第6話 一方通行
腋を締めかけたとき、相手の男性は降参だと、手を頭より高く上げた。見知らぬ人だ。大学の関係者でもない。
「あかりの父です」
「こんにちは」や「初めまして」よりインパクトがあり、警戒心が薄れる台詞だ。その後に、ようやく「初めまして」が出て、深々と頭を下げる。俺も視界に入る程度には一揖した。まだイエローカードが手札にある状態だ。疑心は抜けない。
「あかりのことで話があります。もしお時間がありましたら、カフェにでも入りませんか? お金は私が出しますので」
信号を渡ればすぐにコーヒーショップがある。チェーン店でどこにでもある店だが、入店は初めてだ。
火照った身体は冷たいものを欲し、蜂蜜入りのアイスコーヒーを注文した。自称あかりの父は、ブレンドコーヒー。
飲み物が二つ届いたところで、男性は口を開いた。
「ご迷惑をおかけしました。夜に抜け出し、そちらのお店に行ったようで……」
「あの、なんで俺がエレティックの人間だと知ったんですか? 初めましてのはずなんですけど」
「いろいろ、調べさせて頂いたので……」
言い淀む様子からして、あまり口には出せない手段なのだろう。
「俺より、店長の方がいいと思いますけど。ただのアルバイトの後をつけるより、よっぽど店やあかりちゃんのことも分かると思います」
「理由は二つあります。ルイさんは消えるんです。あれだけ目立つ風貌なのに、気づくと行方をくらましていて……こちらの手の内はお見通しだと、お会いすると笑顔で交わされます」
「忍者みたいな扱いですね」
確かにミステリアスな雰囲気はあるけれど、ちょっと大袈裟なんじゃないのか。だが、俺はルイがどこに住んでいるのかも知らない。距離が遠い。
「もう一つは、あかりは随分あなたに懐いているみたいで……」
「……何かの間違いじゃありません?」
「あかりは、家に帰ってきてからあなたのことを良く話してくれます」
あかり嬢の話を要約すると、ルイは結婚相手で、俺は中を引き裂く浮気相手だ。父親の話とは食い違う。
「アイスもご馳走になったようで、なんとお礼をしたらいいか」
「いえいえ、お母さんがお金を払って帰られたんですよ!」
「母親のことは、何か聞いていますか?」
「お母さんより、お父さんの話はよくしました。社長で仕事が忙しくて、なかなか家にいないと。寂しそうでしたよ」
「あなたは優しくて素直な人ですね。母親のことは、毛嫌いしていたでしょう? 大丈夫、察していますから」
嘘を吐くのは苦手だ。今のは嘘ではなく、肝心な話を誤魔化したたけだ。相手に悟られてしまうのは、よほど向いていないんだと思う。
「……本当のママじゃないとは、言っていました」
「確かにその通りです。彼女は私の二番目の妻に当たります。前妻は、私が不貞を働いたせいで愛想を尽かして出ていきました」
ドラマのような話で、真剣な目を見ていると現実だと突きつけられる。
「俺は……結婚もしていないし親の気持ちってものも分かりません。漫画や映画でもある話でも、いつも子供の気持ちが入り込んできます」
「そうでしょう。君くらいの年齢だと、それは自然なことだ」
上手い言葉が出てこなくて、注文した蜂蜜入りコーヒーを飲んだ。うまく酸味が抑えられているけれど、分量を間違ったら悲惨なことになりそうだ。コーヒーも蜂蜜も味が個性まみれで、協調性がない。そういえば、蜂蜜入りのカクテルってあるのだろうか。今度聞いてみよう。
「実は、妻のお腹には新しい命が宿っているんです」
「それは……おめでとうございます」
「ありがとうございます。あかりにはこれから伝えるつもりです」
賛辞を述べたのに、心のどこかは小さな針が刺さっていく。それは、俺がまだ大人になりきれていない子供だから。
「男として、責任は取るつもりです」
責任ってなんだっけ、と自分に問う。俺の場合は大学には真面目に通い、アルバイトもこなし、卒業してちゃんと就職すること。
「あの、本当に本当に、余計なお世話だと思うんですけど」
「構いません」
「あかりちゃんを生みのお母さんに会わせてあげられないんでしょうか」
月野さんもコーヒーカップを手に取った。お節介への反逆をどうするのか、考えているのだろう。間を取るのにコーヒーはちょうど良い。
「あかりは望んでいると言いましたか?」
「いえ、何も。俺の勝手な思い込みとありがた迷惑です」
月野さんの愛想のこもった乾いた笑いは、社会人としての余裕ある笑みに見えた。
「そうですね……」
どちらとも取れる一言だ。
「あかりに聞いてみます。私が一人で決めていいことじゃない。親馬鹿と思われるかもしれませんが、あかりはしっかりしてる子です。いつの間にかコーヒーの入れ方を覚え、私のために入れてくれるんです」
