまだ残っているキウイを取り出し、剥いて食べた。甘みが強い。さすが木箱に入ったフルーツだ。

 テレビでは、この前の銀行強盗についてのニュースが流れている。今頃になって、顔写真がテレビに映る。今まで映せない何かがあったのか。あの女の人も、フードを深く被り大きなワゴン車に乗せられていく。

 銀行に居合わせた人が逮捕に導いたとアナウンサーは言い、次のニュースに移る。

 すべてが終わった後も、ヒーロー気取りにはまったくなれなかった。本物の拳銃や銀行強盗、すべてが空想のようで、けれど現実に起こった事件のせいで、病院に向かうまで足が震えていた。歩けたのは、本物のヒーローが側にいてくれたからだ。名前以外ほとんど知らないミステリアスな男は、なぜ立ち向かって行けたのだろう。強盗より警察が苦手なんて、おかしな話だ。

 一つ分かったことがあって、ルイは地下に住んでいるわけではなかった。帰りは一緒に裏口から出て、池袋駅まで行くと、ルイは別れを告げて駅には入らずどこかへ行ってしまった。

 俺は携帯端末を出て、一つメールを送ってみた。

──次のアルバイトも、よろしくお願いします。

──次は土日に来てほしい。履歴書を持ってきてくれ。また来週。

 わずか三十秒ほどで返信が来た。同じ時間帯に弄っていたみたいだ。なんかうれしい。それに、アルバイトととして雇ってくれると取ってもいいのかも。いらないのなら、メール一本で断っても良かっただろうし。

 アイスを食べながら、ショートカクテルとロングカクテルの違いについても説明してくれた。グラスの長さというのは間違いで、氷が入っているかどうかの違いらしい。氷がなくて短時間で飲むカクテルをショートカクテル、氷が入って温くならずに飲めるカクテルは、ロングカクテル。

 じゃあリキュール・オン・アイスはどっちだと質問をされ、ロングだと答えたら、よく分からない言葉が飛び出た。ヴンダバ? ニュアンス的に褒めたのだろうが、トレビアンとも違うしどこの国の言葉だろうか。


 目が覚めたのは、目覚まし時計の音ではない。今日は昼近くまで寝ていようとかけなかった。何度もチャイムを鳴らす音とドアを乱暴に叩く音で脳が危険だと訴えてくる。

 インターホンで確認すると、何日か前にお世話になった人たちがふたり立っている。何か悪いことをしたかと首をひねっても、さっぱり浮かばない。

「あ、あの……」

「ごめんねえ、朝早くから。寝てた?」

「ええ」

「警察だけど、ちょっと出てきてくれないかな」

 ドアチェーンを外さずにドアを開けると、お巡りさんが覗き込んできた。玄関を見ては足下も見て、おはようと挨拶を交わす。

「月野あかりちゃんって知ってる?」

「あかりちゃん? この前、会いましたけど……」

「君の家に来てないかな?」

「まさかいなくなったんですか?」

「うん。今朝ね。思い当たる節があれば教えてくれないかな」

 前日に会った怪しいアルバイトと、素性の知れない外国人では、残念ながら疑うに値する。俺のところに来たということは、おそらくルイの家にも行っている。お巡りさんは、もう一度俺の足下に視線を送る。残念ながら、ここには大人用の靴が二足だけだ。

 思い当たる節といえば、少女が口走った言葉だ。「ほんとのママじゃない」は、生んだ母親は別にいるということ。それと父親を誇りに思っていて、大好きだという気持ちは人一倍強かった。

「お父さんのところにもいないんですか?」

「父親からいなくなったと通報があったんだ」

「あかりちゃんのお母さんは?」

「捜しているよ」

「……生んだお母さんの方は?」

 警察官の顔色が変わる。この様子だと、お父さんは家族について聞かせていない。

 少女から聞いた話を、要点をまとめて伝えた。俺の予想は、もしかしたら恋しがっている生みの親の元へ行ったのではないかと。警察官は俺の部屋にいると踏んでいるが、あいにく俺は独り身だ。いつか一つ屋根の下で住んでくれる人ができたら、うれしい。俺の手料理を喜んで食べてくれるような人が。男の料理と言われるものや、和食をわりと作るけれど、意外にもキッシュが得意だったりする。格好つけて洋食を作り、失敗を学んできたキッシュは自画自賛できる。材料費がかかるので、最近は作っていないけれど。

 形だけの謝罪をしたお巡りさんが帰り、やっと安堵できた。ルイに連絡してみようと画面をつけると、電話が数件入っている。メールが一通。すべて店長からだ。

──見つかった。

 何を、と聞かずとも、天を仰いだ。真っ白な天井に染みがある。染みは引っ越してきたときより大きくなっている気がした。

──良かったです。俺のところにも警察官が来ました。

──迷惑かけ

 送信ミスだ。珍しいというほど長い付き合いではないが、それでも彼のイメージからは珍しいとしか出てこない。俺みたいなうっかりミスの多いタイプではない。

──いえいえ、また来週お願いします。履歴書持っていきますね。

 既読がつかなかった。車の中だろうか、そもそも運転できるのか。電車、バス、タクシーの中かもしれない。ちょっと遅い朝食でもない。

 ひょっとして、端末を見られない何かが起こったのではないか。考えが嫌な方向に向かっていると、想像でも胸が締めつけられて、視点が定まらなくなった。

 急いで着替えると鞄を背負い、家を飛び出していた。

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