バーテンダーL氏の守り人

不来方しい

第1話 大学生とバーテンダー、最悪の出逢い

 俺は今、人生最大と言っても過言ではない岐路に立たされている。というか、死ぬ。選択肢を間違えたら、命は一瞬で尽きる。

 おもちゃのように見えるが、黒光りにどす黒く輝いている物体Gは、先端から出た弾が本物だと示している。

 ソファーの下に隠れ、落ちたオレンジを拾って袋に入れる。それどころではないと分かっていても、こういうときだから気になってしまう。観葉植物は綺麗に整えられているとか、防犯カメラはちゃんと作動しているのかとか。

「お前、そこで何してる!」

「ひっ…………」

 携帯端末を弄るサラリーマンに銃を向け、悲鳴が起こる。

 女性は腰が抜けたのか、痙攣して動けなくなっていた。

「お姉さん、こっち」

 手招きして、こっそり呼ぶ。頭を振るだけで、彼女は移動すら困難になっている。ショルダーバックを膝に置き、陰で端末を光らせているが、あの様子だと警察に通報すら無理だろう。

 左側からパーカーを引っ張られた。

「うわっ……」

 驚くだろう。綺麗な顔を目の前にしては。

 鼻筋も唇にかけてのラインも、美しい。どこかの美術館の彫刻で見た。勝手に動き出しているんじゃないのか。彫刻は人差し指を唇に置いた。絵になる。

「武道の経験が?」

 彫刻が喋った。声もいい。こんな状況なのに、ずっと聞いていたくなる。動くな、とたしなめられてしまった。

「武道っていうか、趣味でボクシングをやってるだけです」

「充分だ」

 男の口角が上がった。何が充分なのか。

「金を出せと言っている男が持つのは、おもちゃの拳銃。本物は一丁だけだ」

 ということは、鞄にお金を入れるよう指示をしている男が持つものは、偽物だ。ただし、男性の言うことが本当であれば。

「日本語、上手ですね」

 空気を読まない発言のおかげで、男は顔をこちらに向けた。正面から見ても、顔が整っている。なんだか恥ずかしくて、目を逸らした。イケメンというより、美人の方がしっくりくる。

「良からぬことを考えてます?」

「オレンジをもらえるか?」

「え、これですか?」

 質問のオンパレードを繰り返し、先ほど拾ったオレンジを差し出した。

「拳銃を持っている男は私が押さえる。後は頼む」

「頼むって……ちょっと」

 男は持っていたオレンジを投げると、覆面の男の後頭部に命中した。怯んだ隙に、右手でソファーの背もたれを掴むと、身体全体を乗り出した。ソファー、テーブルと踏みつけ、勢いをつけて見事な回し蹴りが決まる。狙ったのは頭ではない。向けられている物体Gだ。覆面男の両手ごと弾き、座り込んでいる女性の足元に滑った。スライディングをする拳銃に気を取られている隙に、男の覆面を剥ぎ取った。首に何かの刺青がある。

「その女に拳銃を渡すな!」

 女は手を伸ばすが、叶わなかった。銀行員が奪い取ろうともがき合い、近くにいた大柄な男性も身を乗り出した。

 バックに金を入れていた覆面男は、一人逃走を謀ろうとしている。俺は金髪の男と目が合った。こんな経験は一生来ないと思う。このために、長年ボクシングを習っていたのではないかと出入り口で待ち構え、鳩尾に一発入れた。

「てめえっ…………」

 動く彫刻は殴りかかる拳から身をかわすと、一つに結んでいた水色のリボンが解けた。癖のない髪は宙を舞い、俺には映画で観たことのあるスローモーションのように見えた。とにかく綺麗で、ずっと見ていたくて、彼のことが知りたくなった。まるで恋をしたみたいに、床に伸びる男のことは目に入らないほど、目が離せなかった。

