9 予定調和の悪役

 ジャックは、次々と襲いかかってくる警官を素手で転がしていく。日頃から鍛錬している成果だ。

 壁際に避難していた私は、大乱闘にまぎれて中年男が拳銃を抜くのを見た。


「ジャック、伏せて!」


 私が叫ぶと、ジャックはタイルに膝をついて姿勢を低くした。

 銃口が火を吹いて、彼の頭上を銃弾がかすめる。弾こそ避けたが、かがんだ隙をつかれたジャックは、警官によって後ろ手にひねり上げられてしまった。


「捕獲しました、ドードー警部!」


(この男、警部なの?)


 報告を受けた中年男、改め、ドードー警部は、拳銃をトレンチコート下のホルスターに収めて、再び取り出した懐中時計を確認する。


「午前九時三十三分十九秒、威力業務妨害の容疑で連行。連れていきなさい」

「待ってください」


 たまらず、私はジャックを連行する警官を呼び止めた。


「人の屋敷で騒ぎを起こしたうえ、使用人を連行だなんて失礼ですわ。ジャックが何をしたって言うんですか!」

「この青年は『切り裂きジャック』事件の重要参考人です。犯人である確率が、ロンドン中にいる全てのジャックの中で一番高い。他のジャックが5%の確率のところ、このジャックは95%の確率です」


「そんなはずはありません。ジャックは、ずっと家にいたんですから!」

「お嬢――」


 縄をかけられたジャックは、悲痛な様子で振り返った。


「――すまない」

「まさか、あなた……外に出たの?」


 私は絶句してしまった。にわかには信じられなかったのだ。ジャックが『アリス』の言いつけを破るなんて、今まで一度もなかったのに。


(よりによってこの事件で約束を破るだなんて)


 混乱する私の肩を、ドードー警部はポンと叩く。


「衝撃的かもしれませんが、人口過密に悩むこのロンドンでは、知り合いが何らかの犯罪をおかしている確率は三十三%もあります。階級別の割合もお教えしましょうか?」

「けっこうですわ……」


 力なく答えると、ドードー警部はあっさりと引き下がった。


「では、某はこれで失礼します。貴殿には、重要参考人の主人として取り調べを受けていただきたい。二時間二十四分後に迎えを寄越しますから、ご準備を」


 分単位の神経質な約束を取り付けて、警部一行は去っていった。


(ジャックが警察に捕まってしまった……)


 ふらついて倒れそうになった私は、力強い腕に抱き止められた。


「屋敷は貴族の王国だ。座り込んだりして威厳を損ねてはいけないよ」

「ダーク……」


 宣言通りお茶をしに来たのだろう。プレゼントボックスを三つも抱えた従者のヒスイを連れている。


「先ほど、警官を乗せたバスとすれ違ったよ。ヒスイが言うには、番犬君の匂いがすると言うんだ。何があったんだい?」

「ジャックが連行されたの。『切り裂きジャック』事件の重要参考人だそうよ」


「なぜ彼が?」

「分からないの。ジャックが何を考えているのか……」

「「どうしたの、アリス」」


 トゥイードルズが顔を見せたので、私はダークから離れた。ダークは、顔色をぱっと明るくして、うやうやしく胸に手を当てる。


「おはよう、二人とも。アリスが玄関先でうたた寝しそうになっていたので、面白い話を聞かせていたんだよ。早朝から家に警官が大量に押しよせてくるなんて、ぱっちり目が覚めそうだろう。今日は、虹色に光る貝殻を使った素敵なティーカップを持ってきたんだ。お屋敷に入れてくれるかな?」


「お嬢、何して……。ナイトレイ伯爵までいるじゃないの」


 騒ぎを聞きつけて、寝ぼけ眼のリーズまで現われた。ダークは私をリーズに託すと、双子の肩に手を当てて、ヒスイと共に屋敷のなかへ入っていった。


「なぜ玄関先で勢ぞろいしているわけ。それにしてはジャックの姿が見えないけど」

「それが――」


 私は、今し方ジャックが警察に連行されたことを話した。

 険しい顔つきで聞いていたリーズは、なぐさめるように私をハグしてくれた。


「大丈夫よ、お嬢。ジャックが仕事でもないのに殺人を犯すなんてあり得ないわ。警察も、すぐに間違いに気づいて解放してくれるわよ」

「そうよね……」


 私は、自分を奮い立たせて顔を上げた。取り調べまでの時間を使って、できるかぎりの情報を集めて、取調べにそなえよう。


(警部は、確率が高いと言っていたけれど、うちのジャックが犯人だなんて、絶対にあり合えないんだから)

 

 このときの私は知らなかった。

 前世で履修していたはずの『切り裂きジャック事件』が、予期しない者たちの恋わずらいによって、複雑怪奇に絡まっていることに。


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