娘を思う月野さんは、親の顔をしていた。これだけメニューがあるのにメニュー表を開いた瞬間に決めたのは、思い入れがそうさせたのかもしれない。
「あなたなら、生き別れとなった母親に会いたいと思いますか?」
「え? えー……そうですね、それぞれ事情が違うというか、なんとも言えないというか……はは……」
月野さんは目を細め、コーヒーを飲み干した。
この人は「調べた」と言っていた。どの程度をどれほど調べ上げたのか。目を見られなくなり、背中が丸まる。
結局答えをはっきりしないまま、俺と月野さんは別れた。俺の冴えない表情とは逆に、月野さんは少し灰色の濁ったものが落ちた顔をしていた。
アパートに戻るが何かする気も起きず、俺はしばらくベッドに寝そべって携帯端末を弄っていた。誰からも連絡がない。ならば自ら行動すればいい。俺は一つの電話番号をタップした。
「も、もしもし……」
『ちゃんと連絡してこいって言ったでしょうが!』
「忙しかったんだよ」
『何が忙しいの?』
「あ、酔ってる?」
『酔うわけない、ただの水よ』
電話の向こうが騒がしい。特別な日でもないのに、宴会でもやっているかのようだ。あの家なら、毎日がお祭りみたいなものだろう。そして姉さんからすれば、日本酒もただの水だ。
「子供は大丈夫? 泣いてる声が聞こえるけど」
『旦那があやしてるから問題ない』
姉さんは実家の造り酒屋を継ぐため、一度は田舎を離れたが、大学を卒業と同時に戻った。学生時代に出会った今の旦那を連れて。騒がしい姉さんとは違い、とてもおとなしい人だ。
『ちょっと元気ないんじゃない? どうした?』
「勉強が忙しいだけだって。みんな元気にしてる?」
『この通りよ。毎日賑やか。それよりアンタ、バイトはどうなってんの? 新しいところは見つかった?』
「うん、一応」
『あんな危ないバイトは辞めなよ。精神的にも病みそうだし』
「四月中には辞めるつもりで話してるから」
『そう。次はどんなバイトなの?』
「夜の仕事」
『は?』
あれだ。期末テストが散々だったときと同じトーンだ。これはまずい。
「危ない仕事じゃないから! 大丈夫だよ」
『変な人と危ないことをしないでよ。東京のニュースを観るたびに、アンタが巻き込まれたんじゃないかって不安になるんだから。ちょっと前も銀行強盗があったみたいだし』
耳の痛い話だ。
「店長も良い人だし、大丈夫だって」
『良い人、ねえ……』
説教が始まりそうだったので、声を聞けて良かったと伝え、電話を切った。前は小言を言われるたびに喧嘩していたけれど、年齢を重ねるたびにこれも嫌いじゃないと思えている。母親のいない俺に、母親代わりとしても接してくれる良き理解者だ。旦那も子供も実家にいて、俺が独り占めをできなくなってしまったのは少し寂しい。
久しぶりの姉さんの声に、今日はゆっくり眠れそうだ。
手繰り寄せてなどいないのに、喉まで出なくていいものが溢れてくる。気持ち悪いが、空気ごと飲み込んだ。
「本当に……ありがとうございます」
遺族の方は何度も頭を下げるが、俺には感謝というよりごめんなさいに聞こえた。
「中は消毒してますので、入りましょう」
俺に仕事を教えてくれた先輩。マスクに顔が隠されているが、しかめっ面に違いない。そんな先輩とも今日で最後だ。
「よし、行くぞ」
トラックでここについたときから漂っていたが、玄関を開けると何とも言い難い悪臭が漂ってくる。四月だからまだいい。これが真夏や梅雨の時季は、日本にいるとは思えない世界が広がっている。窓も開けられないし、空調設備もつけられない。
黒い影。リビングには目に見える誰かが存在していた跡。意識したわけではないのに、両手を合わせていた。隣にいる先輩も同じ。遺族の方は、すすり泣く。これがけっこう堪える。
「ここで……亡くなっていたんです」
見れば分かるとは口にしない。それより、今日は羽虫が沸いていないだけまだいい。遺族の話など耳に入らず、俺はそんなことばかり考えていた。遺族の悲しみより、目の前の仕事で精一杯だった。
これは必要なんじゃないか、とかそんな感情こそ必要無い。俺たちは清掃員らしく、掃除をするだけだ。カーペットとソファー、テーブル、雑誌等を外に運んでくる。都会は空気が悪いと田舎で散々言われたが、安全に酸素を吸える有り難みを自然界に感謝したい。
トラックで運ばれていく荷物を見送り、女性は最後にもお礼を述べた。今度は感謝の言葉に聞こえた。
「お疲れ」
着替え終わると、先輩が俺の肩を叩いた。
「お世話になりました。ありがとうございました」
「いや、こちらこそお前の明るさに助けられたよ。この後ひまか? 焼き肉でも食いに行かねえ?」
「……………………」
「冗談だって。何か食いたいもんでもあるか? 奢ってやる」
「アイスが食べたいです」
