第3話 奥野七海

 すらりとした長い足を邪魔そうに組んでいたが、講義が終えたと同時に投げ出した。

 教室を出ていく生徒が多い中、彼女は席を立たない。誰かとメールをしていた。邪魔しちゃ悪いと思い、俺は彼女が目を離すのを待った。

「奥野さん」

 緊張から声の出し方に迷いが生じ、いつもより高い声になってしまった。残っていた生徒も俺を見る。奥野さんも、振り返る。

「………………?」

「あー、あの、奥野さん。お弁当、ありがとう。美味しかった」

「…………ああ、あのときの」

「今日、良ければ、お礼がしたくて……学食で奢りたいんだけど……」

 変な声が出るし声は小さくなるし、散々だ。

 奥野さんは最初、あのときの俺だと認識していなかった。悲しいけれど、ろくに会ったことも話したこともないのだから仕方ない。

 奥野七海さんと出逢ったのは去年で、梅雨がやってくる前だ。

──これ、あげる。

 渡された包みはずっしりと重く、用件は終わりだと、女性は翻した。

 中を開けると、女性が一人で食べるには多いんじゃないかというほど大きな弁当だ。和食中心で、卵焼きにほうれん草が入っていて、なぜかそれにぐっときた。同時に、過去に追う痛みも走る。思い出してはならない過去。

 振り返ると、女性はもういない。空っぽの頭を絞り、誰だったかを思い出した。同じゼミを取っているが、いつも端にいて誰とも交わろうとしない。名前は奥野七海さん。白い肌に黒いストレートな髪、服装も黒が中心で、クールな女性だ。関わろうとしないのは奥野さんだけでなく、他の生徒もだった。

「別に、いいのに」

「そんなわけにはいかないよ。あの弁当箱だけど、」

「あれ、捨てておいてもらえる?」

 ショックな言葉だ。弁当箱の角で殴られたみたいな痛さだ。丸っこくても絶対に痛い。

「もういらないから」

「……分かった。それで……」

 奥野さんは立ち上がる。俺と並んでも大差なく、首が痛くならない。これがけっこう重要な悩みだったりする。女性と話すと首が凝る。

「私、けっこう食べるけど?」

 はあ、かっこいい。仕草がクール。切れ目付近にある黒子がセクシー。

 彼女の後ろを追い、学生食堂に来た。奥野さんはメニューを見上げ、髪をかき上げた。

「カツカレーと、フルーツヨーグルト」

「それでいいの?」

「ええ」

 もっと注文されるかと思っていた。俺はメンチカツカレーを注文し、向かえの席に腰掛ける。奥野さんは髪を一つに結び、お盆を受け取った。

「感謝するわ。お腹が空いていたの」

「そっか。ちょうど良かった」

 気の利いた台詞も言えないまま、二人でいただきますをして食事にありつく。スパイシーで、後からけっこう辛みがくる。甘いカレーを好む人にはきついかもしれない。メンチカツは揚げたてでサクサクだった。

「美味しそうに食べる女子って、いいよね」

「……………………」

 スプーンを止め、奥野さんはじっと俺を見つめている。

「それ、止めた方がいい」

「それ?」

「美味しそうに、のくだり。たいていの女子は、どうせ痩せていて可愛い子が美味しそうに食べるところが好きなんでしょ、だと知ってるから。美味しいものは太るのよ」

「え、ええ? そう聞こえるの?」

「むしろ、そうしか聞こえない」

「ごめん」

 素直に謝るしかない。そんなつもりではなかったが、余計に付け足しても言い訳がましい。

「別に。あなたがそういう人でないのは、分かるよ」

 そういう人。ほとんど会話を交わしたことがないのに、彼女の目には、俺はどう映っているのだろう。

「お弁当の話をしてもいいかな?」

「…………何が聞きたいの?」

「本当に美味しかったよ。奥野さんが作ったの?」

「ええ。急に渡して悪かったわね」

「いやいや、全然! 多分、誰かと食べるものだったんだろうけど、俺は嬉しかったよ」

「……………………」

 もらったときは、男としてちょっと有頂天になったりしたけれど。冷静になると、俺宛の弁当じゃないことくらい分かる。渡されたとき、彼女の目は髪の毛と同じ色に染まっていた。髪は綺麗なのに、目は絶望的に死んでいた。不必要とされた豪華な弁当は、昼食と夕食に分けて有り難く胃に収めた。

「奥野さんはさ、俺を救ってくれた人でもあるから」

「どういうこと?」

「弁当のおかげってこと」

「そんなにひもじい思いをしていたの?」

「お腹は空いていたけどさ、精神的な面でってこと」

 遠足だったり、運動会だったり、みんなそれぞれ弁当には想い出深いものがあると思う。俺は真逆で、とても怖いもの。苦手な食べ物はなんですか、と聞かれたら、間違いなく弁当と答えるだろう。けれど理由を述べるには、まだ勇気が足りない。誰宛の弁当だったか聞けないくらい、肝が小さい。