 パトカーのサイレンが鳴り、ようやく白昼夢のような世界から現実に引き戻された。

「あ、あの…………」

 長髪の男性は俺を見る。目が合って、なんと声をかけようかと思っていた矢先、後ろ手に羽交い締めにされ、身体ごと床に放り出されていた。背中に誰かがのし掛かる。これもまた録画したアクション映画をスロー再生をしたみたいに、男性の大きく目を見開いた顔が頭に刻まれていく。瞼の裏に焼きついたまま、俺は気を失ってしまった。


 目が覚めると、いつもと違う固い枕の上で目が覚めた。枕ではない。ソファーの上だ。肘掛けを枕代わりにし、眠っていた。気を利かせてくれたのか、部屋が薄暗い。

 なぜ知らない場所にいるのか記憶を手繰り寄せていく。記憶障害でも何でもなくて、しっかりと刻んだ現実は、閉じかける眼を開けるには充分な出来事だ。ぽすん、と小さな音がした。頭をそちらに向けると、テーブルを挟んだ向こうのソファーに、映画のアクション俳優のような男が船を漕いでいる。首の座っていない大人は、数度背もたれに頭が触れたのち、俺の視線に気がついた。

「……起きたか」

「え、ええ……あの、ここは?」

「銀行だ」

 かすれた声で、事件現場をはっきりと口にした。

 スーパーで今日の夕食の材料を買い、お金を下ろしに銀行に向かった。帰ろうとしたとき、覆面を被った男がやってきて、拳銃を発砲。事件が起こった。すぐにソファーの後ろに隠れ、たまたま横にいたのが向こうに座るアクション俳優。俺も一員になれた。

「あなたが……運んでくれたんですか?」

「……………………」

 ここは肯定と取るべきだろう。ソファーがふたつ置かれた部屋は、おそらく休憩室。

「ありがとうございます。重かったでしょう?」

「いや……私も無理をさせた」

 今時、男性で一人称が『私』とは、絶滅危惧種だ。少なくとも、俺が生きてきた二十一年間では一人もいない。

「感謝状を送りたいそうだ。私と、お前に」

 二人称は『お前』。丁寧なのか何なのか分からなくなってきた。けれどざっくばらんの方が接しやすい。

「感謝状って……大袈裟な」

「犯人を見事なストレートで決めた。大袈裟でも何でもないだろう」

「でも、警察官がいっぱいいるところで受け取るんでしょう? 恥ずかしくて緊張して腹痛が起こりそう」

「ぶっつけ本番でノックアウトしたのにか?」

「それとこれとは違いますって」

 数回ドアが叩かれ、俺は短く返事をした。男は顔を傾け、寝る体勢に入ってしまった。俺が対応しろってことか。

「本当に申し訳ない。頭は大丈夫ですか? 手は?」

「え? いや、ちょっと痛いかな」

 今さらだが、頭がズキズキ痛みを発している。気を失ってここに来る前、誰かに、多分犯人に手を後ろに捻られ、前に倒された。そこで俺の記憶は途切れている。だと思っていたのに、申し訳なさそうに何度も頭を下げる警察官の話を聞くと、俺の腕を捻ったのも倒したのも警察官らしい。

「つまり、俺を犯人だと思って倒したってこと?」

「まあ……そういうことになります」

 踏ん切りがつかない態度は、プライドが邪魔をしているのかもしれない。腕を動かすと、利き腕はなんともない。痛いのは左だ。肘と手首を痛めている。

「念のため、病院に行ってほしいのですが」

「はあ……動かせるし、骨には異常はないと思います」

 念のためです、と二度繰り返した。

「そちらの男性が、あなたを病院に連れていくと言っていました」

「え」

 さっきは一言も言っていなかったぞ。

「今日はなぜここに?」

「お金を下ろそうと思って」

「一人暮らし?」

「ええ、まあ……」

「大学生?」

「二年です。あの、」

 雲行きが怪しい。まるで俺が取り調べを受けているみたいだ。

「すみませんねえ、一応形式があるもんで。そっちの男性は、日本語が苦手のようで。英語もダメって言うもんだから」

 そういうことか。詳しい事情が分からないが、秘密裏ひみつりに進んでいくワクワク感は、小学生だったときに秘密基地を作ったときの高揚感に似ている。お尻がむずむずするのを押さえながら、最低限の受け答えをしていく。