「アイス? 女子かよ。男二人で食いに行ってもなあ……俺の家に来るか?」
「ここから近いんですか?」
「池袋」
ちょうど、池袋のことを考えていた。今日は金曜日で、店長はどうしているだろうか。他の日はひとりで店を回しているのか。
「で、来るのか? バニラアイスならあるぞ」
「ぜひぜひ」
先輩の車に乗り、マンションまで案内してもらう。先輩の家族について聞いたことはないが、何も言わないとなると一人暮らしだろう。
「言っておくが、散らかってるぞ」
「そう言う人って、結局片づいてることが多いんですよね」
「期待すんなよ」
靴は履いているものも含めて二足、一人暮らしだ。リビングに通されると、ビールならあると言われたが丁重にお断りした。
「まさか本気でアイスを食べに来たってか」
「貧乏な大学生には、高いアイスもなかなか買えないんですよ」
「俺の学生時代を思い出すわ……特別に良いもん食わしてやる」
市販で売られている中でも、高級に分類するアイスクリームだ。滅多に食べられない。遠慮なく頂くことにする。
「美味しい……すげー美味い……美味いしか言えない……」
「そいつにお酒をかけても美味いんだぜ」
「リキュール・オン・アイスですね」
「知ってんのか?」
「ま、まあ……ちょっとだけ。部屋、けっこう片づいてますね」
「ああいう仕事をしてると、死を身近に感じてしまうしな。いやでも片そうって気になる」
全部食べ終えてしまった。先輩はお酒を飲んでいる。バーで働くようになってから、人が手に取るアルコールにも目を向ける癖がついた。酒屋の息子だけあって、日本酒だと特に目を凝らしてしまう。
「あーあ、今日で花岡は最後かあ」
「仕事もですが、心構えとかいろんなものを教えてもらいました」
改めてお礼を伝えると、先輩は俺を見てビールを煽る。冷蔵庫から二本目のビールを持ってきた。つまみもないし、ちょっとペースが早いんじゃないか。
「長年こんな仕事をしてるとよ、いろんな人に出会うんだ。気持ちも命もギリギリの仕事だろ? 良くも悪くも人が出る。お前は……その中でも特別だった」
「はあ」
「新しいバイトが入っても、二度来る人は少ない。大抵は部屋の状態を見て、そこで辞めようと思考が傾く」
「そうでしょうね」
「花岡は違った。初っ端から手を合わせただろう? しかも自然に。やろうと思っても、普通はそこまで頭が回らない。自分のことで手一杯になるからな。手を合わすってことは、相手を思いやる行為だと俺は考えている」
「俺だってそうですよ。今日も女性の話は、ほとんど聞いてませんでしたから」
「けど、部屋を綺麗にしてやろうとは思っていただろう? 相手を思いやれるお前に、いつも感心してた」
「ちょっと先輩、飲み過ぎじゃないですか?」
本当は違う。虫が沸いていなくて良かったと、自分のことしか考えていなかった。俺も……実は現場の空気に限界だった。それを伝えられない俺は、心の底から先輩を信用していないのか、信頼を失いたくないからなのか、判断がつかなかった。
「俺な、お前に惹かれてたんだよ」
「何かつまみでも作りましょうか?」
「……お前に、とても、興味がある」
「…………先輩?」
どういう状況だ、これは。
ソファーに座る俺の太股に手を置き、肩に手を回されている。先輩との距離感じゃない。触れられる箇所から、羽虫が沸いたような嫌悪感が生まれる。
「花岡……お前が好きだ」
「………………は?」
「お前に惚れてる」
「…………お酒……止めた方がいいんじゃ、」
言いかけて、息を呑んだ。
近づく唇に極度の不快感と敵意が溢れ、右手の肘でこめかみに一発当てた。反射的ものだったが、先輩は鈍い声を出してソファーから落ちる。アルコールが入っていて良かった。巨体がのしかかってきたら、逃げ出すのも困難だ。
「俺、帰ります」
鞄を引っ付かんで逃げようとリビングを出るが、背後から服の袖を引っ張られた。
「せんぱ…………」
地獄からやってきた使者のような、見たこともない真っ赤な目をしていて、アルコールだけのせいではない。血走った目に気を取られ、反応が遅れてしまった。今度は俺がリングに沈む。こめかみを拳で殴られ、目の奥に一瞬光が見えた。
「これだけ面倒を見てやって……なんで何も気づかないんだよ……っ」
話し合いで解決できる目をしていなかった。どちらかというと、雌を奪い合う雄同士の野生動物の目だ。戦いでしか快活できない。俺にできることと言えば、手にしていたリュックでおもいきり殴ることだけだ。ダメージはなくとも怯ませられるくらいにはちょうどいい。
野生動物らしく後ろから日本語ではない何かを叫んでいて、俺は必死にドアノブを回してマンションを後にした。
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