「お礼」

 短い言葉で、手のひらにサイコロみたいなものを二個乗せてきた。

「北海道のキャラメル。片方は外れだから、お腹が空いたときに食べてみて」

 クールな目に、茶目っ気が宿る。いい感じに話が盛り上がっている。今がチャンスだ。これを逃したら、次はいつ話せるのか分からない。

「良ければさ……連絡先を交換してくれないかな」

 情けない声に彼女は目を見開くも、要求に答えてくれた。通話アプリのIDを交換し、彼女は席を立った。トレーの皿には米粒一つ残っていない。

「またね。花岡」

 俺の名前を知っていたんだと感動するが、通話アプリに名前が出ているからだと、分かりやすいほどがっかりする。いろんな意味で、彼女は気になる存在だ。ミステリアスな雰囲気も、気掛かりにさせている。

 残ったカレーを平らげ、俺は元気よく食堂のお姉さんにごちそうさま、と伝えた。この後はいよいよバーテンダーのアルバイトだ。とは言っても、お試し期間となる。大学を出て、エレティックに向かった。

 一度目ほどは迷わないだろうと思っていても、すでに怪しい。隠れ家的なお店みたいで、ちょっと楽しくなった。

 ドアを開けるも、鍵が掛かっている。中にいるだろうから連絡をしようと端末を取り出すと、メールが届いていた。

──裏口から来てくれ。

 短文には暗証番号の四つの数字が書かれている。ビルの間の狭い隙間を潜ると、防犯扉があった。数字を入力すると、あっさり開く。

──入りました。

──エレベーターで下まで降りろ。

 がたつくエレベーターだ。けっこう古い。止まったりしないだろうか。

 エレベーターの扉が開くと、エレティックの香りが漂ってきた。アルコールだけではなく、店特有の匂い。俺はとても好きだ。

「早かったな。おはようございます。本日もお願い致します」

「おはようございます。お願い致します」

 異国の人は日本式の挨拶もお手のもので、俺も見習い頭を下げた。

「来るときに扉があっただろう? そこが控え室だ。着替えてきてくれ。エプロンがある」

 引き返し、ドアノブを回してみると、エレティックとはまた異なる落ち着いた空間が広がっていた。

 俺の住んでいる部屋よりも広い。学生が住む部屋が店の隣にあるみたいだ。ソファーとテーブル、ベッド、簡易のキッチン。奥にも扉がある。こちらはトイレとシャワールームだ。俺の知っている控え室とは違う。

 ソファーに畳まれているエプロンを身につけた。これだけだろうか。他には用意されていない。

 フロアに戻ると、ルイは頷いた。

「衣装はこれで大丈夫ですか?」

「問題ない。キーホルダー等の音が鳴るようなもの、ネクタイ、眼鏡は禁止。動きやすさと最低限の身だしなみがあればいい」

「眼鏡も禁止?」

「もし落ちてガラスに当たったら、お前が怪我をする。もし掛けたい場合は相談してくれ」

 ジーンズにパーカーは良いのか。俺の普段の服装だ。

 まずは皿洗いからで、目立たない薄手のゴム製の手袋を渡された。掃除で使う色のついたものは、場に相応しくないというのが理由らしい。

 昔のバイト時代を思い出して、少し心臓がおかしくなった。

「難易度の高い話をするが、指紋すら残さないレベルで洗ってほしい」

「あ」

 脆そうだと考えながらしていたせいか、カクテルグラスが割れてしまった。

「……………………」

「ご、ごめん…………」

「気にするな」

 ぱっかり割れたグラスをビニール袋に包み、ゴミ箱行きだ。お試し期間とはいえ、いきなりの失態はさすがに落ち込む。

 次は掃除の仕方を教わった。水滴が一滴も落ちていないようにテーブルを拭き、椅子の埃取り。掃き掃除は最後。これで準備完了となる。

「洗い物は最後だが、今日はやり方を教えるために、最初に新品のものを洗ってもらった」

「俺は新品のカクテルグラスを割ったのか……」

「情のないグラスで良かったじゃないか」

 有り難い慰めの言葉だ。

 十七時開店で、ドアプレートをOPENに変える。一時間ほど経ってもお客さんは来なかった。俺に払える給料はあるのか、ルイはご飯食べていけるほど稼いでいるのかと心配になっていたが、目線でそわそわするなとたしなめられた。