花岡はなおか志樹しき君?へえ、俳人に似てる名前だね」

「よく言われます。俳句は全然ダメですけど」

「それで、そこの男性とはどんな関係なのかな?」

 俺の話より、どちらかというと聞きたいのは彼。分かる。俺も聞きたい。お巡りさんに分かる、と言いたくなるけれど、あいにく秘密基地を共有する仲間だ。教えるわけにはいかない。というより、彼の名前も出身地もまったく分かっていない。

 感謝状の話を持ち出されたが、初めて聞いたというオーバーリアクションをし、丁重にお断りをした。やっと解放されて足音が遠ざかると、向かいの男性は肩が震える。

「警察は苦手なんだ」

「得意な人も珍しいですよ」

「二度も助けられたな。病院に向かおう」

 一度目は何だと言うより先に、男性は立ち上がった。ハニーブロンドと空色って、案外良い組み合わせなんだと初めて知った。

「いいですよ。そこまでしてくれなくたって」

「ついでに、オレンジの弁償もしたい」

「あ、あのオレンジって」

「床が柑橘系の良い香りに包まれている」

 潰れてしまってぐしゃぐしゃだろう。ビタミンを摂ろうと気紛れで購入した、一個五十八円のお手頃なオレンジだ。

 俺の意見なんて微々たるもので、まったく聞く気のない男性に、俺は後ろをついていった。

 病院に向かうまでの間、いろいろと世間話をさせてもらった。主に俺が話していたわけだが。彼は名前以外のことになるとだんまりで、分かったのは頑固なお詫びをする持ち主ということくらいだ。

「ルイ・ドロレーヌさん?」

「それでいい」

「ドロレーヌさん」

「名字で呼ばれるのは慣れない」

「じゃあ、ルイさん」

「ルイ」

 いいのだろうか。多分、高貴で余裕のある雰囲気からして、間違いなく年上だ。髪型も含めた珍しい顔立ちを見ようと、待合室では小さな子供が前をうろうろしている。

 磨かれた黒の皮靴が光を反射し、眩しかった。

 名前を呼ばれて診察室に行き、身に降りかかった災難を説明すると、医師は胡散臭そうな目で上から下まで見てくる。レントゲンの結果は、骨には異常なし。腫れには湿布と包帯で固定され、左手で良かったと安堵した。

 頭の専門家は別だと言われ、違う科に回された。二度目の説明をすると、やはり不審者を見るかのような目で見られる。

「脳はね、後からダメージがくることがあるから要注意ね。一応、湿布を貼って固定しようか」

 診察室から出ると、彫刻の回りは綺麗に人が裂け、少し離れたところからじろじろと視線を送っている。本物の美術館みたいで、俺は苦笑いをした。

 どうせなら雰囲気をぶち壊してやろうと、手を上げて名を呼んでみた。

「ルイ」

 初めてのファーストネームはぎこちないものだったが、男は表情から緊張が解けた気がした。わずか一瞬だ。俺の姿を見るなり、眉間に皺が寄っていく。

「見た目ほど酷くないそうです。頭は要注意って言われたけど」

 隣に腰掛け、天井を仰いだ。身長はさほど変わらないのに、足が長い。日本人は主食がパンより米を食べるから、腸も長くて胴が長いと小耳に挟んだことがある。本当かどうか分からないが、それにしたって何を食べたらモデルみたいになれるんだ。

「まだ歩けそうか?」

「全然余裕です。体力には自信があるし、銀行で寝て頭がすっきりしてます」

 しっかり薬も処方してもらい、駅のデパ地下に寄った。

「あ」

 オレンジの代金を支払いたいと言っていたが、それどころかスーパーで買い物をした袋ごとぶちまけてしまった。今日の夕食がすべて水の泡だ。ここで買ってもいいが、百グラムでなんでこんなにするんだというほど高級な惣菜たちに目を合わせられない。値札が怖い。

