第2話 初・カクテル

 重たい荷物をテーブルに置き、木箱の中から一つ一つ丁寧に冷蔵庫に並べていく。鮮やかな色合いのフルーツたちは、俺に食べられるのをご所望しているか聞きたいが、残念ながら迷宮入りだ。

 明日の朝食に食べろとデパ地下のパンまで買ってくれ、これはテーブルに置いたままにした。渡されたものがもう一つある。

──ルイ・ドロレーヌ。バーテンダー。

 財布から取り出した名刺には、カタカナでバーテンダーと書かれている。アクション俳優ではなかった。住所は池袋駅の東口を出て、家電量販店の連なる道を歩く。交番を抜け、四方八方に分かれる大きな道路に出たら右に曲がる。これまたしばらく歩いて、古びたビルの地下一階。店の名前は『Hérétique』。なんて読むのだろう。シンプルな名刺だが、複雑すぎる単語がある。

 バーテンダー。お酒が好き、カシャカシャ、宝石みたいな液体を提供、妖美、そして夜のお仕事。俺がバーテンダーから連想したイメージがこれだ。家が酒造家ということもあり、お酒とは縁がつきまとう。子供の頃から日本酒の匂いを嗅いできたせいか、アルコールには強かった。顔が赤くなる程度であまり酔わないし、過去の飲み方を思い出してみると、どの程度まで飲めるか身体や意識との戦いで、それは初めて飲酒したときから備わっていた。多分、園児だった頃から父親に飲み方を聞かされ続けたおかげだと思う。俺の家族も皆強い。

 けれどそこまで人生を支えている液体でもなくて、実家から送られてきたり、大学の飲み会で飲む程度だ。毎日飲むものでもない。あとは料理で使う。

 アルバイトのない日に来てほしいと言われた。正直、バーテンダーという職業より、ルイという人物に興味を持った。書いてある通話アプリの連絡先にメールを送ってみると、ご丁寧にお待ちしております、と一言。

 大学を出た後、池袋にやってきて、小さな地図を頼りに二十分ほどさ迷った。本当はもっと早く着くはずが、妖精さんの悪戯により遅くなってしまった。大通りを通った後は、小道を余計に何度も曲がってしまった。

 ドアを軽く叩くが、返事はない。こっそり開くと、夢の空間が広がっていた。

 カウンター席が五席、ソファー席もある。それほど広くはなく、こじんまりとしているが、ひとりで営業するには難しそうだ。他に従業員がいるのだろうか。

「ようこそ、エレティックへ」

「うわっ」

「カウンター席でよろしいでしょうか?」

「ええ? うん、あの、大丈夫です」

 店の名前は判明した。『Hérétique』と書いて『エレティック』。横から出てきた男は、俺を脅かすつもりなのかそうじゃないのか。少なくとも、心臓に負担を強いられた。

「ご案内致します」

 後ろを振り向いた男の長髪は、この前と同じように水色のリボンでまとめられている。カウンター席の真ん中を指定され、おとなしく座った。

「あのさ……素敵なお店ですね」

「左様でございますか? ありがとうございます」

 メニュー表を差し出された。ありすぎてどれがいいのか分からない。けれど、甘口なのか辛口なのか、度数まできっちり表示されていた。分からないけれど、分かりやすい。カラーだし。