 一時間半が経過し、ようやく初めての客人がやってきた。どんなお客さんが来るのだろうと心待ちにしていたのだが。

 ドアが開くと、耳に馴染む気持ちの良い音がする。ドアについている鈴の音だ。風鈴とは違うけれど、ここがバーだと安息をもたらしてくれるような音だ。

「いらっしゃいませ」

 ちょっとどもってしまった。ルイは滑らかに出迎えの言葉を口にする。よそ行きの声だ。

「……………………え?」

 初めてのお客さん……のはず。目の前にいるのは、俺が想像していたイメージから外れた客人が佇んでいた。

「あ、あの……ここね、お酒を飲む場所なんだ」

「しっています。だからきました」

 利発と言えば聞こえはいい。小さな少女は俺を見ていない。視線の先は、背後にいる美しき異国人だ。

「この人はだれですか? うわきあいてですか?」

「よ、よく知ってるねえ……」

「ひていはしないんですか」

「……店長、助けて下さい。心が折れそうです」

「花岡、通してやれ。彼女の指定席がある」

 避けると、彼女は俺を完全にスルーして、五席あるうちの真ん中の席によじ登った。慣れた仕草は俺よりも店に馴染んでいる。

 背中には、日曜日朝に放送されているアニメのリュックだ。多分、年齢は五歳か六歳くらい。口調は大人顔負けでも、こういうところは可愛らしい。

「いつものやつを」

「かしこまりました」

「ええ? ちょっとルイ……」

 初めてのグラスが登場した。空気に触れる面積が大きく、口が大きく平たい。テレビでシャンパンタワーを作る際に使用していた気がする。

 冷凍庫から意外なものがお出ましだ。出てきたのは、白黒の模様が描かれている箱。牛乳パックも含め、白と黒のホルスタイン模様があると、異常に美味しそうに見える。

 中身はアイスクリームだ。アイスクリームスクープで丸を作り、グラスの中に落とす。ナッツを振りかけ、ピーナッツバターをひと掬い脇に寄せる。小さなスプーンを添えて、少女の前に差し出した。

「お待たせ致しました。アイスクリームでございます」

「ありがとうございます」

 しっかりとお礼を言い、少女は小さな口の中にアイスを運んだ。足をパタパタ動かすのは、幸せの証。

「本日はどのようなご用件でしたか?」

「ルイにあいにきた」

「光栄ですね。あなたがここにいらっしゃると、お母様はご存知ですか?」

「………………おいしい」

「それは良かった。お父様はどちらに?」

「しごと。いつもいないもん」

「可愛らしい鞄ですね。お預かり致しましょう」

「うん。たからものがね、入ってるの」

「細心の注意を払います」

 女の子は覚えが早いと聞いたことがあるが、根拠がなくてもこの子は利発だ。ナッツの良い音がする。口に入っていない状態でお喋りになるあたり、親のしつけだろう。

「花岡、相手をしてくれ」

「ええ、俺が?」

「頼んだぞ。それとこれ以上アイスを与えないように」

「了解」

 子供と触れ合う機会は少なすぎて、正直どうしていいか分からない。今、一番しなければならないことは、ねだられたときの対処法だ。

「アイス足りない」

 そうきたか。分かっていた。ルイ相手だと拒否されると踏んでいるので、俺に目をつけたのだろう。いくら口がよく回っても、このへんは子供らしい。

「お名前はなんて言うの?」

「あかり」

「あかりちゃんね。なんで一人で来たの?」

「ルイとね、けっこんするから」

 ませた子だ。猪突猛進というか、だがこれくらいの熱量は大人も見習わなければいけない。

「お母さんは家にいるの?」

「アイス足りない」

 ルイも焦っていないし、子供が歩いて来られる距離だろうけれど、田舎人の俺としては、恐怖を感じてしまう。

「あなたはルイのなに?」

「えーと……見習いアルバイトかな」

「なにそれ」

「ここで働くかどうか、考えてるところ」

「ふーん」

 俺のことは興味なさげだ。

「どうしてルイが好きなの?」

「だってね、いつもアイスくれるから」

 食べ物に釣られたわけだ。気持ちは分かる。幼少期、俺もお菓子をくれる大人が大好きだった。ついでにお年玉をくれる大人も。

 ちょっとした違和感がよぎり、正体を暴くべく、あくまでさらっと口にした。

「ママのお名前はなんて言うの?」

「……………………」

 やっぱりだ。この子は、母親を語ろうとしない。分かりやすいほどに押し黙る。

「…………わかんない」

「ママの名前が?」

「ねー、アイスは?」

 これくらいの年齢のとき、俺は父親の名前を言えた。個人差はあるだろうが、利発なこの子が言えないとは思えない。

「パパの名前は?」

「てつろう」

 パパは言えるのか。スプーンを持って冷凍庫から目を離さないまま、元気に答えた。

「おにいちゃんのおなまえはなんですか?」

「しきだよ。花岡志樹」

「しき、アイス早く」

 出会って数十分で『お兄ちゃん』から『志樹』に格上げされた。

「アイスはね、終わりなんだ」

 絶望的に口が歪む。俺はお試しアルバイトで、立場上、店長の言うことは絶対だ。

「しきはママとおなじ……」

 口だけではなく、目も「志樹が嫌い」だと訴えている。ママと同じであるなら、きっとママも……そういうことだ。

 少し、この子に同情に似た気持ちが沸いてきた。

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