 目と言えば、ルイは俺と目を合わそうとしない。俺がじっと見ると一瞬だけ合わすが、気まずい空気が流れるのだ。

「夕食はここで食べて行けばいい」

 値段も見ずに、さらりと言う。それとも、何度か来た上での発言か。社会人の余裕を見せつけられた。

 縁のない、マダムが買いそうな果物屋の前で止まると、店員はにこやかにお辞儀をする。見栄えも兼ねると、ルイは素晴らしき客人なのだろう。俺を見ると、はにかんだ笑みを見せる。ひとりならば、すみません店間違っていますよと、思われると思う。

「どれがいい?」

「どれって……どういうこと?」

「好きなものを選べ」

 形の綺麗な果物が木箱に入り、いくつか並んでいる。

「オレンジなら……あそこに」

 ルイは一個売りの柑橘を一瞥すると、木箱に移し、選べと催促してくる。

「受け取れませんよ」

「私が支払う」

「でも。病院代だって立て替えてくれたし」

「……日本語は難しい。立て替えるとは?」

「代わりに払ってくれたってことです。後で返します」

「私は立て替えたつもりはない。どれがいい」

 嫌みのない、清々しい頑固だ。

 もうどうにでもなれと、オレンジの入った木箱を指差す。ルイは店員にこれが欲しいと伝え、皮靴と同じ色のカードを取り出した。アクション俳優と思っていたけれど、あながち間違いではないのかもしれない。

 まだお買い物をされるのならば、荷物の預かりサービスも行っておりますと、店員の有り難いお言葉だ。さすがに重い。閉店までは預かってくれるらしく、ぜひとお願いした。

「ありがとうございます。六十円もしないオレンジが進化しすぎました」

「それ相応の働きをしただろう」

 地下からエレベーターで上に行き、和牛の焼き肉屋に入った。選んだ理由を聞くと、個室があるかららしい。俺が思っている以上に、見た目で苦しんだ経験があり、苦労している可能性だってある。

「何がいい」

「値段が止めておけって訴えてきます」

「ならば値段を手で隠しながら、注文すればいい」

 むちゃくちゃだ。ルイはコース料理を注文すると言う。なら、俺も同じものだ。

 飲み物を聞かれ、ルイはフランス産のワインを、俺は迷わず日本酒を注文した。

「好きなのか?」

「普段はひとりで買って飲まないですけど、日本酒が好きです。実家が造り酒屋なんで、送られてくるんです。普段はお茶や炭酸ばっかり飲んでます」

「造り酒屋……」

「酒を造って、販売してます」

 目が合った。アンバーアイが驚いて、瞼が上に持ち上がった。

「アルコールは日本酒のみを?」

「ほぼ日本酒が多いですけど、他も飲みますよ。ビールとか、ワインとか。カクテルとか」

 ルイは人差し指で唇を数回叩き、何か考え事をしている。目の前の肉が焦げているんじゃないのか。ひっくり返してやりたいけれど、人に触られるのを嫌がる人もいる。焼き肉や鍋は、こだわる人が多い。彼はどちらだろうか。

「花岡は、大学生だと言っていたな」

 花岡。俺にはファーストネームで呼ぶように指示を出したのに、当の本人はファミリーネームだ。

「はい。大学生です」

「専攻は?」

「一応、国際言語科です」

 『一応』がつくのが悲しいところだ。

「うちでアルバイトをしてみないか?」

「アルバイト? 仕事は何をしているんですか?」

 外国語を学んでいるはずなのに、本場の発音には一切ついていけない。バフマン、またはバルマンと言い、焦げた肉をやっと皿に置いた。

「どうする?」

 首を傾げると長い前髪が揺れ、妖艶な雰囲気を醸し出していた。

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