「ご存知のカクテルはございますか? メニュー表を見ずに、言えるようなものは」

「えーと……、カルーア・ミルク、ミモザ、マティーニ、カシス・オレンジ……あとは塩で飲むやつ」

「ソルティ・ドッグでございますね」

 ルイは喉の奥で笑った。

「どのようなお味がお好みですか?」

「日本酒でも、甘めが好きです。辛口より甘口」

 市販で売られている日本酒の種類を上げてみた。頷いているが、日本酒の種類が分かるのか。

「ならば、カルーア・ソーダがよろしいかと」

「カルーア・ミルクじゃなくて?」

「ソーダです。コーヒー・リキュールに、炭酸水を混ぜます」

 まだアルコールを摂取していないのに、じんわりと暖かさが広がっていく。会って二回目なのに、背中がむず痒くなる気持ちに名前は付けられない。

「お好きでしょう?」

 これだ。もし女子なら、一発で落ちていたと思う。俺ですらおかしな気持ちになった。モテる男はこういう男か。肉を焼くのに夢中で、あまり聞いていないと思っていたのに。

「コーヒー・リキュールと炭酸水を入れ、軽くかき混ぜます。製法はビルドでございます」

 ビルド。新しい単語が出た。

「螺旋階段みたいなスプーンだな」

「バー・スプーンだ。失礼、バー・スプーンでございます」

「普通でいいですよ」

「普通、でございますか? 人により、性別により、国により、万人の道理はそれぞれ異なります」

「ちなみに出身国は……」

攪拌かくはん

 氷がグラスに当たる音は美しいが、スプーンの接触音は鳴らない。どういう回し方をしているのだろう。持ち方は独特だ。

「かくはん? 混ぜるってこと?」

「軽く混ぜる、ですね。ステアとも呼ばれます。ステアという製法もございますので、かき混ぜるときは、私は撹拌という言葉を用いたりします。出来上がりました」

 専門用語のオンパレードに頭が痛くなった頃、目の前に置かれた。グラスにはレモンの切り身がかかっている。日本酒を専門とする俺からしたらお洒落すぎる。

「レモンはサービスです。お好きなタイミングで沈めて下さい」

 試しに一口飲んでみると、さっぱりした炭酸の中にコーヒーの味がする。独特だ。レモンを軽く絞って飲むと、柑橘の爽やかな香りが広がる。

「いかがですか?」

「なんていうか、炭酸コーヒーなんて初めてです。俺はレモンは入れない方が好きかな。あ、慣れてきた。三口目辺りから美味しく感じてきた」

「正直な感想は有り難い」

「だってしゅわしゅわするコーヒーですよ? 馴染みませんって。日本全国、売ってないし」

 言い過ぎかもしれないが、それくらいには見たことがない。

「今さらですけど、他のお客さんは?」

「本日はお休みです」

「え? すみません」

「構いません。むしろ、都合が良かった」

 試作品をいろいろ試していたために、店にいたらしい。

「他の従業員は?」

「辞めてしまい、非常に困っている。それほど規模のある店ではないが、洗い物など細かな仕事もあるのでな」

「でも……なんで俺なんですか? あなたと仕事がしたいって人、いそうなのに。あ、もしかして仕事になるとスパルタになるとか?」

「スパルタかどうかは分からん。それは受け手がどう思うかだろう」

 焼き肉屋でご一緒したときの口調に戻った。なぜだか安心する。

「条件がある。酒をそれなりにたしなめる、強い。以上だ。強いというのは、肉体的な強さの方だ。身体つきがしっかりしている人」

 二つの条件は、上には上がいる。数字化できない何かが彼の中に存在し、俺は超えた人間に映ったのだろう。実際、そんなことはないんだけれど。

「他にもいろいろあるが、まずはこの二つ」

「俺、カクテルなんて作れないですよ?」

「作れる人間を雇うのは簡単だ。問題は人間性」

「妖精みたいな人に言われてもねえ……俺が道に迷ったのは、ルイのせいかもしれない」

「お前は何を言っている」

「人間性って?」

「……初対面のときだ。他人の命も守ろうとしただろう」

「あ」

 腰を抜かした女性も引っ張ろうとした。実は犯人の一味で、俺はまったく気づかなかったのだが。

「そういえば、なんで分かったんですか? あの女性が覆面男の仲間だって」

「覆面男は何度も耳を気にしていた。音を聞き、誰かからの合図で動いていると察した。スマホを弄っていたのと、ソファーの裏側も犯人側も、死角にならずに見渡せる位置にいたのは、あの女だけだ」

「だから俺に動くなって言ったんですね」

 あの女性からルイのことは見えなかった。正義の味方の悪巧みは、俺が壁になったおかげでばれずに済んだ。

「話を戻そう。カクテルは私が作る」

「俺は洗い物をしたり、お酒を運んだりってこと?」

「ああ。ちなみに今は何のアルバイトを?」

 喉まででかかった声を飲み込んでしまった。ルイは目を細める。仕事用の髪型なのか、前髪もすべて後ろに回し、首元でリボンで一つに結ばれている。

「あー、えーと……、清掃員。けど、そろそろ辞めようって思ってたから」

「平気なのか?」

「はい。新しいアルバイトを見つけようとしていたんです」

 これは嘘ではない。訝しむ店長に、身振り手振り説明する。

「清掃の仕事がない日はいつだ?」

「今週の土曜日はないです。ちなみにプライベートの予定もなし」

「ならばその日にきてくれ。お試しでアルバイトをしてみてはどうだろうか」

「俺にとって条件が良すぎる気がするんだけど……」

 芸能人でもなんでもないが、何かの企画のドッキリカメラと疑ってしまう。グラス洗いのたかだかアルバイト風情に、ここまで考えてくれるものだろうか。

「大事な従業員になるかもしれないだろう? 人手不足は本当なんだ」

「大事な……なんか涙が出てきた」

「まだアルコールは摂取できそうか?」

 ルイは空になったグラスを見る。

「余裕です」

「ならば、涙も引っ込むカクテルを作ってやろう。強めのカクテルだ」

 俺に日本語が一切ないラベルの貼られたボトルを見せた。発音良すぎてなんて言ったのだろう。

「……アプサント?」

 続けて、また何か言った。これは多分、分かる。褒め言葉だ。

「トレビアン?」

「国際語を学んでいるだけはあるな。正解だ。アプサントは日本では馴染みがない。アブサンという名前で出回っているが、この国で手に入れるのは容易ではない」

「どんなお酒なんですか?」

「簡単に言うと、マリファナのような酒」

「え」

 俺は目を丸くした。マリファナは入っていないだろうが、日本ではアブサン以上に馴染んではいけないものだ。けれど日本では、マリファナは一つの歴史がある馴染み深いものでもある。

「アブサンの歴史はとても面白いものが残っている。バーテンダーの世界にのめり込ませてくれた酒の一つだ。これは日本でも販売されているラム。アブサンの説明を先にしたが、ベースはラムだ」

「あのさ、カクテルにふさわしくないものがあるんだけど……」

 どうみても鶏卵がある。それと、木の器に入った物体W。白くて、サラサラしている。まさか。

「マリファナの話をした後にそれ? 中身はなんですか?」

「マリファナだ」

「嘘だろ……」

「……ただの砂糖だ。マリファナはこういう色ではない。それと卵。かなり強いため、ラムは少なめにする」

 強いと口にしたのは二回目だ。そんなに飲みづらいカクテルなのだろうか。

「あっそれだ! バーテンダーがよく手にしてるやつ!」

「…………これか? シェイカーと呼ばれている」

 バーテンダーといえばシェイカーというくらい、詳しくない俺でもセットにするほどお馴染みだ。通称シャカシャカ。むしろ卵や砂糖よりしっくりくる。

「なんでそれを使わないでカルーア・ソーダを作ったのかと思って」

「お前はコーラを飲むとき、よく振ってから飲むのか?」

「理解しました」

「そういうことだ。ではご説明致します。卵を使用しますが、正確に申しますと、卵黄です」

 対俺モードからバーテンダーモードに変貌する。こういうところはさすがプロで、かっこいいと思う。

 数種類の酒をシェイカーに入れつつ、説明も織り交ぜながら、卵黄と卵白を分けていく。未だに怪しんでいる物体Wと卵黄も混ぜ、蓋を閉めた。

「おお、おお……おおっ」

「なんだ? 失礼、なにか?」

「めちゃくちゃかっこいい」

「左様でございますか。このカクテルを作るときは、あなたの仰るシャカシャカとやらを、時間をかけて致します」

「なんで?」

「卵黄が混ざりにくいのです」

 シェイクするたびにリボンに結ばれたハニーブロンドが揺れた。

「今度は違うグラスだ。シャカシャカもだけど、こっちのグラスの方がカクテルって感じがする」

 逆三角形のグラスだ。大きめの氷が入れられていて、グラスを冷やしている。

「名前はそのまま、カクテルグラスと言います。ショートカクテルを作る際に用いられます」

「さっきのはロング?」

「左様でございます。ロングカクテルです」

「グラスが短いからショートかあ」

「……この辺りは、次回があれば」

「あれ? 間違った?」

 氷を捨て、水滴を払う。シェイカーの蓋を開け、ゆっくりと液体を注いでいく。

「めちゃくちゃ綺麗……ちょっとルイの髪の色に似てるな。初めて触れるカクテルがこういう色で、なんだか運命を感じるよ。カルーア・ソーダは俺の髪色みたいだったし」

「知っていて言ったのか?」

「何が?」

「……………………」

 無言で置かれた。目が飲めと言っているが、強いと言われたり白い粉だったり、心配になる。

「一気には飲み干さないように」

 不安の色を察してか、ルイは忠告をした。

 香りはフルーティーで爽やかな香りだ。

「……いただきます」

 飲むというより、唇につけてみた。乾燥でかさついた唇が染みて、ヒリヒリして熱がこもる。恐る恐る液体を口に含んでみると、張りついた部分から答えようのない熱さが広がっていく。

「きっ……強烈……喉が焼ける……なんだこれ……ごほっ」

「どうぞ」

 ミネラルウォーターが注がれたグラスを受け取った。冷たくて、炎上していた喉が鎮火していく。

「焼け野原になったんだけど。味が個性的すぎません?」

「目覚め酒という呼び名がある。アイ・オープナーにふさわしいだろう」

「確かに目は覚めましたけど……ルイは好きなんですか?」

「それなりだ」

 それなり。なんとでも取れる日本語だ。なぜ彼はこんなに日本語が上手いのだろう。きっと聞いても、答えてくれない。

 カクテルグラスを押し、水の入ったグラスを持った。

「俺……普段は水はあまり飲まないんだけどさ、こんなに美味いものだと思わなかったよ」

「それは良かった。軟水を使っている。日本の水は質が良い」

 ルイはカクテルグラスを手に取り、一気に流し込んだ。顔に変化は見られない。美味しいとか、舌が点火したとか、ミラクルを起こしているとか、何にもない。やせ我慢をしている感じにも見えない。

 カウンター越しに目が合った。すぐ逸らしたのに、忘れられないほど焼きついてしまった。美しいとは、こういう人を言うんだと思う。届かなくて触れられなくて、初対面のときに感じた彫刻というのは、間違っていないのかもしれない。俺から視線を合わせるのはいいけれど、あちらが向けてくるものに合わせるのはどうも緊張する。

 手厚い歓迎にお礼を伝え、家に帰った。池袋から乗り換えもなしに安息の地に辿り着ける賃貸マンションが気に入っている。商店街は闇に包まれているが、夜の店は明るさが灯っている。

 今までは気にも留めていなかったが、近所にもバーがあるかもしれない。探してみるのも楽しそうだ。

 まだ寒い三月の夜、家のドアを開けた。

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